小さな炎 9

 小さな炎の化身が生み出した火種は、瞬く間に周囲を火の海へと変えていった。自警団の尽力により速やかに住民の避難は完了したものの、飛び火した民家の多くは猛火に飲み込まれ、既に手の施しようがなかった。それを見つめながらある者は取り乱し、ある者は放心し、またある者は泣き崩れてる――人々のそんな様子は、ユイス達の気分を深く沈ませるには充分すぎるものだった。
「……炎の王は、こうなることを危惧していたのだろうな」
 離れた場所から燃え盛る炎を見つめ、ユイスは呟いた。精霊は無条件に人間の味方というわけではない。だが、いたずらにこちらを害することもない。人は精霊に祈りを捧げるが、彼らがそれに応えるかは気まぐれである。そんな付かず離れずの距離感を、人と精霊は保っているのだ。
 ――それに構わず精霊が人の世に入り浸った結果が、この事態である。炎の王が言う“過干渉”とは、こういうことだったのだ。
「街の人には、なんて説明すればいいんでしょうか……」
 不安気にレイアが問う。真っ先に事を知らせて動き回ったのは自分達だ。当然、後々火事について詳しい話を訊かれるだろうが、正直に話すのは気が進まない。なにせ、原因は街が信仰している炎の精霊なのだから。
「何か、上手い言い回しを考える必要があるな。一度戻ってジーラス殿に相談するか――うわっ」
「どいてっ!」
 言葉の途中で背中に衝撃を受け、ユイスは前方へとよろめく。こちらを突き飛ばすように横を通りすぎた女性は、文句を付ける間もなく遠ざかっていった。
「ユイス様、大丈夫ですか?」
「ああ……なんだったんだ」
 レイアに頷きながら振り返ると、野次馬を掻き分けるように走る女性の姿が目に入る。その足が進む先にあるのは、炎に包まれた民家だった。
「――どいてって言ってるでしょう!? 通しなさいよ!」
「あんた何考えてんだ! 無理に決まってんだろ!」
 止めようとしたらしい男性と、激しい口論が始まった。女性はひどい恐慌状態に陥って金切り声を上げ、周囲の制止する言葉など耳に入っていないようだった。終いには男を押し退けてなおも炎に飛び込もうとし、周りの人間に地面に押さえ付けられてしまった。
「……いったい、なんの騒ぎだ?」
 思わずそうぼやくと、近くにいた青年がそれに応えくれた。
「子供が中に残っていたらしい。ちょっと家を離れた間に火が上がったんだと」
「――それは」
 ユイスは言葉を失い、再度女性に目を向ける。押さえ付けられたまま泣き崩れる姿は痛ましく、あまりにも悲愴だった。しかし彼女を行かせても、失う命が増えるだけなのは明白だった。非情かもしれないが、諦めろと言う他はないのだ。
「……ん?」
 不意に、ユイスはおかしなことに気が付いた。件の女性の傍で声をかけている、長い金髪の人物。どこか見覚えがあるような。
「まさか……」
 殆ど確信に近い予感を覚え、ユイスは恐る恐る自らの隣をに目を向けた。やはり、先程までそこにいたはずのレイアの姿が、ない。
「またあいつは……! じゃじゃ馬にも程があるぞ!」
 堪らずユイスは毒づいた。彼女が何を考えているかなど、想像に容易い。慈愛の精神のもと、数々の武勇伝を築いてきた聖女様だ。今の話を聴いて大人しくしているはずもなかったのである。案の定、彼女は炎上する家の中へと突っ込んでいった。
「すまない、通してくれ!」
 少女の奇行に呆然とする人垣を割り、ユイスは炎の前へと躍り出た。途端、熱された空気と煙が全身に降りかかる。
「レイア! 戻れ!」
 声の限りに叫ぶが、とうに彼女は中へと進んでしまっていた。
 ユイスは燃え続ける家をじろりと見据える。間近で見ても、足を踏み入れるのは非常に困難な状態だった。炎だけではなく、煙を吸い込めば毒になるし、燃えて柱を失えば家そのものが崩れる可能性もある。レイアのことだ、恐らく何かしらの精霊に助けを求めてはいるだろうが、危険なことに変わりはない。ましてや、レイアほど精霊に好かれてはいないユイスなら尚更である。助けに入ったところで、後から焼死体として発見されるのが関の山だ。
 このまま見ているしか出来ないのか――歯痒さに舌打ちした、その時だった。
「おい、人間ー」
 思わぬ方向から降ってきた声に、ユイスははっとして顔を上げた。ユイスの頭よりやや上から見下ろす、どこか気まずそうな色を湛えた金の瞳。所在無さ気に空中を漂っていたのは、事の発端となった炎の精霊だった。
「……なぁ、あの中の人間、死んじゃうかー?」
 弱々しい声で何を言うのかと思えば、意外にも人々の安否を憂うものであった。
 ――いや、純粋に心配しているわけではないのだろう。精霊が人の生死に特別な感情を持つことはない。そういえば炎の王の名を出した時、過剰に反応してはいなかったか。彼は、精霊王に咎められることを恐れているのだ。自らの不始末が、人間に予想以上の影響を及ぼしてしまったのだから。
 だがこれは使えるかもしれないと、ユイスは思考を巡らせる。
「ああ。ほぼ確実に、な。これでは助けに入っても死体を増やすだけだ。精霊の加護でもあれば、可能かもしれないが……?」
 ちらりと精霊を一瞥する。これ以上咎められる要因を増やしたくなければ、力を貸せ――言外にそう告げると、精霊は渋々ながらも頷いた。
「ううー、さすがに死んだらまずいからなー。仕方ないから協力してやるー」
「是非ともそうしてくれ」
 そう切り返すなり、ユイスは躊躇うことなく火中へ身を投じた。

コメント