小さな炎 10

 扉を開けて飛び込んだ先は、どこまでも赤い悪魔に支配されていた。目が眩むほど煌々と燃える炎、身を焦がすような灼熱。しかし、不思議とユイス自身が炎に焼かれることはなかった。一瞬怯んだ自分とは違い、平然と炎を見つめる精霊を横目で伺う。これは彼の力によるものだろう。やはり精霊の力は偉大である。
 思わず竦みそうになる両足を叱咤し、ユイスは奥へと歩を進めた。見通しが悪い中で確認出来たのは、居間と思しき部屋と台所、それから二階へと続く階段。レイアの姿は見当たらない。
「レイア! どこにいる!?」
 叫んではみるものの、その声も唸りを上げる炎に飲み込まれてしまう。応える声も聞こえてはこない。
「この辺は居ないぞー。上の方みたいだなー」
 いつの間にか辺りを調べたらしい精霊が、耳元で告げる。煙のせいで頼りない自分の視力よりも、炎に阻まれることのない彼の方が信用できそうだ。そう判断したユイスは、階段へと目を向けた。上の方、ということは二階か。
 その瞬間、ゴトンという重々しい音と同時に、微かな振動がユイスの足に伝わった。家の一部が焼け崩れたのだろう。精霊の力を借りているとはいえ、あまり長居はしたくない。早々にレイアを見つけて退散せねばならない。彼女の無事を強く祈りながら、ユイスは足早に階段を上った。
「……くそ!」
 駆け上がった先の状況は、毒づかずにいられぬほどに凄惨なものだった。下の階以上の勢いで燃える炎が周囲をなめつくし、天井の梁が落ちて一廊下や扉が塞がれてしまっている。
「レイア! どこだ!」
 絞り出すようにして声を張り上げた。熱で焼かれた喉が痛む。大声で呼び掛け続けるのもそろそろ限界だ。どうか早く応えてくれ――そう思う傍らで、胸の内では徐々に不安が膨らみ始める。もし、炎と煙で喉が潰れ、声が出なかったとしたら。あるいは、意識を失っていたとしたら。さして広くない屋内で応答が無いのは、応えられない状況なのではないか。 既に手遅れなのだとしたら。あえて考えないようにしていた可能性を、無視することが出来なくなっていた。
 じわり、と脳内を黒い影が侵食する。それを打ち消そうと、ユイスが再び声を上げようとした時のことだった。
「――さま」
「……レイア!?」
 微かだったが、それは間違いなくレイアの声であった。慌てて耳を澄ますが、どこが音源なのかはっきりしない。するとユイスの横にいた精霊がつい、動きだし、一つの扉を指し示した。
「ここみたいだぞー」
 彼にとっては声の出所を探るなど、朝飯前のことだったようだ。示された扉を見ると、丁度崩れ落ちた梁が斜めにかかり、開閉が出来なくなっていた。ユイスは慎重にその扉に近付くと、再度名を呼んだ。
「レイア! そこにいるのか」
「ああ、やっぱりユイス様! こんな所までどうやって……というか危ないじゃないですか! 早く戻ってください!」
 扉越しでくぐもってはいたが、その言葉は今度こそしっかりとユイスの耳へと届いた。その声に安堵の溜め息をつくと同時に、後半の台詞に若干の苛立ちを覚えた。どの口がそんなことを言うのか。それはお前のせいだろう、と返したくなるのをぐっと堪え、ユイスは扉の向こうの安否を確認することにした。
「私のことはいい。怪我は? 出られないのか?」
「えっと、怪我は無いです。さっきまで水の精霊が居てくれたので。ただやっぱり熱かったみたいで、逃げちゃったんですけど……扉も窓も開かないから、どうしようかと思ってたところです」
「……お前はもう少し焦ったらどうなんだ」
 どことなく悠長に答えるレイアに、ユイスは頭を抱えたくなった。こんな状況だというのに、彼女には危機感というものは無いのだろうか。
「あ、焦ってますよ! でも大変なときほど焦りは禁物だって神殿で教わりました!」
「わかった、わかった。とにかく、今助けるから大人しくしていろ」
 レイアが言っていることは確かに正しいのだが、どうにも頷く気にはなれなかった。それに、元よりそんな問答をしている場合ではないのだ。レイアに精霊がついていないなら尚更である。火の手は、確実に勢いを増してきていた。
「壊せるか」
 ユイスは横に視線を移すと、短く精霊に問うた。無論、目の前の扉を、である。
「お安い御用だぞー」
 精霊は軽く請け負うと、意気揚々と扉の前へと進み出た。
「レイア、少し下がっていろ」
「え? あ、はい――」
 レイアが返事を言い切らぬうちに、家を燃やす火とは別の炎が扉を突き破った。精霊の手から放たれた火球は爆弾の如く音を立て、扉は一瞬にして歪な大穴と化してしまった。
「いっちょあがりー」
「助かる。……もう少し間を合わせてくれたら、もっと良かったんだがな」
 得意気にふんぞり返る精霊を尻目に、ユイスは扉の残骸を踏み越える。粉塵が収まるのを待たずに進んだ先には、呆然と座り込むレイアの姿があった。危うく巻き込まれるところだったらしい。傍へ駆け寄り、改めてその無事を確かめる。煤にまみれ、髪の毛を所々焦がしながらも、怪我はしていないようだ。
「レイア、大丈夫か」
 その呼び掛けでようやく我に返ったらしいレイアが、慌ててユイスを見上げた。
「私は大丈夫です。でもこの子が……」
 彼女が守るように胸に抱き締めていたのは、三、四歳ほどの少女だった。気を失っているようだが、その小さな胸は緩やかに上下している。どうにか無事なようだ。しかし多量の煙を吸い込んでいる可能性を考えれば、一刻も早くここから脱出し、医者に診せるべきである。
 しかし、とユイスは来た道を見遣った。火勢は衰えることを知らず、床も壁も余すことなく燃やし尽くそうとしている。たった今通ってきた場所も、気絶した少女を抱えて行くのは危うい。
「戻るのは得策じゃないな。少々手荒だが、今と同じ方法でいこう」
 そう言いながら、ユイスは窓へと視線を向けた。採光用らしいやや小さな窓は、人が通るのには無理がある――この状態では。
「同じ方法……?」
 レイアは首を捻ったが、精霊はユイスの視線の意味に気が付いたらしい。どこか楽しげに、窓に向けて両手を振り翳した。
「おれの出番だなー!」
 そう精霊が言うやいなや、窓――というより、外界に接した壁の一面が吹き飛んだ。密閉されていた部屋が、轟音と共に随分と風通しの良いものになる。
「……もしかして、そこから飛び降りるんですか?」
 ユイスの考えを察したらしいレイアが、恐る恐るそう訪ねた。
「安心しろ。お前が登っていた神殿の外壁よりは高くない」
 ユイスはぴしゃりと言ってのけると、へたり込んだままのレイアを立ち上がらせた。ついでに少女の身体も受け取り、肩に担ぎ上げる。
「でも、この子が危険なんじゃあ……」
 なおも重ねられる言葉は無視し、ユイスは強引に彼女の手を引いて床の淵に立った。
「そこに炎の精霊も付いてるんだ、どうにかなるさ。もしも駄目なら、そこは“聖女”の出番だな。外壁でやろうとしていたのと同じことだろう」
「うぅ……わかりました」
 そこまで言うと、ようやくレイアは腹を括ったようだ。次いで、ユイスは炎の精霊を振り返る。
「そういうことだから、どうにか私たちの安全を確保して貰いたい。頼めるか?」
「うーん、飛び降りるのかー? そうだなー、うーん」
 彼は眉根を寄せ暫く唸っていたが、やがて何か閃いたようにぱっと顔を上げた。
「うん、大丈夫だー。まかせろー」
 先導するように自ら外へ飛び出すと、精霊は自信満々に頷いて見せた。そこから目線を下へとずらし、近くにも遠くにも見える地面を見据える。
「よし。大丈夫か?」
 傍らのレイアに声をかけると、彼女は無言で頷いた。繋いだ指先に力が籠ったのが分かる。その手をしっかりと握り返し、ユイスは強く床を踏みしめた。
「行くぞ。いち、にの、……さん!」
 その掛け声で、ユイス達は猛火を背に落下した。

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