猫と少女と希望の話

 少女がその場所を訪れたのは、偶然だった。人と物が溢れる王都。その外れにある、まるで同じ街とは思えない寂れた路地を、少女は一人歩いていた。長い間櫛を通していないであろう髪は土埃にまみれ、その隙間から覗く瞳は濁った泥水の色をしていた。着ている服は色褪せてあちこちが破けており、手足は枝のように痩せている。華やかな王都も一歩裏に足を踏み入れれば汚れきっているのだと、その姿が懸命に叫んでいるかのようだった。みずぼらしい少女の出で立ちは、決して珍しいものではない。それ故に人々は彼女を気に留めることもなく、時には白い目すら向けながら通りすぎていく。
 少女にとってもそれは普段通りの事であり、嘆くでも怒るでもなく、ただ歩いていた。特に目的があるわけではなかった。じっとしているよりは空腹が紛れると思っただけのこと。動けば余計に体力を使うだけとは解りきっていたが、それでも落ち着いていられないほど腹が減っていた。だから、たまたま見つけた野良猫に話しかけた事にも深い意味はなかったのだ。
「……こんにちは、猫さん」
 艶やかな灰色の毛並みをしたその猫は、声のした方にちらりと眼をやると、興味の無さそうにそっぽを向いた。寝そべっている木箱は雨風にさらされて既に朽ちかけていたが、猫にとっては関係ないらしい。ちょうどその体格に合った寝床はまるで玉座のようで、悠々と過ごすその姿は路地裏の王様だった。
「ねぇ、私の話聞いてくれる?」
 猫は聞いているのかいないのか、尻尾の先をぴくりとだけ動かす。少女も猫がまともに話を聞くとは思っていなかったので、特に気にすることもなく淡々と話し始めた。
「私の名前、ホープっていうの。意味は知らないけど、お母さんの国の言葉なんですって。お母さんは私が産まれる少し前の戦争で負けて、奴隷としてこの国に連れてこられたそうよ」
 猫と目の高さを合わせるようにしゃがみこみ、少女は他人事のように語った。
「兵士か何かの慰みものにされたらしくて、それで私が産まれたの。そんなんだから私の周りからの扱いなんてゴミみたいなもんよ。お母さんも、小さい頃に私を置いて何処かへ行っちゃった。ひどいでしょ?」
 言いながら、少女は自嘲した。母に捨てられた自分が惨めで可笑しいのか、それとも野良猫相手にこんな話をしているのが馬鹿馬鹿しく思えてきたのか。少女自身にもよく分からなかった。それでも、ひび割れた唇はとめどなく言葉を紡ぐ。
「けど、もうそれはどうでもいいの。一人でもなんとかやってるし、慣れたもの。でもね……」
 滑らかな口調が突然途切れたかと思うと、少女は視線を落とし唇を噛んだ。すると、突然様子の変わった少女を不思議に思ったのだろうか。猫は首を傾げて少女を見つめると、みゃあ、と小さく鳴いた。
 その声に先を促されたような気がして、少女は途切れた言葉の先を口にする。
「私、明日で十五になるの。知ってる? 女子の成人の誕生日はね、お母さんや友達が花冠を編んで贈って、皆でお祝いするの……私は誰もいないけどね」
 そこまで言うと、少女は諦めたようにため息を吐いた。
「仕方ないわよね。お金もないし、私にあるのはこの名前だけ。お母さんも、もっと形のあるものを残してくれたらよかったのよ。名前なんか、誰も呼ばないから意味がないもの」
 心底恨めしげに、少女は吐き捨てる。猫はというと、もうお前の話は飽きた、と言わんばかりに大あくびをして立ち上がった。そして身体を低くして思い切り伸びをすると、軽やかに地面に降り立った。
「あ……」
 少女に背を向けると、猫は振り返る素振りもなくあっという間に去っていった。
「……薄情者」
 取り残された少女は、猫が走っていった方向を見ながらそう溢した。そもそも猫に情など求めていたわけではないのだが、唐突に走り去られてなんとなく悪態をつきたくなったのだ。
 とはいえ、ここで愚痴を言っていても不毛なことに変わりはない。仕事を探すか物乞いするか、彼女は今日の糧を得なければならないのだ。少女は気怠げに立ち上がると、来た道を戻るように再び歩き出した。
「……私だって、本当は誰かに花冠を貰いたかったの」
 去り際、吐息と共に吐き出された望みを聞いた者は、誰もいなかった。
 

 翌日。十五歳になったホープは、同じように路地裏をふらふらと歩いていた。結局あの後はろくなものにありつけなかった。口にしたのは泥水と、散々通行人に踏みにじられた後の残飯が少し。運が良ければ堅パンくらいは手に入るのだが、どうにも最近はついていない。
「……ちょっともう、無理かも」
 誤魔化し続けてきた空腹も、そろそろ限界が近かった。腹の虫も、もはや鳴き疲れてしまっている。ついに足が止まり、ホープはぐったりとその場に座りこんだ。
 低くなった視線で、辺りを見渡す。今いるのは、昨日と同じ路地だった。殺風景な、代わり映えのしない場所。一つ違うことといえば、我が物顔で寝そべっている灰色の猫が居ないことくらいか。
 徐々に四肢から力が抜けていく中、ホープは昨日の猫に思いを馳せた。威風堂々と荒んだ街を歩く、路地裏の王様。猫はいい。ちょっと人間に甘えれば餌が貰えるし、細い隙間も抜けて街のどこへでも行ける。そうしてホープのような惨めな人間を見て、彼らは笑っているのかもしれない。
「私も、猫だったら良かったのに」
 ぼんやりと思考しながら呟くと、どこからかにゃーん、と返事が聞こえた。
「……あ、お前……」
 声のした方へ首をもたげると、そこにいたのは昨日出会った灰色の猫だった。藪のなかでも潜って来たのだろうか、その毛並みには小さな葉や枝があちこちにくっつき小さな身体を装飾している。猫は不愉快そうに身を震わせると、それらを払ってくれと言わんばかりにホープへすり寄った。
 昨日はあんなに態度が大きかったのに、現金なものだ。そう思いながらも仕方なしに毛繕いを手伝ってやると、ホープはゴミくずに混じっていたとあるものを見つけた。慎重にそれを手に取ると、猫は概ね綺麗になった毛皮に満足したのか、にゃー、と一声鳴いて去っていった。慌ただしく駆けていった猫の後ろ姿を見送ると、ホープは己の手のひらに目を向ける。
 そこに残されていたのは、小指の先ほどの小さな花だった。白い花弁は瑞々しく、ほのかに甘い香りを放っている。十五歳になったホープへの、花冠だ。なぜか、そう確信した。小さな花は、ホープの薄汚れた手の中で灯火のように優しく輝いていた。
「……なんだ。私の話、ちゃんと聴いてたの」
 ただの偶然かもしれない。それでも暗闇にほんの少し光が差したような気がして、ホープは力なく微笑んだ。
 街のあらゆるものをみて、野良猫はなんでも知っていたのだ。少女の願いも、その名の意味も。

End

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