光と影と 6

 見慣れた貧民街の路地を通り過ぎ、市街地から市場、そして街の大通りを全力で走る。お守りに込められていた魔力は、時間が経つほどに少しずつ薄くなっていた。大体の方角は把握していたものの、このままでは見つけにくくなる一方である。急がなければいけない。取り返しのつかないことになる前に。
 己の感覚に任せてイフェスを駆け抜け、ゼキアは貴族街と呼ばれる区画に差し掛かっていた。聳え立つマーシェル学院が、否応なしに瞳に映り込む。丁度ルカと最後に顔を合わせた場所の辺りで、ゼキアは一度足を緩めた。再度、彼女の居所を掴むべく魔力の残滓を辿る。だが、もはや明確な気配は殆ど残っていなかった。辛うじて判るのは、お守りが発動した場所はここから更に遠いということ。貴族街の先、恐らくは王城の敷地内だ。
 ゼキアは苛立ちに歯噛みした。王女の癖に、城の中で危険に晒されるようなことがあったのか。いくらゼキアでも、単身で王城に乗り込むには厳しいものがある。何かの間違いであればいいという希望と、そんなに精度の悪いものは作っていないという矜持とがゼキアの中でせめぎ合っていた。それでも見捨てるという選択肢は除外されたまま、高みにある王城に向けて歩調は早くなっていく。
 そこでゼキアは、ふと周辺の雰囲気が前とは違うことに気が付いた。もちろん景色は変わっていないのだが、住人達の姿が違う。人通りがやけに少なく、代わりに物々しい装いの男達がうろついているのである。
「……騎士団か?」
 見かける男達はみな一様に帯剣し、薄緑の詰襟を身に纏っていた。騎士団の正規の装いとよく似ているが、色や装飾が違う。国に属する何かしらの組織だろうことは想像がついたが、剣を携えて巡回しているとは一体何事だろう。
 いずれにせよ、貧民街の人間が歩いているのが見つかれば面倒事にしかならないのは確かだ。彼らの目に付かないように、距離を取ったまま様子を窺う。男達はいつでも剣が抜けるよう柄に手を添え、周囲を何度も見回していた。時折、同じ制服を着た者同士で言葉を交わしているのが見える。まるで街中を逃亡する罪人を追っているかのようだ。
 不意にやり取りをしていたうちの一人が身体の向きを変えたのを見て、ゼキアは咄嗟に近くの建物の影に身を隠した。自分は以前、マーシェル学院で一悶着起こしている。捜索の対象がゼキアだとは限らないが、進んで姿を晒す気にはなれなかった。
「――いたぞ!」
 そのまま息を潜めていると、どこからかそんな声が聞こえた。このまま貴族街の外まで逃げ切るか、或いはさっさと捕まってくれれば動きやすくなるのだが――そんな淡い期待を胸に成り行きを見守っていたゼキアだったが、目に飛び込んできた光景に顔を引き攣らせた。
 先程の声に気付いたのだろう、追われていたらしい人物が通りにまろび出る。長い髪を振り乱し、懸命に男達から逃れようと走る女性。最悪なことに、彼女の特徴はゼキアの探し人と完全に一致していた。追われていたのは、ルカである。
「何やってんだ、あいつは!」
 思わず毒を吐かないではいられなかった。彼女はこの国の王女であるはず。それが騎士に追われているとは、一体どういう事態なのか。しかも緊迫した追いかけっこをしているその連中は、丁度ゼキアが隠れている方へと向きを変えていた。
 ルカは全力で逃げているように見えるが、相手も本気である。帯剣しているということは、それを積極的振るうこともあるかもしれない。あまり細かいことを考えている時間は無さそうである。今のところ、追っ手は年若い男が二人。増援が来る前に片を付けなければ。
 慎重に場所を移動し、相手の死角となるよう壁に身を寄せた。荒々しい足音が徐々に近付いてくる。先頭を走る女性の姿が現れた瞬間、ゼキアはその腕を掴んだ。勢いを殺せずつんのめるようにして体勢を崩した彼女を、己の背後に放り投げる。なにやら悲鳴が聞こえた気もするが、知ったことではない。
「なんだ、貴様!」
 追いついた男の一人が誰何すると共に剣を抜く。しかし、ゼキアの方が幾分か行動が早かった。鞘ごと己の剣を振るい、相手の手首を打つ。衝撃で男が武器を取り落とした隙を見て、その首筋に思い切り打撃を叩き込んだ。一人目が昏倒させると、ゼキアは即座に次の敵へと向き直る。続く男もゼキアを見て剣の柄に手をかけたが、その刃が閃く前に男の袖に小さな火が点った。魔法の炎は瞬く間に燃え上がり、薄緑の詰め襟を焦がしていく。追跡どころではなくなった男はみっともなく取り乱し、ゼキアの拳によって呆気なく沈められることとなった。
「……何ぼーっとしてんだ、さっさとしないと次が来るぞ。あとこの状況がなんなのか説明しろ、この馬鹿」
 男の服を燃やしていた炎を適当に消火すると、ゼキアは背後に放り出したルカを振り返った。呆然と座り込んだままの彼女に渋々ながら手を差し出すと、はっとしたようにルカは立ち上がった。
「……来てくれたのね」
「こっちが頼んだ事のせいで何かあったんじゃ、寝覚めが悪いからな」
 溜め息混じりに言いながらも、ゼキアはルカを促し走り出した。相変わらず辺りは人影もなく、奇妙な程の静けさである。状況を考えると、騎士団あたりから外出するなとでも通告があったのかもしれない。それでも追っ手以外は人目が無かったとも言い切れず、早々に逃げるのが吉と思われた。公人相手にあんな真似をしたのだから、ゼキアも犯罪者に仕立て上げられるのは間違いない。こちらの事情など汲んではくれないだろうし、捕まればどうなることか――荒っぽい事になるかもしれないとは思ってはいたものの、その通りになって嬉しい筈もなかった。
 決して後悔はしているわけではないが、と横目でルカを見遣る。彼女の身体は砂埃や泥に汚れ、擦り傷だらけだった。衣服が裂けてしまっている箇所もある。先程ゼキアが転ばせたから、というだけのものではないだろう。かといって追っ手に付けられた傷にも見えないが、本当に何をやらかしたのか甚だ疑問である。
「ゼキア、あっち」
 走りながらルカが指差したのは、通りから一段低い場所にある細い水路だった。ささやかな水の流れは貴族街の上流の水路から分かれたもので、地面の下を通って市街地に続いている。狭い洞窟のようなその道は暗く、中の分岐も複雑だ。入り込めば簡単には追って来れないだろう。一時的に身を隠すには最適である。
 素早くそう判断すると、ゼキアはルカと連れ立って段差を飛び降り、躊躇なく水路に足を突っ込んだ。それほど深くはない。精々、膝丈程度だろうか。水を蹴り飛ばすようにして暗い穴へと駆け込む。暫し周囲の様子を観察し他の気配が無いことを確かめると、ようやく二人は息を吐いた。
「……で、何がどうなって王女様が騎士に追われる事態になったんだ」
 ひとまずの安全を確保したところで、ゼキアは改めて疑問を口にした。乱れた呼吸を整えながらも、ルカが答える。
「学院の中調べてたら捕まっちゃったのよね。なんとか逃げ出してきたんだけど、流石に手配が早かったわね……あれ、国王直属の親衛隊だわ」
「親衛隊?」
「騎士団とは指揮系統が違うのよ。彼らは騎士団長じゃなくて王に従う。私が逃げ出してすぐに王の勅命があったんでしょうね。街中に誰もいないわけだわ」
 それだけ国王に近しい組織ならば、その発言は王の言葉そのものとも捉えられることだろう。彼らが『犯罪者を追っているから外出するな』と一言告げればあっという間に街からは人影が消え去る。それだけ王の威光は強いのだ。ルカを見つけやすくするために、街の住民という障害物を排除する事など容易いことである。
 そう納得する傍ら、ゼキアはどこか腑に落ちないものを感じていた。ルカの追跡は王の勅命――ということは。
「実の娘相手にそこまでやるか……?」
 王族の家系図など知ろうとも思わないが、当代の王の子は王女一人だと聞く。王妃も随分昔に亡くなっていたはずだ。ルカの存在は王家にとって大事な存在の筈だ。なのに、見付ければ切ってよしと言わんばかりの追っ手。それが実の父から差し向けられたものとは、ゼキアには信じ難い話であった。
 思わず呟いた言葉に、ルカはほんの一瞬だけ泣きそうに顔を歪め――しかし最終的には軽く肩を竦めただけに留まった。
「余程、私のしたことが都合が悪かったのかしらね。それよりルアスのことだけど」
 彼女の様子に疑問を持つ間もなくルアスの名を出され、ゼキアは息を呑んだ。そう、そもそもの目的はルアスの行方の捜索だ。そのためにルカと連絡を取り合うことになっていた。
「どうだったんだ」
「学院の中にいるのは間違いなさそう。他にも捕まってる子がいて――」
 別れた後の出来事を、ルカは順を追って話し始めた。隠された地下通路に、その先の牢獄。そこに捕らわれていた少女、そしてそこでも登場したシェイドという名前。彼女の話を聞くほどに、ルアスが国の陰謀に巻き込まれたことは確実となっていく。
 彼を救出しようとする以上、謀反人の汚名を避けられそうにないと、ゼキアは密かに溜め息を吐いた。それでも、ルアスを見捨てて保身に走ろうとは思えなかったのだが。
「で、それを知らせなきゃって思ってたところにちょうど貴方が来てくれたのよね……そういえば、まだお礼も言ってなかったわよね。助けてくれてありがと」
 微笑みを浮かべた謝意の言葉に不意をつかれ、ゼキアはつい視線を逸らした。今更、あれだけ敵視した人間と普通に会話していることに気付いたのである。ルカの方はといえばこれが当然といった態度である。欠片ほども先日の出来事を気にした様子もなく、それがゼキアの居心地の悪さを増長させた。
「……お守りは、どうしたんだ。あいつらに追われてから発動したんじゃないだろ」
 だからといって突然黙り込むのもおかしな気がして、ゼキアは苦し紛れにもう一つの疑問をルカにぶつけた。先程のルカは危険なではあったが、お守りは命の危機と呼べる状況でなければ発動しない。最初に気配を感じたのは城の方角だったのだから、そこで何かあって更に追っ手がかかったと考えるのが自然だと思われた。
「ああ、それは塔から飛び降りた時ね」
「……は?」
 事も無げに告げられた内容に、ゼキアは思わず間抜けな声を上げた。飛び降りた、と言っただろうか。塔という言葉から連想される絵図からして、相当な高さであると想像できる。あれは元々“影”や暴漢に遭遇した場合のことを考え作られたお守りだ。塔から転落した時の緩衝の役割など想定していない。ゼキアの言わんとするところを察したらしいルカが、それでもあっけらかんと言葉を続けた。
「分かってるわよ、半分は賭みたいなものだったの。よく上手くいったわよねー。すごい熱風だったけど、まぁそのお陰で打撲とか擦り傷くらいで済んだから」
 つまり、ルカの傷は塔から落ちた時のものらしい。本人は軽く言っているが、聞いている方は血の気が引く思いだった。たまたま上手くいったから良かったものの、そうでなければ今頃ルカは塔の下で潰れた蛙のようになっていたかもしれないのだ。
「死んだらどうするつもりだったんだお前は! 馬鹿なのは知ってたが、ここまでとは思わなかったぞ!」
「その時はその時かなって。まぁいいじゃない、こうしてゼキアも駆けつけてくれたことだし」
 項垂れたゼキアの横で、ルカは妙に嬉しそうに弁解にもならない弁解をした。その表情に色々と思うところはあったが、ゼキアは敢えて追及はしなかった。これ以上聞いたところで、頭痛が酷くなるだけのような気がしたのである。
「……とにかく、学院の中だな。問題はどうやって潜り込むかだが」
 呆れ返りながらも、ゼキアは話題を元へ戻した。遊んでいる場合ではないのである。
 とはいえどうしたものかと、ゼキアは先を言い淀んだ。正面から行くには自分は学院の前で何度か押し問答しているし、何より外へ出て親衛隊に見つかると面倒だ。いつまでもここにいるわけにはいかないが――そう悩み始めたゼキアの横で、ルカがぽつりと呟いた。
「それなんだけどね、この水路を辿れば、近くまでは出られると思うのよ」
 言いながら、ルカは今居る水路の更に奥を指し示した。水の流れ行く先は暗く狭く、貴族街の頂点から市街地の地下を四方八方に走っている。街のそこかしこにゼキア達が入ってきたような地上への出口もあるはずだ。親衛隊の目から逃れて進むにはいい手かもしれない。だが――。
「道の見当がつかねぇだろ」
 水路は枝分かれが多く、複雑に張り巡らされている。闇雲に歩き回ったところで出口には辿り着けまい。しかしゼキアの意見を予期していたかのように、ルカは僅かに口の端を吊り上げた。
「私も、伊達に城を抜けて街中歩き回ってたわけじゃないのよ」
「……分かるのか?」
「水路が地上に出る箇所くらいは把握してる。前、城に連れ戻されそうになった時に何回か通ったことあるのよね。方角さえ間違えなければなんとかなると思うわ」
 さっきも逃げ回りながら確認してたの、とルカは胸を張った。彼女なりに色々と考えていたらしい。どれだけあてにしていいのか疑問であったが、他に打つ手もなさそうである。
「仕方ないな。貧民街で迷子になった奴がどれくらい信用できるか知らねぇけど」
「あ、あれはあの辺歩き慣れてなかったから! 大丈夫よ!」
「はいはい。さっさとしろよ、道案内」
 素直に従うのも癪で、それとなく過去の失態をつつく。慌てて釈明しようとするルカを置いて奥へと歩を進めたが、数歩分距離が開いたところでふと思い立ち振り返った。
「言っておくが、無茶はするなよ。怪我しても俺は治療してやれないからな」
 成り行き上ルカが一緒に来るのは仕方ないが、また向こう見ずな行動をされては堪らない。釘を刺すようにそう言うと、ルカはじわじわと口許を綻ばせた。
「分かったわ。心配してくれて、ありがと」
「……後々、面倒臭いだけだ。またルアスに怒鳴られるのは勘弁だからな」
「そうね、怒られないように早く迎えに行きましょ――手遅れにならない内に」
 さりげなく付け足された言葉に、背筋にひやりとしたものが走った。そう、こうしている間にもルアスがどうなっているのか分からないのだ。
 強く頷いたルカを見て、ゼキアは先程より歩調を早めて歩き出した。小走りでルカがそれに続く。捕らわれた少年の無事をひたすら祈りながら、二人は暗闇の水路の中を急いだ。

コメント