千夜に降る雨 2

 古より、天狗が住んでいるとされる山があった。人々はその山を畏れ、敬い、聖域として滅多なことでは深く足を踏み入れることはなかった。
 しかし、その山の奥深くにひとつの人影があった。密集した木々がまるでその場だけを避けるように少し開けた場所で、青年は大岩に腰掛けていた。荘厳な空気さえ漂う、本来なら人を寄せ付けぬ場所で、穏やかな光を浴び、うたた寝しているように見えた。
「……?」
 ざわざわ、と風が枝を揺らす音に、彼はふと目を開けた。
「妙な風だな。なんだ?」
 すとん、と落葉の広がる地面に降り立ち、周囲に視線を巡らせる。徐々に葉の色を変え始めた木々と静寂が空間を包む中、彼はある一点に目をとめた。
「あぁ、ちょっと開けた所に出たわね……どれくらい深くに来たのかしら。もう土だらけだわ」
 ざく、ざくと足音を立てて表れたのは、一人の少女だった。腰ほどまであるゆるく束ねた髪には小枝や枯葉が絡まり、道なき道をくぐってきたことが窺える。
「……何者だ」
 彼は問うた。この山の者ではないことはわかる。問題はなぜここに居るか、だ。
「え?……人!?良かった!」
 自分ではない者の声に、少女は顔を明るくした。ここに人が居るということに疑問を抱く様子もなく、声の主に駆け寄った。
「少しお尋ねしたいのだけど……」
「何者かと訊いている」
 人の領域に踏み込んでおきながら悪びれる様子もない少女に、彼は苛ついた様子で同じ言葉を繰り返した。
「あぁ、ごめんなさい!私はちよ。薬草を探しに山に入ったのだけど……いつの間にかこんなところまで来てしまって」
 完全に道を見失った、とため息をつきながら周りを見渡した。いかにも困り果てた、ていうその動作は少女の状況から見れば自然なものであったが、彼はその姿に眉根を寄せた。
「……?」
「で、あなたの名前は?人に訊いておいて自分が名乗らないのは失礼よ」
 彼のそんな様子には気付かないようで、少女はそう声をかけた。
「……雷(らい)、だ」
「雷ね。それにしても良かったわ。こんな山奥で人に会えるとは思わなかったから」
 少女は安堵したように笑みを浮かべた。
「雷はこの辺に住んでるの?村とか近いのかしら?」
「……こんな所に村を作る物好きな人間がいるなら見てみたいな。ここには俺一人しかいない」
 呆れたように息を吐き、雷はそう答えた。お前は馬鹿か、と言わんばかりだ。道に迷って不安な人間に対してあまりな態度である。ちよもそう思ったのであろう、表情を険しくして雷に食って掛かった。
「何よ、私は――」
「お前、目が見えないのか」
 雷の唐突な言葉に、ちよは目を見張った。雷が先程感じた違和感はこれだった。さも普通の人間と変わらないように振る舞ってはいるが、目や顔の動きがどこかちぐはぐなのだ。
 だが、何よりそれを確信した理由は彼自身の出で立ちにあった。深い木々の隙間をぬって射し込む光のような金の髪。森をそのまま写し込んだような新緑の瞳。そして背にまとう大きな灰色の翼――彼は山に住むと言われる天狗そのものであった。山の神として崇められているその姿を見れば多少なりとも取り乱しそうなものである。しかし彼女は普通すぎるのだ。
「……驚いた。村の人以外にばれたことないのに」
 目を丸くしてちよは言った。確かに、何も知らない者なら彼女が盲目だなどとはまず思わないだろう。ちよの演技は完璧だ。出会ってすぐに気付いたのは雷の人ならざる鋭敏な感覚故だ。
「そう。全く見えないのよ。でもその分気配を読むのは得意なのよ」
 そう言う彼女の声は明るいが、その裏の苦痛は容易に想像できた。人は自分と異なるものを遠ざけたがる……彼女の演技もそういった理由から身に付いたのであろう。
「……で、目も見えぬお前が、何故わざわざ危険を冒してこんな山奥に来たのだ?」
 違和感の正体が判ったところで、雷は再び問い掛けた。
「……そうよ!薬草を探してるの!」
 先程とはうって変わり、目を伏せてちよは語り始めた。
「母さまが病気なの。ずっと胸を患っていて……最近は起き上がるのも辛いみたいなの。村の薬師ももう長くないだろうって……。でもね、この山にある天青草って薬草があれば助かるかもしれないって!雷、ここに住んでるなら知らない!?」
 掴みかからんばかりの勢いで、ちよは雷に詰め寄った。顔には必死、の二文字である。
「天青草、な……」
「青みがかったギザギザの葉で、白い花を咲かせるって聞いたわ」
 その特徴に雷は心当たりがあった。この山にある水辺に生えている植物だ。天青草という名前かは知らないが、恐らくちよが言っているのはそれだろう。
「……ついてこい」
 ふいに背中を向け、雷は歩き始めた。
「え?」
「場所を知っている。案内してやるからついてこい」
 別に彼女に同情したわけではなかった。人の生死など、雷にはどうでも良いことだ。しかし、この少女――ちよには、ほんの少しだけ興味を引かれていた。健常者でも危険な山道を進んでこんなに深くまでくる無茶ぶり、自分が天狗だと全く知らない言動。長い時間を生きる内の、ほんの一瞬の暇つぶしにはなりそうだと思ったのである。
 ざくざくと歩を進める雷を、ちよは慌てて追いかけた。
「ま、待ってよ!」
「なんだ、早くしろ」 そう言いつつも一応足を止めて振り返った視線の先には、満面の笑みのちよが居た。
「……ありがとうね」
 雷はそれには答えず再び歩き出した。彼女のくるくる変わる表情を見ているのも、意外と面白いかもしれない。そんなことを考えながら。

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