千夜に降る雨 6

 あれから五年程の月日が流れていた。村を襲った長い日照りも、ちよは以前から知っていた。だから少しずつ保存食を作り、備えていたのだ。母の弱った体は、食糧難に見舞われようものなら無事では済まない――ちよの願いは変わっていなかった。
 しかし、母の容態は思わしくなかった。以前は多少息は切らしても出来ていた畑仕事もとてもではないが出来なくなり、殆ど寝たきりになってしまった。ちよは懸命に看病したが、日に日に母の体力が衰えていくのを感じていた。
 そんなちよの元に、ある日無視できない情報が飛び込んできた。
「本当……!?ほんとにその薬草があれば母さまは助かるの!?」
 胸ぐらを掴みかからんばかりに、ちよは聞いた。相手は村唯一の壮年の薬師だ。何とは無しにすれ違った時に、そういえばお前の母親だが……と声を掛けられたのだ。
「あ、あぁ……天青草があれば薬を作れる。用事で町の薬師に会ったときにそう聞いた」
 ちよの剣幕にやや気圧されながらも、しかし……と男は続けた。
「天青草が生えているのは、この辺りだと天狗の山くらいしかない。……取りに行く気か?」
「それで母さまが良くなるなら、何だってするわよ」
 ちよは、あっさりとそう告げた。
 翌日。山に向かうため、ちよは身支度を整えていた。不安はない。昨日、夢に見たのだ。深い木々のなか、開けた場所にある大岩。そして自分を助けてくれる青年。
「さて、一張羅を着ていかなくちゃね。神さまに会うんだから」

 夢に見た通り、青年の助けを借り薬草を手に入れることができた。天青草がてんこ盛りの籠を抱え、帰りの足取りは軽い。青年は予想以上に親切だったと思う。山に一人で住んでいるのだからもっと偏屈な性格かと想像していたのだ。流石に暗くなってきた山道を一人で帰るのは怖かったので無理を言ってしまったのだが、渋々ながら彼は麓近くまで送ってくれた。
 後は薬を作ってもらうのみだ。ちよは丁度自分の家の近くを通りかかった薬師の気配を感じて駆け寄った。
「カイさん!ねぇ、天青草ってこれでいいのよね?」
 勢いよく声を掛けたちよを見て、薬師はぎょっとした顔をした。
「ちよ……!?本当に、持って帰ってきたのか」
 ちよはその様子には気付かず、手に持った籠を差し出した。
「そうよ。これで薬を――」
「寄るんじゃねぇ!」
 ちよは、一体何が起こったのか解らなかった。手に持った籠が無くなった。そして足元に何かが落ちたバサ、という音。目の前の男が自分の手を払い除けたのだと、数瞬かけてちよは理解した。
「何で帰ってこれるんだ……あんな道の無い山を。あの山なら天狗様が罰を下してくれると思ったのに!」
 ちよは呆然となりながらも口を開いた。
「……くすり、は」
「こんなもんで作れるわけねぇだろ!これはな、毒草なんだよ!」
 そう吐き捨てて、男は走り去った。残されたちよはどうすることも出来ず、がくりと膝をついた。ひび割れた土の上に散らばった瑞々しい天青草の感触が、なんだか非現実的だった。
「……ここまでは見えなかったわ。馬鹿みたい」
 薬は駄目だった。しかし母の命は確実に削られていく。もう何も出来ないのか。神に祈るしかないのか――。
「神さま……」
 ふと、ちよは顔を上げた。そうだ。神さまがいるではないか。ほんの数刻前に出会った青年――雷ならば。山の神である彼ならば、なんとかしてくれるかもしれない。
「いきなりお願いしたら、図々しいと思われるかも知れないわね」
 断られては困る。できるだけ確実な方法でいきたいものだ。しばし思案した後、ちよはある考えに行き着いた。
 彼と、友達になろう。友達の頼みなら神さまだって聞いてくれるだろう。最初は人間だと思っているフリをした方が近づきやすいかもしれない。すぐに、とはいかないかもしれないが、何せ彼に見捨てられたらもう希望は無いのだ。
 いつか、瞼の裏によぎった光景……暗い部屋に横たわる、二度と動かない母の体。それだけは、何としても現実にはしたくなかった。

 なんとなく体が痛いような気がして、ちよは身をよじり目を開けた。周りを手で探ると、どうやら自分が柱にもたれかかっている事が判った。考え事をしているうちに眠ってしまったようだ。
「いけない、いつの間に……」
 呟きながら身を起こした。どれくらい眠っていたのだろうか。夕飯を作り損ねてしまった……そこまで考えて、ちよはある違和感に気付いた。
「母さま……?」
 近くに寝ている筈の母を呼んだ。返事はない。驚くことではない。ちよを忌む母は、呼びかけを無視することも珍しくなかった。それに、眠っているのかもしれない。しかしそうではないのだと、ちよは解ってしまった。
「母さま!」
 彼女は変わらずそこに横たわっていた。傍に膝をつき、その手に、その胸に触れた。どうか嘘であってほしいと祈りながら。
 しかし、それは届くことはなかった。
「嘘よ……そんな……ぁあああ!!」
 母は、息をしていなかった。

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