家に戻るなりゼキアはどっかりと椅子に腰を下ろし、深々と息を吐いた。酷く重たく感じる頭を支えるように、俯き目元を片手で覆う。ここ数日は、絶えることなく頭痛に苛まれていた。疲労と寝不足に身体が悲鳴を上げている自覚はある。しかし、大人しく休んでいる気にはなれなかった。こうしている間にもルアスがどうなっているか分からない。得体の知れない相手に浚われ、更には国王の陰謀に巻き込まれているかもしれないなどという。これで不安にならずにいられるだろうか。ただ自分にこれ以上出来ることはないというのも事実であり、はやる心を抑えてこうして溜め息を吐く他はなかった。
あの、気味の悪い男が訪ねて来た日。ルアスの姿が消えてから、ゼキアはあちこちを駆けずり回っていた。街を手当たり次第に探したり、人に尋ねてみたり、望みは薄いと思いながらも騎士団の詰め所に話を持ち掛けてみてもみた。マーシェル学院へ足を運んだのも今日が初めてではない。しかしいずれも結果は芳しくなく、自分はこの有様だ。今、手にあるものは守りたい。そんな話をした直後だったというのに、己が情けなくて涙が出てきそうだった。結局は『まかせろ』と言ったルカの言葉を信じて待つしかない。二度と顔を見たくないと思った相手を頼りにするなど、随分と滑稽な話だった。
思い返しては悔やむという思考を繰り返して、どれほどの時間が経っていただろうか。不意に傍で物音が聞こえ、ぼやけていた意識が現実に呼び戻された。そんなつもりはなかったというのに、いつの間にか睡魔に負けてしまっていたらしい。慌てて顔を上げると、すぐ横のテーブルで何やら広げている女性の姿が目に入った。
「……レオナさん」
茶髪の癖っ毛、しゃんと背筋の伸びた後ろ姿。普段から世話になっている隣人の女性に違いなかった。レオナはゼキアに気が付くと手を止め、すまなさそうに口を開いた。
「ああ、起こしちまったかい? 勝手に上がって悪いね」
「いや、大丈夫……どうしたんだ?」
最近はあまり顔を合わせる機会が無かったが、彼女がこうして家を訪ねてくるのは珍しいことではなかった。何かが壊れたとか、男手が欲しい作業があるたとか、そんな細々とした用事をたびたび頼みに来るのだ。特別不審に思うことはなかったが、何をしていたのかは気になる。大したことでないのならいいが、以前のように子供がいなくなったというような事態なら一大事だ。しかしレオナの振る舞いには慌てた様子はひとつもなく、どうやら何事かあったというわけではないらしい。
「家に戻ってくるのが見えたからね。差し入れだよ」
言いながら、レオナはテーブルの上を示した。そこにあったのは、鉄製の鍋と小さな紙袋である。
「鍋の方は兎肉の煮込みね。袋の方は茶葉。なんか疲れがとれるんだってさ。書き置きだけして出て行こうと思ったんだけど」
「……いいのか、そんなもの貰って」
思わずゼキアは聞き返した。貧民街で肉は貴重だ。特別な日にほんの少し食べるかどうかというくらいである。茶葉もどちらかというと嗜好品の類であり、もちろんこの辺りの住人に楽しむ余裕などあるはずもない。それを簡単に『差し入れ』とは。
「最近、根を詰めているみたいだったからね。坊やが心配なのは分かるけど、ちゃんと休まないとあんたまで倒れるよ」
大袈裟な溜め息と共にゼキアの頭を軽くはたくと、レオナは声を落として続けた。
「まるでここに来たばっかりの頃みたいだ。必死になって全部背負い込もうとしてさ。その癖は昔から直んないね……ネルもルピも心配してるよ」
「……はは、あいつらに心配されたんじゃ世話ないな」
苦笑しながら、そうだっただろうか、と過去の自分を振り返る。ろくに事情も話したがらないゼキアを、レオナ達は暖かく迎え入れてくれた。何もかも失い、行く先さえ分からなくなった自分を救ってくれたのは彼女達だ。だからこそその場所を守りたいと強く願い――再びなくすことに怯えた。自分が守らなければ、と。背負い込んでいるつもりはなかったが、情に厚いレオナにはそう見えてしまったのかもしれない。
「せめて弱音吐くことくらい覚えなよ。その点ルアス坊やとか、ルカちゃんだっけ? あのお嬢ちゃんも、そういうこと言える相手が出来たんじゃないかって、あたしは期待したんだけどね」
「……なんであいつが出てくるんだ」
何気なく発せられたレオナの言葉に、ゼキアは大いに困惑した。ルアスはともかく、なぜルカの名前が挙がるのか。鏡を見たわけではないが、恐らく自分は苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだろう。その証拠に、レオナが呆れたように肩を竦めた。
「そういうとこだよ。あんた、あの子には感情剥き出しじゃないか。あんたにはあれくらい正直でちょっと強引なくらいの子の方が合ってると思うよ」
「冗談はよしてくれ……」
うたた寝で少し和らいだかに思えた頭痛が、再び酷くなってきそうだった。仕方なく交流は続けていたものの、本来なら顔を合わせたくない相手だ。ましてや王女だなどと言われては拒絶反応が出るのは当然である。
レオナはゼキアの過去も、先日の出来事も知らない。最近顔を見せなくなったな、くらいの感覚なのであろう。だがいくら事情を分かってないとはいえ、歓迎しかねる台詞である。ゼキアの、ルカに対する感情は複雑すぎるのだ。反射的に暴言を吐いてしまった後ろめたさも僅かながらに覚えていたが、だからといってすぐに仲良く出来るというわけではない。
「またそんなことばかり言って――」
憤慨したレオナが小言を言い始めた時、ぱち、と指先で何かが弾けるような感覚がした。いったい何かと目を向ければ、ゼキアの意思とは無関係に魔力が小さく爆ぜ、火花が散っている。その現象はぱち、ぱちりと断続的にゼキアの手元で広がっていき、それが収束したかと思うと次に襲ってきたのは言いようのない不快感だった。腹の底を火で炙られるような、緩やかに身を焼く熱。これには覚えがあった。というより、そうなるように作った仕掛けである。いつかに作った、あの“お守り”が発動したことを知らせる印だ。
すっかり意識の外に追いやっていたものだったが、これはあまり嬉しくない知らせだった。今、あのお守りを持っているのはルカの筈だ。もし彼女があのまま持ち歩いていたならば――その身に何かしらの危険が降りかかったことになる。あの後マーシェル学院には上手く潜入出来たのだろうか。それとも、中に入った先で何かあったのか。
反射的に立ち上がりかけて、ゼキアは僅かに逡巡した。助けに行くべき、なのだろうか。王女など、家族の、故郷の敵も同然だ。それを、助けるというのか。生憎と自分は聖人君子にはなれない。憎悪する相手にまで手を差し伸べられるほど、清らかではないのだ。あのお守りが他人の手に渡っている可能性もあるし、そうでなくても自ら首を突っ込んできたのはルカだ。わざわざ身の安全を確かめてやる義理など無い。――その筈なのに、なぜ悩むのだろう。
出来ることをする、そう断言したルカの瞳が頭を離れない。痛いほど真摯なその目は、はたしてゼキアをどう捉えていただろうか。全てを聞いて、過去に囚われた自分を見て、滑稽と思ったか憐れみを覚えたか。それ故に、再び声をかけてやろうとでも思ったのか。だが、どれも違うと思った。たとえそういった部分があったとしても、些細なものなのだろう。力になりたいという言葉に偽りはなく、彼女は初志貫徹しているにすぎないのだ。それが、理解出来てしまった。
「ちょっとゼキア、聞いてるのかい?」
ゼキアの小さな異変には気付かず、レオナが問い詰める。彼女のお小言は未だに続いていたらしい。正直ほとんど耳に入ってはいなかったが、それを白状する気にもなれずゼキアは徐に腰を上げた。腰に吊ったままだった剣の柄に触れ、その存在を確かめる。思えばこれを未だに使っているのもおかしな話だった。結局、何も捨て切れずに居るのである。
「……悪い、レオナさん。ちょっと急用だ。飯ありがとうな。帰ったら食うよ!」
「は? ……ちょっと、ゼキア!?」
困惑するレオナを残し、ゼキアは家を飛び出していた。魔力の残滓を手繰り、ひたすらに駆ける。結局、選ぶのはこちらの選択肢だった。何もなければ、その時こそ辛辣な言葉を浴びせてやろう。動かなかった方が、きっと後悔する――もう、手のひらに掴んだものを失いたくはないのだから。
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