桜幻影

 雨に打たれた薄紅は、散ってもなお味気無い地面を彩った。女は傘も差さず、空を見上げる。
 ――雨の日の花見も乙なものだ、と。彼がそう言ったのは、いつの事だったか。灰色の空に浮かぶ桜は薄く靄がかかり、これはこれで幻想的な雰囲気で良いかもしれない。
「わたしは、いつまで待つのでしょうか」
 彼に会いたい。ここに居れば、きっと会える。その一心で待ち続けて、もうどれ程の時が経ったのかも分からない。しかし今日こそは、と女は思った。彼が好きだと言った雨の日の桜に、確信にも似た予感を覚えていた。どんなに微かでも彼の存在を見逃すまいと、霞の中に目を凝らした時だった。
「あっ……!」
 一際強い風が女の身体を煽った。桜と同じ薄紅の着物がはためき、艶やかな黒髪を宙に遊ばせる。散々雨粒と共に悪戯をした後、旋風は徐々に穏やかになっていった。女はようやく、瞑っていた目をゆるゆると開いた――すると。
「あれ、は……」
 何者かの話し声が聞こえた。そちらへ目をやれば、ひらひらと舞う花びらと霞の向こうに、待ちわびた人の姿を見た。以前とは違う。けれど懐かしいこの空気は紛れもなく彼が纏っていた物だ。
 ああ、と女は息を吐いた。どうやら向こうは此方に気づいていないようだ。それに誰か他の女と居る。けれど、構わなかった。こうして今一度彼の姿にまみえる事が出来ただけで、満足だった。女は艶やかな笑みを浮かべ、目を閉じる。
「これで、ようやく――」
 次の風に桜が舞った時、そこにはもう女の姿は無かった。

 風が薄紅の花弁を揺らす中、ふと視線を感じたような気がして男は足を止めた。
「どうしたの?」
 傍らの女が、訝しげに首を傾げた。ひとつの傘に入って歩いているので、必然的に彼女も立ち止まる。
「いや……今、女の人が居なかった?ピンクの着物の」
「……誰も居ないよ?」
 彼女はさらに首を捻った。気のせい、だろうか。ビニール傘越しに見た桜を、何かと勘違いしたのかもしれない。
「まぁ、いいか。それより早く行こう。この先が一番綺麗に咲いてるんだ」
「はいはい。まったく、よくこの天気で花見しようなんて思うわよね」
 うんざり、といった様子の相手に、男は微笑んだ。
「まぁそう言うなって。雨の日の花見も乙なもんだよ――」

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