決別 8

 そう言いながら、ノヴァは頭上に目をやった。優美な天井画、細やかな装飾の硝子窓。それらは息をつくほど美しかったが、彼女達にはなんの慰めにもならなかっただろう。人の痕跡がないはずである。幽閉、という言葉からして、この場所を訪なう者がほぼ皆無だったことは容易く想像できた。
「母の死に様は、よく覚えてるわよ」
 いつの間にか視線を戻したノヴァが、不意に呟いた。
「土気色の肌で、痩せ細った枝みたいな手でずっと何かを探しているの。誰のものかも分からない名前を呟きながらね。食べ物も口にしなくなって、私達の声にも反応しなくなって、そのうち死んでた。悲しくはなかったけど困ったわ。埋める場所もなくて。時間の乱れに気付いた人間達が次の時柱を連れてくるまで、腐っていく死体を毎日見つめてた」
「もういい。充分わかった」
 とうとうユイスは降参の意を示した。当時の彼女達の心情は察するに余りある。しかしノヴァは語ることをやめなかった。
「母の処理をした人間の顔も、忌々しそうに呟いた言葉も全部覚えてる。忘れてしまえれば少しは楽なんじゃないかとよく思うわ。でも出来ないの。私はそういう宿命を負わされてしまったから。エル・メレクの過去は全て私の中にあって、永遠に逃れられない。この苦痛が貴方に理解できるのかしら?」
 言われて、ユイスは答えを返すことが出来なかった。ノヴァは小さく鼻を鳴らして、傍らのメネをを見遣った。ノヴァと違って、彼女が声を荒げるようなことはない。しかしその瞳はひどく虚ろで、凍りつきそうなほど冷ややかだった。
「メネは、私の逆。未来は空白。記憶なんてものは存在しない。だから、彼女の中には何もない。辛うじて時柱の宿命と私という姉妹がいることは理解できるけど、他の記憶は一日も持たない」
 背後でレイアが息を呑む気配がした。これまでユイス達との対話の殆どをノヴァが担っていたのは、そういう訳だったのだ。
「私達にとってここは揺り籠。そして永遠の檻。母の死が羨ましかったし、憎らしかった。罪を犯して、勝手に私達を産んで、全て押し付けておいて自分は死によって解き放たれた――ああ、あの結晶の理由だったわね。そんなものないわ。ただ疲れたの。母の罪が許されるまでずっとこのままなんて。『現在』の時柱は死という終わりがあるのにヴァルトも他の人間も我儘ばかり。それが不快で仕方なかった。これでいいかしら?」
 どこか投げやりにも聞こえる口調で、ノヴァは微笑んだ。どちらでもいい、と言った彼女の言葉を思い出す。素直に時柱として一人を犠牲にしようと、世界の秩序を壊そうと、自分達には何ら影響はない、と。ユイスはその思考を彼女達が人とは遠い存在であるが故だと思っていた。しかしそれは違う。人と近い部分があるがために自暴自棄になっている、という方が正しい気がした。長すぎる孤独と重責に疲れ果てたのだと、今なら分かる。『現在』の時柱がなくなり均衡が崩れれば、彼女達とて消滅の危険があるはずだ。話を聞く限り時柱は三柱揃って初めて正しく機能するものだろう。それすらも、滅びが解放であると彼女達は思うのかもしれない。
「……この仕組みはいつまで続くんだ。貴方たちの母の罪が許される日は来るのか」
 問うたところで答えがあるとも思えなかったが、口にせずにはいられなかった。記録にすら残らないほど膨大なエル・メレクの歴史は、時柱の存在の上に成り立っている。それでも雪ぎきれない精霊殺しの大罪。終わりがあるとして、あとどれくらいの時が必要なのだろう。そんな途方もない質問にも、ノヴァは律義に答えた。
「そうね。人と精霊の関わりがなくなれば、じゃないかしら? 二人が恋に落ちてしまったのが原因だから。もう少し具体的に言うなら、エレメンティアと呼ばれる人間がいなくなるまで。人と精霊が共に過ごしていた名残の力が消え去るまでよ」
 その回答に、ユイスは拳を握り締めた。昔と比べてエレメンティアの数は減っている。しかし完全に消え去るまでとなると、どれほど先の話になるのか。それに時が経てばまた時柱の存在が忘れ去られるかもしれない。結局同じことの繰り返しになる。
 だが、ここまで辿り着いて諦めたくはなかった。彼女達がいつ解放されるのかと考えれば同情の念は湧いてくる。それでも、レイアはここに置いていけない。人間は我儘ばかり。その通りだ。この件に関しては我儘を突き通すと決めている――ただ、人間の手には余り過ぎる問題だ。どうにかしてやる、と言うことも出来ない。
「そちらの事情は理解した。すぐにどうこうなるものではないが、幸いにして私は王族だ。時柱の話は後世に伝わるよう努力しよう。だから」
「人間の言うことなんて信用出来るものですか。今すぐ解放してくれるというなら別だけど」
 苦し紛れのユイスを遮り、ノヴァが言う。それでも、と続けようとして、ユイスは言葉に詰まった。彼女達の絶望を覆すだけの切り札などどこにもない。結局、どうにもならないというのか――そう歯噛みした、その時だった。
「時柱の解放を望むなら、出来るわよ」
 風が舞う。時を止めた神殿の空気が揺らぎ、動き出す。渦巻く風は徐々に収束して淡く色づき、やがてひとつの形を作り出した。しなやかな四肢。宙に広がる若草の髪。嫌というほどに見覚えがある。
「シル……!? なぜここに」
 反射的に身構え、背後のレイアを庇う。旧へレス遺跡で彼女は身を引くと約束した。ヴァルトも既にこの世にない。今更ユイス達の前に現れる理由はないはずだ。しかし彼女が姿を見せたこと以上に、その発言が場に大きな衝撃をもたらしていた。
「……貴方には私達からも色々と苦情を言いたいところなのだけど。いきなり現れたと思ったら何を言い出すのかしら」
 眉を顰めて言ったのはノヴァである。ユイスの聞き間違いではなかったらしい。疑念を込めてシルを見返すと、彼女は再び同じ言葉を繰り返した。
「時柱を解放できる。今の私なら」
 言いながら、シルは見せつけるように片腕を持ち上げた。白い肌に、硝子窓からの光を反射して淡い模様を作り出している――否、ちがう。肌の上に色が乗っているのではなく、その向こうの景色が透けて見えているのだ。よく見れば、腕だけでなく足も髪の毛も元の鮮やかさが失われ、周囲の色に溶け込むかのような透明感があった。不意に、レニィとの会話が脳裏に蘇る。シルはもう寿命なのだ、と。
「私が消える時には、神の元に力が還る。その時に起こる風でエレメンティア達の力を全てさらっていく。エレメンティアの数が減った今なら、造作もない」
「……可能なのか、そんなことが」
 眩暈がした。時柱のことだけでも人間の理顔の範疇を越えているというのに、神だの精霊の死だのと言われても是非を考える余裕はない。だが、それでも考えなければならないだろう。彼女の言うことが実現するなら、たった今押し問答していた事態が全て解決できることになる。
「それで全てを水に流せとでも? 死に際にまで恩着せがましい。何が望みなの」
 吐き捨てるようにノヴァが返した。忌々しいという感情が全面に出ているのが分かるが、不可能だと否定はしない。可能だ、と言っているようなものではないか。しかし、ユイスとて手放しで喜べるものではない。
「ノヴァに同調するわけではないが、私も疑問だな。ヴァルトと共に人を滅ぼそうとまでした貴方が、なぜ私達を助けるような真似を?」
 王都に残してきたエルドの表情を思い返す。彼の中ヴァルトは確かに消えたように感じられた。だがもしヴァルトが別の何らかの形で健在で、シルと共謀しているのだとすれば信用ならない。
 しかしシルは、こちらの考えを察したかのように小さく溜息を吐いた。
「ヴァルトは関係ない。以前から決めていたことだから……いえ、動機の一つではあるわね」
 歯切れ悪く呟くと、シルは交互にユイス達の顔を見遣った。ユイスとレイア、そしてノヴァ達へと。
「貴方達を見ているとヴァルトを思い出すから。同じ光景は何度も見たくない。人と精霊が完全に隔てられれば私とヴァルトや――彼女達のような者が生まれることはない。その時が来るのは早い方がいい」
 どこか沈痛にも見える面持ちで、シルは告げた。旧へレス遺跡で垣間見た、ヴァルトの最期。彼女が思いを寄せた者を失う発端となったのは時柱の存在だった。更に元を辿れば、時柱が生まれたのは人と精霊が愛し合ったからだ。シルがそれを自分達に重ねて思いを馳せることはあっただろうか。壮絶な愛の末に生まれたノヴァとメネを、どう見ていたのだろうか。
 そしてまた、ユイス達も過去の光景と重なる。王族という立場、大切に想う人物を時柱として捧げなければならないこと。ヴァルト達と形は違えど絆を深めた精霊もいる。エレメンティアが減っても、古と同じ悲劇の種はそこかしこに転がっていた。自分は違う、と断言することは出来ない。ユイスとヴァルトの境遇は似ている。レイアを差し出すのを躊躇った。ほんの少し、通った道が異なっただけのこと。シルの言う通り、その時は早いに越したことはないのかもしれない。
「疑うのは仕方ないでしょう。けど、私が何かしようものなら、そこの炎の精霊が今度こそ焼き尽くすでしょう。それにこの場の支配者はあくまで彼女達。私に優位性はない」
 嘘はないように思えた。シルと一戦交えた時、既に彼女は衰弱していた。それでもユイス達にとって充分大きな脅威だったが、なんとか退けることは出来たのだ。あの時より力が衰え、まさに命が尽きようとしている状態ならば、イルファがシルを消し去ることは難しくないのかもしれない。信じても、いいのだろうか。そうユイスが口を開きかけた時だった。
「好きにすればいい」
 どこかぎこちなく、しかし明瞭に響いたのはメネの声だった。ノヴァが目を見張る。驚く姉妹にちらりと目を向け、メネは続けた。
「どうなろうと、私はどうせ忘れてしまうし。何かが変わっても分からないだろうから。でも、ここから解放されて、全て望むように上手くいって、もし私の記憶がちゃんと残るようになったら……ノヴァも、少しは楽になるのかなって」
 その途端、張り詰めていた空気が弾けた気がした。ノヴァがメネの手を取り、次に細い身体を引き寄せ抱きしめた。表情は見えない。だが、苛立ちと怒りと諦めと――その他は無機質な顔ばかりだった彼女達の抱擁に、確かな人の温もりを見た気がした。ノヴァにとってメネは、永遠の孤独の中にあって唯一傍にあった存在だ。ユイス達には分からない絆があるのだろう。たとえ、昨日の記憶すら共有できないのだとしても。
 ノヴァはそれ以上言葉を発することはなく、ユイスに視線だけ寄越した。答えは定まった。もう障害はないと言っていいだろう。しかし――。
「貴方は、それでいいのか?」
 ユイスが改めて問い直した相手はシルだった。彼女の言う策が上手くいけば、ほぼこちらが望んだ通りの結果になる。なのにどうしても気が咎めるのは、結局のところ誰かが犠牲になる構図が変わっていないからだ。シルがエレメンティアの力を奪うのは、命を散らすその時。それは、彼女の残りの時間を奪ってしまうのではないか。だとすれば、時柱に犠牲を求めることとなんの変わりがあるのだろう。しかしシルは、呆れたように溜息を吐いただけだった。
「いいも何も、私の望みでもあるのだから。貴方が気にする私に残された時間など、精霊にとっては無いと同義。そもそも感覚が違うのを忘れないで。あるものだとしても……もう私にとっては無意味」
 不意に遠くを見たシルの瞳の中に、一人の男の姿があった気がした。風はどこにでもある。一陣の風となった彼女は世界の果てまでも行けるだろう。けれどその男の姿は既にこの世にない。ならばしがみつく理由はないと、シルは言いたいのだろうか。哀れむのも、後ろめたく思うのも、所詮はこちらの価値観でしかない。
「……せめて、いつか巡りの果てに再び
出会えることを祈らせてもらうよ」
 その時は、きっと過去のような悲劇にはならないだろう。全ては風がさらっていくのだから。シルは応えなかった。代わりに姉妹たちに向き直る。
「――さぁ、まずは貴方達から」
 手を取り合った二人は静かに目を伏せた。そこから先は、瞬く間の出来事だった。
 前触れもなくシルの姿が掻き消える。海に落ちた一滴の雫のように、空気に溶けて見えなくなった。かと思うと凄まじい旋風が場を支配した。意志を持ったかのような風の波はノヴァ達を呑み込み、間断なくユイス達にも襲い掛かる。髪を、肌を、抗おうとする意思すら嬲り、風は呼吸と混ざり合って身体の中さえも駆け抜けていく。何もかもを掻き回されるような感覚に見舞われ、気を失うかというところで、ようやく身体が解放された。噎せ返って膝をつくと、ひどく眩暈がした。いや、違う。自分ではなく、空間が震えているのだ。やがて腹に響くような轟音が聞こえる。これには覚えがあった。
「……まずいな。レイア、立てるか」
 同じように蹲っていたレイアに声を掛ける。散々風に弄ばれはしたものの、怪我などは無いようだった。レイアは肩で息をしながら頷くと、不意に何かに気付いたように呟いた。
「ユイス様……ノヴァ達は」
 その指摘にユイスは慌てて周囲を見渡した。今しがたの風で、聖堂の内部は荒れに荒れている。裏返り、真っ二つに折れた長椅子、砕けた色硝子の破片。時柱の結晶さえも元の形を留めてはいなかった。しかしその中にノヴァとメネの姿を見出すことは出来なかった。そして、時柱に閉じ込められていた少女の姿も。
「消えた……?」
 どこかへ退避したのだろうか。わざわざユイス達に声を掛けていくこともないだろうから、不思議なことではない。だが、奇妙な違和感が付きまとう。彼女達はどこへ、と首を傾げた瞬間、頭上で爆発音がした。熱を含んだ空気に火花が散り、細かな砂礫が頬を掠める。見上げれば、聖堂の天井が崩落し始めていた。瓦礫が降ってきたところをイルファに助けられたらしい。
「考えるのは後回しだな。とにかくここを出るぞ。海まで出ればレニィの加護に頼れる」
 そう言い放ち、ユイスはレイアの手を引いて駆け出した。自分の見る世界が大きく変わってしまったことは、気付かないままに――。

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