光と影と 4

 闇の淵から意識が浮き上がった時、ルカは見知らぬ場所にいた。瞼を持ち上げた瞬間目に飛び込んできたのは、灰色の天井と煤けた小さなシャンデリア。自分の部屋でないことだけは確実であった。
 両腕を動かしてみる。足も、特に異常は無いようだ。それを確認すると、ルカはゆっくりと身体を起こす。その途端、強い眩暈に襲われた。額に手を当て、目が回るような感覚が治まるのを待つ。そうして、ようやくルカは部屋の全体像を把握することが出来た。
 さして広くもない、質素な部屋だった。恐らく、大股で五歩も歩けば端と端を行き来できるだろう。剥き出しの石壁は陰気な印象を与え、隅に置かれた椅子とテーブルにはうっすらと埃が積もっていた。ルカが横になっていたのは、その反対側にある寝台だった。寝台、といっても木の台に布を敷いただけの固いもので、寝心地が良いとは言い難い。
「ここは……」
 自分は、マーシェル学院の地下にいたはずだ。エルシュという少女を見つけ、彼女を助けようとして――そこで意識を失った。直前に聞こえたあの声は、王と話していた男に違いない。ここに連れてきたのも奴だろう。陰謀を嗅ぎつけた鼠を始末する、ということか。それにしては身体を痛めつけられたような事実はまだ無さそうである。かといって、行く先が明るいとも思えなかったが。
 とりあえずは現状を正確に把握すべきかと、寝台から冷たい床へと降り立つ。その段階になって、ルカはふといつも親しんでいた重みが無いことに気が付いた。腰に吊っていたはずの剣が見当たらない。気絶している間に取り上げられたのだろう。こちらに武器を持たせておくほど、相手も迂闊ではないということだ。置かれた状況を考えれば当然のことだったが、やはり心許ない。
 立ち上がると、ルカはまず唯一の出入り口と見られる扉に近付いた。試しに取っ手を掴み、力を込めてみる。しかし鉄で出来た重い扉は、堅く閉ざされ開く事はなかった。おまけに部屋にある他の備品は古くて劣化した物ばかりだというのに、この扉だけはかなりしっかりとした造りをしていた。まるでこの部屋に誰かを閉じこめることを想定していたかのようである。
 次に、窓を確かめてみる。やはりそこにも鍵がかけられていたが、曇った硝子越しに外の景色を眺めることが出来た。地面が随分と下の方に見える。遠目に見えた濃紺の服を纏った女性は、恐らくは城で働く侍女だ。目に映る庭も建物も、見慣れたものばかりだ。それらの位置から、ルカは自分がいる場所を推測する。王城の敷地の片隅に、不気味な塔が建っていた筈だ。その昔、罪を犯した貴族らの懲罰に使われていた場所らしい。監禁するだけに留まらず、血生臭い所業も行われていたという。既に使われていないとはいえ、その存在理由は人々を遠ざけるのに充分すぎるものだった。城中を隅々まで遊び回ったルカでもあまり立ち寄ろうとはしなかった、あの塔。こんな形で内部の様子を知ることになろうとは。
「……罪人、ねぇ」
 窓にもたれながら、小さくルカはぼやいた。王の意向に背く者は、たとえ何者であっても罪人である。そう告げられているようだった。大勢の民を犠牲にし続ける王と、それを唆す存在と、止めようとしたルカと――罪とは、いったいなんなのだろう。
「……今まで何も知らずにいたって点では、私も同じか」
 呟きながら、自嘲の笑みを浮かべる。過去の自分に今の姿を見せたなら、果たして何を思うだろう。
 そんな他愛もない事を考えていると、唐突に物音が響いた。がちゃがちゃと、という金属がこすれ合う重い音に、ルカは息を呑む。出所を探ると、先程びくともしなかった扉の方からだった。
 何度か同じような音が繰り返され、扉が軋む。それが止んだかと思うと、無造作に鉄の板は内側へと開かれた。初めに現れた男はすぐ扉の脇に逸れ、跪いて頭を垂れる。それに続いた人物は重々しく床を踏みしめ、下僕に一瞥もくれることなくルカの前に姿を見せた。
 ――今度こそ、本当に呼吸が止まったのではないかと、ルカは思った。
「……おとう、さま」
 呟いた声は、酷く掠れていた。まともに発せられていたのかどうかも怪しい。ルカの父であり、エイリム王国の君主――レミアス王。眼前にいるのは紛れもないその人で、青灰色の瞳にルカを映していた。かつて、父とこんなに間近で対面したことがあっただろうか。額や頬に刻まれた皺までくっきりと視認できるのが、なんとも不思議な感覚であった。こうしてみると、その面差しは確かに自分のものと似ている部分もあるような気がした。
 王が何歩か足を進めると、更にその後ろに付き従っていた男が扉を閉ざす。それを合図としたように、レミアスは口を開いた。
「地下の研究室を見たそうだな」
 挨拶のひとつも挟まず、レミアスは淡々と告げた。その瞳からは暖かな感情は見出だせず、寧ろ指弾するかのように言葉が響く。決して娘の身を案じて様子を見にきた、というわけでは無いらしい。
 僅かに、胸の奥が疼く。自分でもそれが不思議だった。彼が娘に愛情を注ぐことなど有り得ないのだと、昔から知っていた筈だというのに。それどころかルカを閉じ込めた張本人だろう。そうでなければ、自分がここに居ることなど知りようもない。
「……研究室? 地下牢の間違いでしょう」
 引き連れている従僕たちの中に、例の男は見当たらない。その事に少しばかり安堵しつつ、ルカは強く問い返した。ちょうどいい。事件の全貌を把握する、絶好の機会だ。何せ、主謀者は目の前にいる国王その人なのだから。出来る限り情報を引き出してやると決意した瞬間から、ルカは矢継ぎ早に疑問を口に出していた。
「あの得体の知れない男は誰? あんな所に女の子を閉じ込めて、何をする気? あそこで何をしてるの……今までだって散々いろんな人を苦しめて、また何を企んでるっていうの!?」
 息継ぎもせず、一気に言葉を吐き出す。最後まで言い切った時には、すっかり呼吸が乱れてしまっていた。その間レミアスは微動だにせず、声のひとつも上げることはなかった。息を整えるために数拍おいた後、ルカは恐る恐る父の様子を伺う。
「何をしたいのかと思えば、それだけか」
 顔色ひとつ変えず、レミアスは言った。こちらの必死さなど気にとめる素振りもなく、父の目は無感情にルカを見返す。
「答える必要はない。お前には関係のない話だ。痛い目を見たくないのなら、ここで大人しくしていろ」
 言い終えるや否や、用は済んだと言わんばかりにレミアスは踵を返した。結局、ルカの問にひとつも答えてはいない。言いたいことだけ言って、こちらの言葉など聞こうとはしないのだ。
 全身の血が沸き立つような感覚がした。関係ない、わけがない。ルカはもう踏み込んでしまったのだ。この人はいつもそうだった。何をしていようと、どれだけ不満を訴えようと、羽虫を追い払うが如く退け目を合わせようともしない。ルカの存在は軽んじられ続けてきた。陰謀の一端を嗅ぎ付けた今でさえそうだ。こうして塔に閉じ込めておきながらも、対話する程の価値もないと暗に告げていた。わざわざ、そんな事実を突きつけにきたのか。
「――いい加減にして! これでも貴方の娘で、この国の王女よ! 関係なくなんかない……いつまでも黙ってるだけだなんて思わないで!」
 半ば叫びながら、レミアスを引き留めようとその背中を追う。しかし、傍に控えていた従僕によってそれは阻まれた。男はルカの腕を掴むと離せと喚く暇もなく突き飛ばし、ルカは無様に床に転がった。
「こ、の……!」
「王に無礼を働き、命を取られぬだけましと思え! 元来お前など王宮に必要ないのなのだ。陛下のご慈悲に感謝せよ」
 ――従僕の態度にルカは絶句し、またそれによって己の認識が甘かったことを思い知らされることとなった。
 城に仕える臣下達は、少なくともルカが王女であることを認識した上で敬遠しているものと思っていた。
 しかし眼前の男の態度は、とても王族に対するものではなかった。まるで害虫でも見るかのようにルカを睥睨し、レミアスの背後を守って共に退室した。がちゃり、と無情な金属音が響く。しかしそれに反応する気にすらなれず、ルカは呆然と閉ざされた扉を見つめた。
「……何、これ」
 呟いた声は、酷く掠れていた。立ち上がることさえ出来ずに、ルカは今し方の出来事を脳内で反芻した。何度も同じ場面を再生しては、咀嚼し、その意味を飲み下そうと努力する。随分と苦労して我に返った時には、既に頬には幾筋もの雫が伝っていた。
 なんと惨めで、情けない話だろう。レミアス王は自分の父で、その血の繋がりは確かな筈だった。しかし、自分の王族としての名に意味があると思っていたのは、ルカだけだったのである。肉親としての情も無ければ、一族として認めてもいない。あの従僕の発言がそれを物語っていた。父はルカに対しては勿論、側近達にもそのように振る舞っており――それを、臣下達が認めている、ということだ。
 最初から、ルカの価値は無いも同然だったのだ。そんなことにも気付けずにいたのだ。否、気付いていたとしても、この身に流れる血に意味があるのだと思い込まなければ生きてはいけなかった。そうでなければ、孤独で気が触れるか、何かのきっかけで消えてしまっていたかもしれない。或いは、それを望まれていたのかもしれなかった。もうずっと昔から、ルカは囚人のようなものだったのだ。
 俯いたまま、涙を拭うこともなくルカは嘆き続けた。本当に、自分は何一つ持ってなどいなかった。こんな所に押し込められてみっともなく泣いているだけの自分に、何が救えるというのだろう。ゼキアにもあれだけ啖呵を切ったというのに、この様だ。
 そうやってしばらく床ばかりを見つめていたなかで、ふとルカは何かが床に転がっていることに気が付いた。菱形に複雑な模様ほ彫られた、手のひらに収まるほどの木片。あの日、ゼキアが渡してくれたお守りだった。突き飛ばされた衝撃で紐がとれてしまったのだろう。
 ぼんやりとそれを眺めながら、ルカはゼキアとの会話を思い出していた。助けてくれるのかと尋ねたルカに、気が向いたら、と彼は返した。曖昧な言葉だったが、少しだけゼキアが心を開いてくれたようで嬉しかった。彼とは、学院の前で別れたきりだ。まだルカの連絡を待っているだろうか。ルアスのことを心配して、酷く憔悴していた。そのために、一時とはいえルカに信頼を預けてくれたというのに――何をしているのだろう、自分は。
 投げ出されていたお守りを拾い上げ、握り締める。そこには、微かな熱が宿っているような気がした。ぶっきらぼうなゼキアの優しさや、屈託のないルアスの笑顔。貧民街で確かに築いてきた絆が、呼び掛けてくるようだった。
 決然として、ルカは顔を上げた。そうだ、何をしているのだ。座り込んでいる場合などではない。元より、身分など関係なく友人を助けるためにルカは行動していたのである。そんな簡単なことまで忘れて全てを諦めるなんて、一番愚かなことだ。
 ルカは徐に立ち上がり、隅に置かれていた椅子に手をかけた。少し持ち上げて感触を確かめてみる。小振りだが、重さは充分だろう。これならいけそうだ。そう確信を持つと、ルカは大股で窓に歩み寄って椅子を振り上げ、力の限りに叩きつけた。派手な音を立てて、硝子が砕け散る。飛び散った破片が幾つか肌を掠めたが、構わずにそのまま椅子を使って窓枠を均していく。
「……持ち主の危険を察知して発動する、のよね。“影”じゃなくても反応してくれればいいんだけど」
 以前聞いたお守りの説明を口にしながら、ルカは無残に破壊された窓枠に足をかけた。次いで、自分の持ち物を確認する。剣が無いのは先程確認した通り、あとはゼキアのお守りと――もう一つは残っているだろうか。
 上着の襟元の内側を手でまさぐり、小さな固い感触を確かめる。あった。扉を開くための、古い指輪。一度落としてしまって以来、しまう場所はここと決めていた。紐を縫い付けて固く結び、多少運動してもずれないようにしてあるのだ。てっきりこれも取り上げられたものと思ったが、ここにあるということは気付かなかったのか、取るに足らないことと思われたのか。いずれにせよ、甘く見られたものである。
「間抜けな国王陛下。どうせ閉じ込めるなら、あの子みたいに地下深くに捕らえればよかったのに」
 そうすれば、自分がこんな手段に出ることもなかっただろうに。そんなことを考えながら、ルカは視線を外へと向けた。いつの間にか、日が傾きかけている。夕陽に染まる王都が、ここからは一望できた。意外と良い景色を見られる穴場なのかもしれない。もちろん、今はそんな時間は無いのだが。
 部屋の扉を隔てて、遠くに衛兵の声が聞こえ始めた。今更ながら大きな音を不審に思って様子を見に来たのだろう。だが、彼等を待ってやる気など更々ない。
「これで大人しくすると思ったんなら大間違いよ。私にも、守りたいものぐらいあるんだから」
 街を眺めながら、ルカは口の端を吊り上げる。窓枠の足にしっかりと力を込め――そして、塔から外へと身を踊らせた。

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