深い青の中を落ちていく。静かに水を温める陽光に、遠くの魚たちの鱗がきらめいていた。揺蕩う透明な海月、千切れて彷徨う海草、不意に舞い上がる海底の砂。夥しい命を育む場所というのは、ただそこにあるだけで神秘的だった。こんな光景を悠々と眺めたことがある人間などそうはいまいと、ユイスは密かに息を吐く。人の身は脆弱で、優しく目に映る海でも放り込まれれば飲み込まれて押し潰される。ユイス達が無事でいられるのは、周りの空気ごと身体を包む半透明の膜のお蔭だった。これもひとえに大いなる力の助けがあってのことである。
「そろそろ行くのね。息を止めていなさい」
小さく警告の声が響くと、穏やかだった周囲の海水が突如としてうねりだした。その力にユイス達は強く押し流され、藻屑のように弄ばれながらより深くへと沈んでいく。やがて轟音と不規則な揺れに吐き気を催し始めた頃、ばちんという強い音と同時に世界の色が変化した。青味がかった色彩はそのままに、より鮮明で乾いたものへと切り替わる。回転する視界の中でそれを感じながら、ユイスは辛うじて投げ出された身体を立位のまま踏みとどまらせることに成功した。続いて同じように放り出されたレイアは地面に手をつき、イルファはふらふらと蛇行した軌道でレイアの頭に落ち着いた。どうやら目を回したらしい。丁寧な送迎とは言い難かったが、文句をつけられる立場ではない。なにしろ、ユイス達だけでは訪れることは不可能な場所だったのだ。
「助かった、レニィ。恩に着る」
「まったく、精霊遣いの荒い人間なの」
足元がおぼつかないユイス達とは違い平然と現れたレニィは、大袈裟な仕草で溜息を吐く。時柱たちを刺激しないようにとあえて小さな姿を取ったレニィは、全身で呆れを表現していた。こちらも無茶を言ったことは重々理解しているが、軽く肩を竦めるにとどめる。どんな手を使ってでも――例えば水の精霊王を引っ張り出してでも、再び訪れる必要があったのだ。ノヴァとメネがいるであろう、この海底の神殿に。
遺跡の書庫を一通り調べつくした後、めぼしい資料を携えユイス達はイルベスの町へ向かった。詳しい内容を解読し、ノヴァ達に対面しなければならなかった。しかし前者はともかく、後者は大きな問題があった。どうやって彼女達に会いに行くか、である。振り返れば顔を合わせた場面は偶然か相手に強制されたものばかりで、進んで接触を図ったことはなかった。時柱が元々安置されていた場所――すなわち以前訪れた海底神殿で会える可能性は高いと思われたが、生身であそこまで辿り着けるわけがない。
そこでレニィである。比較的ユイス達に友好的な精霊王であり、海は彼女の司る領域である。とはいえ、容易にまみえることのできる相手ではないのは彼女も同じだ。そこで、幾ばくかの罪悪感に駆られつつもユイスは強硬手段を取ることにした。レニィが現れざるをえない状況を作ることにしたのである。具体的に言えば、少々イルファに暴れてもらった。犠牲となったのは町はずれにあった空き家である。見た目の派手さより被害は少なかったはずだが、炎の精霊が悪さをしているとなればレニィも感づく。見事作戦は成功してこうして力を借りている、というわけである。必然として彼女機嫌最底辺だが協力してもらえるだけ有難い。彼女には時柱に会う必要がある、としか告げていないのにも関わらずだ。その裏の意味を察していないとも思えないというのに。
「本当に、すまない」
何度目かの謝罪を口にする。自らの行動に後悔はない。しかし、申し訳なさが皆無というわけでもなかった。レニィは許すとも許さないとも言わず、小さく鼻を鳴らす。それと同時に細い水の帯が周囲に浮かび上がり、ユイス達の身体に巻き付いたかと思うとすぐに弾けて消えた。散り散りになった飛沫は衣服や肌を濡らし、光の粒となって体内に滲み込んでいく。不快感はなく、寧ろ暖かな湯に漬かっているような安心感があった。レニィの加護の力だ。
「これで帰りも大丈夫なはずなのね。上手くいくことを祈ってるの」
そう言い残すと、レニィの姿は瞬く間に消えてしまった。不機嫌なままの、しかし最大級の激励を噛みしめ、ユイスは頷いた。
「さぁ、本番はここからだな」
降り立ったのは中心部から離れてはいたが、行き先は分かりやすかった。白く聳える時柱の神殿はそれ自体が目印である。さほど労することもなく、ユイス達は聖堂の扉の前まで辿り着くことが出来た。
「壊すかー?」
このところ立て続けに力を振るってきたイルファが口を開く。彼も気が昂っているのかもしれない。だが今回ばかりは穏便に済ませたいところである。
「必要ない。会いに来いと言ったのは向こうなのだから、入れてくれるだろう」
そう言って手をかけようとすると、扉はまるで話を聞いていたかのように道を開けた。微かに音を立て、細く隙間を開いて静止する。ここから先は自分で選べ、とでも言われているようだ。
「ユイス様」
呼び掛けられた声には、隠しきれない不安が見え隠れしていた。踏み出すことを躊躇うレイアの手を取り、自らの両手で包み込む。
「大丈夫だ。どうにでもしてみせる」
根拠のない励ましだった。これでレイアの憂いが晴れるはずもない。しかし彼女は緩く手を握り返し、小さく頷いた。今は、それで充分だ。
改めて扉に向き直り押し開こうと手を触れると、殆ど力を入れないうちに聖堂はユイス達を迎え入れた。ひとつ深呼吸をして、足を踏み入れる。時に取り残されたような空間は、相も変わらず美しかった。地上の神殿とは違う、海を通して注ぐ淡い光が波打つように辺りを照らし、幻想的かつ厳粛な光景を作り出している。だが改めて眺める聖堂はどこか無機質で、人々の祈りの気配が遠く感じた。元々奇跡的に風化のない場所だとは思ったが、使っていくうちに擦り減ったり、跡が残ってしまったような日常の痕跡すら見当たらないのだ。海の底ということを除いても、異質な神殿だった。無論、一番異質なのは最奥に安置された巨大な結晶ではあるのだが。
「覚悟はできたのかしら」
抑揚のない問い掛け響く。待ち構えていたのは、期待通りノヴァとメネだった。彼女たちはいつ出会ってもさして表情を変えることはない。声も平坦で、恐ろしいことはなかった。なのに奇妙な威圧感を覚えてしまうのは、やはり背後に鎮座する時柱のせいだろうか。以前訪れた時は抉り取られたように窪んでいた箇所には、ヴァルトから奪い返した結晶がぴたりと収まっている。その中央には、かつて世界のために捧げられた少女が今も眠っていた。一歩間違えれば、レイアもああなる。その恐怖を押し殺して、ユイスは聖堂の中程で足を止めた。拳を握り、前を見据える。空気に呑まれてはならない。最後まで足掻くと決めたのだ。
「答えは出した。それしか方法がないというなら、レイアを時柱とするしかないだろう。だが」
一度そう区切ると、ユイスは視線を上げた。どれほど見つめても時柱となった少女と目が合うことはない。彼女は何を思ってここに来たのだろう。時柱の歴史を正しく知っていたのだろうか。だが、それを考えても詮無いことだった。
「……時柱とするとしても、レイアがこんな風に閉じこめられる必要はないはずだ」
一拍置いて続いた内容に、ノヴァの眉が微かに動いた。メネの方には変化がない。しかしユイスは、自分たちが得た知識は誤ったものではないと確信した。
「その結晶と、中に取り込まれた少女は無理矢理に作り出されたものだ。『現在』の時柱は、普通の人間と同じように過ごすのが本来の姿だ。そうだろう?」
――時は移ろうもの。ゆえに現在の時柱はその時代の人間から選ばれる。そう言ったのはノヴァだった。手掛かりは初めから示されていたのだ。
地下遺跡の書庫には、まさにユイス達が求めていたものが残されていた。大陸統一以前、今よりも精霊、そして時柱の存在が人の近くにあった時代の記録である。それらによれば、移ろい続ける『今』という時の時柱は、柱となる者は時と共にあらねばならない。つまり、時の流れの中で生きる普通の人間と同じ状態であることが正しい姿なのである。『過去』のノヴァ、『未来』のメネとは些か事情が異なるのだ。『現在』の時柱となった者は時柱のための神殿――恐らくは今ユイス達が立つ神殿に居を移し、俗世と関わることは許されなかったという。しかし、巨大な結晶についての記述はどこにも見当たらなかった。ごく僅かではあるが、時柱に選ばれた人間と接触した者の記録もあった。彼らは物を食べ、会話をし、涙を流していた。間違っても結晶に閉じ込められ物言わぬ人形になったりしてはいない。生きて時柱としての使命を全うしていた。古と今とでは、時柱の在り方が変質している。それがユイス達が行き着いた真実の一端だった。
当然、疑問は次の段階へ移っていく。なぜ現存する時柱があのような状態なのか。その起点までは史料に記されてはいなかったが、ある程度推測することは出来る。その一助となったのはヴァルト達の存在だった。現在の旧へレスは不毛の土地で精霊に嫌われた地とまで言われている。おかしな話だ。在りし日のへレス王国とその王は、精霊王の一人――シルに類を見ないほどの寵愛を受けていたのである。今に残る史料、そして遺跡で見た幻を思っても、へレスは豊かで強い国だった。なのに今日の地図にはへレスの名残すら見当たらない。
「もし違っているなら否定してほしい。私の予想が正しければ、へレスを滅ぼしたのは貴方たちだろう。時柱としての力を振るい、ヴァルトの娘を奪い取って、その結晶に閉じ込めた」
彼女たちは精霊とは違う。しかし人知を超えた力を持つのは同じだ。本気で攻撃すれば人の国など瞬く間に潰してしまえるだろう。ヴァルトは彼女たちの怒りを買った責を負い、臣に誅殺された。遺跡で見たのは、まさにこの場面だったのだろう。へレスは混乱に陥り、ノヴァ達の力によって大地は枯れ、急速に滅びの道を辿った。大国滅亡の影響は他国にも波及し、やがて大きな戦へと発展する。それが現在、大陸統一戦争と呼ばれているものだった。調べてみれば、ちょうど時期も重なる。
「戦争に乗じて史料の殆どを燃やしたのも貴方たちだろう。人間をそう仕向けるくらい容易いことだろう――なぜだ? 少なくともヴァルトの娘の代まではこんな生贄めいたものではなかったんだろう。そうせざるを得ない理由があったというなら、それを聞くまではレイアを渡せない」
そう、重要なのは理由である。レイアが人として一生を終え、かつ時柱としての役目を果たせるならユイスも否やはないのだ。生きてさえいれば、また会うことも出来る。結晶に閉じ込めなければならなくなった原因があるのなら、それを取り除けばいい。それがどのようなものかは分からないが、努力していくことは出来る。上手くいけば、これ以上の不幸を生まなくて済むかもしれないのだ。現時点でユイスが考えられる最善策である。
しかしそれは、却ってノヴァ達の逆鱗に触れてしまったようだった。
「――まるで自分達こそが正しいような言い方をするのね」
一瞬、誰の口から出たのか耳を疑うような声音だった。常に淡々とした口調を崩さなかったノヴァの声が震えている。込み上げる感情を押し殺すように、それでも溢れ出てしまった何かを蔑むように、彼女は唇を歪めた。
「あの男が娘可愛さにいつまでもぐずぐずしているからよ。そもそもの原因は人間だというのに、自分達の罪も忘れた挙句私達に矛先を向けるなんて――理不尽にもほどがあるわ!」
堰を切ったように捲し立てて言い切ると、ノヴァは深く息を吐いた。興奮でのせいで乱れた呼吸、微かに青ざめて見える表情。これまで抑えていたものが一気に噴き出したかのように見えた。何度目かの邂逅で初めて見る人間じみた反応に、驚くと同時にユイスは安堵した。恐怖。苛立ち。彼女らは人と同じ感情を共有出来る存在なのだ。まだ対話の余地はある。ユイスはノヴァの顔色を窺いながら慎重に口を開いた。
「以前ここを訪れた時に聞いた話か? 大罪、と言っていたな。一体どういうことなんだ。知りたくとも、私達にはその術がない」
とある一人の人間が犯した罪の裁きとして、精霊と人の時の流れは分かたれた。確かそういう話だったはずだ。その後、人間達の世界の混乱を鎮めるために据えられたのが時柱という存在である。罪を忘れた、というのは間違いない。王家も、神殿も、時柱の存在を認識していなかった。ノヴァの話が事実なら、人は皆、時柱に全てを押し付けてのうのうと暮らしてきたとも言える。しかし、そうと分からないように隠してしまったのは彼女達だ。統一戦争で焼けた史料の一割でも残っていれば人々の在り方も違っていたのでは、と考えずにはいられない。だがそれが机上の空論でしかない以上、彼女達の口から語ってもらう他に知りようがない。
「……いいでしょう。この際だから全て聞けばいい」
ユイスの視線にノヴァが渋面を作って応える。あらぬ方向に目を向け、不機嫌なまま彼女の唇が紡ぐのは、遥か古の苦い恋物語だった。
「まだ、人と人ならざるものが共存していた時代、人間の女と精霊が恋に落ちた。ほんの偶然、ほんの気まぐれ、いつか自然と消え行くもの。そのはずだった。けれど二人は許されぬ恋に身を焦がし、やがて狂ってしまったの。自分達の子供を欲して、女は精霊を食らってしまった。精霊もそれを良しとした。身体に取り込んだ力と狂おしい祈りの結果、女の胎には双子が宿った」
眩暈がしそうな内容だった。そんなことがありるのかと、驚いている余裕すらない。しかし話にある男女と反比例するように、ノヴァの口調は徐々に落ち着きを取り戻していた。元々の平坦な――いや、より冷ややかな、と言った方がいいかもしれない。激情にかられた恋人達の狂気を淡々と話す様は、うすら寒いものさえ感じさせた。
「人と精霊は根本的に在り方が違う。精霊は神に連なるもの。人間が彼らを手にかけるなんてあってはならない。世界の理さえ揺るがしかねない罪だった。だから神は決断したの。この先、決して同じ過ちが起こらないように」
「そして人と精霊は隔てられた、か」
ノヴァの言葉の後をユイスが継ぐ。そうして、人の世の秩序を守るために時柱を据えた。ここは既に聞いている部分だ。だが恐らく、今の話の核心はもっと奥深くにある。流れからすれば、最初の時柱は――。
「その後は当然、精霊を殺めた女が槍玉に上げられた」
続いたノヴァの言葉に、ユイスは僅かに顔を顰めた。自分の予想は当たっているのだろう。時柱の、彼女達のことを思うとじわりと鈍い痛みが胸に広がっていく。
「女は人間達の時を安定させるための人柱として、身を捧げることになった。現在、という時間の固定として。けれど一人では不足していた。あと必要なのは過去、未来……それは普通の人間に背負えるようなものじゃない。出来たとしても、罪人の尻拭いなんて誰もやりたがる訳がない。そんな困り果てた人間達は、ある日都合のいいものを発見した。女の産んだ、人と精霊の合いの子である双生児」
ノヴァは細く溜息を吐いた。淡白な口調の中に嫌悪を滲ませて、更に続ける。
「双子の一人には過去を。もう一人には未来を。半分が精霊なら、人の時間に縛られず役目を負わせられる。そして母娘は時柱を祀るという名目で辺境の神殿へ幽閉された――死ぬまでね」
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