悪魔と奴隷の願いの話

 なんでも願いを叶えてやると言われたら、果たしてお前は何を望む?
そう問われて、俺はいくらも間を置かずに結論を出した。腹いっぱいの飯に、柔らかく暖かい寝床。汚れた雨と殴りつける風から身を守れる場所が欲しい。
「それだけか? 欲のないことだな」
 問いかけを寄越した人物は、俺の答えを聞いて不気味に喉を鳴らした。顔の大分部を覆う布の奥から、くつくつと釜の煮えるような音がする。笑った、のだと思う。布のせいで表情が見えないどころか、身体に見合わない大きさの外套を頭から被っていて、仕草すら分かりにくい。だがきっと笑ったのだろう。こういう手合いはだいたい人を嘲りたいのだ。外套は古びているが派手な刺繍が施されていた。貴族や裕福な商人が着るような品だ。かつては裕福で何かしらの理由で掃き溜めに墜ちてきた連中は、より卑しい人間を見下して安心したがる。俺のように、生まれた時からぼろ切れのような、何も持たない人間を。
 しかし顔を隠した人物は、尚も重ねて問いかけた。
「そうだな、あとは復讐とかはどうだ? お前のあばら骨を折った奴を同じ目に――いや、何倍も痛い目に合わせてやるんだ」
 聞きながら、俺は痛む腹を押さえた。数日前に食い物を争ってやられた傷だ。これのせいで俺は道端から動けないし、水の一滴にすらありつけない。きっかけとなった相手を痛めつけたら、多少は胸がすくのかもしれない。
 だが俺は、無意味だ、と答えた。わざわざ復讐など考えずとも相手は近く死ぬ。そして飢えた野良犬か、倫理観を失った誰かに齧られて骨になる。此処はそういう場所だ。
 顔を隠した女――女だとあたりをつけた。男にしては声が細かったからだ。彼女は、思案するように目線を宙に泳がせた。顔を上げたことで僅かに被っていた外套がずれる。そして更に続けた。
「ならば美しい衣や宝石はどうだ? 襤褸を脱ぎ捨てて見栄えを良くすれば、お前でもそれなりになるだろう。きっと誰もが羨む」
 女の提案に、俺は軋む身体で頭を振った。着飾ることに意味を感じない。何を纏おうが水と食べ物がなければ人は死ぬのだ。
 ただ、聞きなれない言葉には少しばかり興味を引かれた。ほうせきとは何だ。そう訊ねると、女はにやりと口元を歪めた。布越しでもはっきりと分かるほどに。
「装飾品だったり、金の代わりだったりする石のことさ。色や形は様々だが、その価値と美しさは人を狂わせる」
 淀みない説明に、俺はなるほどと頷いた。見たこともないものを想像するのは容易くないが、こういうもののことかという例が目の前にある。
「ああ、つまり、あんたの目のような?」
 巻き付けられて布の隙間で赤い光が閃いた。先程外套がずれた時に垣間見た赤い瞳。血の色。炎の色。黄昏の色。その全てを内包した、命そのものの色。既に死にかけた俺の目に、それは鮮烈なまでに焼き付いた。美しさというものを理解できないまま生きてきたが、こういう色のことを言うのではないだろうか。
「私を侍らせようとでも? 悪魔の目だぞ。分かってるのか」
 俺の言葉に、女は僅かにたじろぐ様子を見せた。悪魔の目。そういえば聞いたことがある。悪魔は全てを惑わす赤い目を持っていて、人にとり憑いては不幸を齎す。望みを叶えてやると甘く囁き、最後は地獄へ落として悲鳴を糧とする。そういう生き物がいるのだと。
この女は、悪魔だったのか。
 だとしたら可哀想なことだ。狙いを定めた男には、もう悲鳴を上げる気力もない。大して惜しい命でもない。彼女の糧にはなれないだろう。だが、このちっぽけな魂と引き換えにして願えるならば。
「そうだな。俺は、その瞳が欲しい」
 今際の際くらいは、美しいものを見ていたい。生まれて初めて心を震わせた赤い瞳に看取られるなら、本望だろう。燃える色に呑まれて、みすぼらしい体は骨も残らない。野良犬に食われるより、ずっといい。
 女は暫し顎に手を当て、俺の顔を覗き込んでいた。意図は伝わっただろうか。どうか、俺の心臓が力尽きるより前に頷いて欲しい――そんな思いが通じたか、女は不意に被っていた外套を取り払った。長い髪がうねる。斑な黒と灰の髪が奥に、俺の求める色が見える。
「――いいだろう。その望み、叶えてやる」
 告げると同時に、女の顔を隠していた布が緩み剥がれだす。魚のような、獣のような、人と変わらないような、形容しがたい悪魔の相貌が晒されていく。
 恐ろしくはない。願いは叶うのだから。俺は凪いだ心のまま目を閉じた。

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