水底に眠る 3

 人々の声と商品を運ぶ荷車の音、それを包むような潮騒。雑多なまでに賑やかなイルベスの町の中で、ただ一つ喧騒に溶け込まない白い建物。それが水の神殿だった。前に訪れた地の神殿とは対照的に、比較的歴史の浅い神殿である。その証拠を見せつけるかのように、陽射しを受けた外壁は真新しさを感じさせるほどに輝いていた。フェルダで見た古めかしい神殿の印象が残っていたから、尚更そう見えたのかもしれない。
 門をくぐり、神官の一人を捕まえ事情をかいつまんで説明したところ、彼は慌てて上司へ報告に走っていった。しばらく待たされたのち、ユイス達は特に身分を改められることもなく客間に通された。
「……妙な雰囲気だな」
「はい……なんだか、落ち着かないです」
 すれ違った神官達の様子を思い出して呟いた言葉に、レイアも同意する。ということは、気のせいではないらしい。
 神殿全体に、浮き足立ったような空気が漂っていた。誰もが平静を装ってはいるものの、どこかせわしない。客間への案内を務めた青年は妙にぎくしゃくしていたし、時折こちらに好奇の眼差しを向けてくる者もいた。初めはイルファを連れているせいかと思っていたが、どうも違う。今回、イルファはきちんと大人しくしていたし、視線はユイスとレイア二人に平等に注がれていた。
 ――精霊王に召喚されるなど冗談だろうと思ったが、彼等の反応を見ているとあながち嘘でもないようだ。精霊は気紛れに人を騙すこともある。レニィと名乗った精霊もその例ではないかと疑っていたが、考えを改めなければなるまい。
「……ようこそいらっしゃいました、お客人」
 やがて、あれこれと思考するユイスを呼び戻すようにして客間の扉が開いた。一歩進み出て恭しく頭を下げたのは、水の神殿の最高位、イゴール司教である。歳はまだ三十路をいくつか過ぎた程度。なで肩と垂れ下がった眉のお陰で気弱な印象を持たれがちであるが、エレメンティアとしての力と理知的な人格が評価され、現在の地位を授かった男である。
 イゴールは面を上げ来訪者の顔を交互に見つめると、テーブルを挟んでユイスの正面へと腰掛けた。レイアの頭上であぐらをかくイルファし微かに瞠目していたので、ある程度は彼の存在も近くできているのだろう。
 互いに簡単な挨拶を済ませると、イゴールは早速とばかりに切り出した。
「海に沈んだ街を、お求めだとか」
「……ええ、その通りです」
 神殿へ向かえ、と告げた張本人のレニィは早々にどこかへ飛び去ってしまったが、事前の根回しがあったのかイゴールは自分達の目的を知っているらしい。レニィの、或いは精霊王の意図は定かではないが、どの道神殿には訪れるつもりだった。ついでにこちらの用件も済ませても構うまいと、ユイスは語を継いだ。
「クロック症候群の手掛かりとなるかもしれない事です。お話を伺えますか」
「……残念ですが、私どもにもあまり話せることはないのです」
 一つ息をつくと、イゴールは傍らに控えていた神官から何かを受け取りテーブルに広げた。古びた羊皮紙に何か模様が描かれている。しばらく眺めていると、それが地図だと分かった。だがインクは劣化して掠れ、紙そのものも傷んであちこち破損している。辛うじてイルベス周辺の地図らしいと察することは出来たが、文字や図形を正しく読み取るのは困難だった。それに、どうも地形に違和感がある。
「これは、イルベスの地図ですか? 今とは少々地形が違って見えますが」
「ええ。こちらはおよそ八百年前――大陸統一以前の地図になります」
 イゴールが添えた説明に、ユイスは息を呑んだ。エル・メレクが統一される前の資料というのは、実は殆ど残されていない。多くは統一戦争の際に焼失、もしくは焚書の憂き目にあっていた。たかが地図ではあるが、簡単にはお目にかかれない貴重品である。
「この一帯がその街に該当する部分だと思われます。現在だと、この辺りですね」
 言いながら、イゴールは横にもう一枚地図を並べた。こうして比べると海へ突き出ていた岬は消え、沖の島々も無くなっている。昔の地図がどれほど正確なものかは分からないが、それにしても大きな地形の変化があったことは確かだ。
「全て海に沈んだと……? いったい、なぜ」
「分かりません。精霊の怒りを買った、等とも言われていますが、詳しくは」
「……そうですか」
 応えながらも、ユイスは密かに落胆した。結局、自分達で調べた以上の情報は無いということだ。だがそれも仕方のないことである。そもそも架空の物語を追い掛けて来たようなものだ。実在するらしいと分かっただけでも良しとするべきだろう――そう思い直したところで、イゴールから意外な申し出があった。
「それらしい資料も他に見当たらないのですが、実は遺跡のものと思われる残骸を引き揚げた漁師がおります。船の用意もありますので、案内させましょう」
「それは――有り難いですが」
 これには驚かざるを得なかった。船を用立てられれば、と考えていたことは確かだが、こうまで先回りして手配されているとは思わなかった。この神殿で話したことと言えば、神殿の関係者でクロック症候群について調べている、という程度である。これが事情をよく知るルーナの神殿なら分かるが、此処では詳細な身分さえ明かしていない。普通なら門前払いでもおかしくないくらいだ。こうも順調だと、かえって気味が悪くさえある。
「……なぜ、そこまで我々に協力を? 怪しいとは思わないのですか」
 訝しげな表情を出来るだけ隠しつつ訊ねたその返答に、ユイスは更に瞠目した。
「全ては精霊王の思し召しです。近々旅人が訪れるゆえ、その目的を果たせるよう助力せよ、と。私を含め複数のエレメンティアが声を聞いております。王の使いを名乗る精霊も現れ、あなた方を迎え入れるようにと。精霊に使える身として、成すべきことをしたまで」
 きっぱりと告げながら、イゴールは低頭した。それでもこれほどまで徹底しているのは、彼等の信心深さゆえか――平伏さずにいられぬほど、精霊王の言葉が強いのか。
「王の使い……レニィか」
「つまり、協力してやるから神殿に来いってことだったんですね」
 レイアの解釈に、ユイスも同意する。だが、どこか釈然としないものが胸に残った。炎と地、今までに二人の精霊王との邂逅を果たしているが、そのどちらも友好的だったとは言い難い。最終的にはどうにか助力を得ることに成功してはいるものの、相応の苦労を強いられている。今回は行動を起こす前に制裁が下るのかと身構えていたというのに、まさか積極的に助け船を出してくれるとは。これまでの経験から考えるといかにも不自然な気がしてならなかったが、わざわざ精霊が人を計略に嵌める理由も思い付かない。
「……如何なさいますか。出立されるのであれば、すぐにでも準備を整えさせますが」
 顔色を窺うようにしながらも、イゴールが促す。精霊から賜った使命を蔑ろには出来ないのだろう。その心境を思えば、断ることは躊躇われるが――。
「……行ってみませんか? 近くの精霊に訊けば、何か分かるかもしれませんし。今度は私の声もちゃんと届くと思うんです」
 黙考するユイスに代わって答えを出したのはレイアだった。彼女の言うことにも一理ある。人の歴史には残っていなくても、精霊達なら知っているかもしれない。トレルの森では叶わなかったが、水の精霊達が敵対しないなら彼女の力も存分に活かせるだろう。
「……それも、そうだな。イゴール殿、よろしくお願いします」
 レイアに頷きそう告げると、イゴールはどこか安堵したように頭を下げた。

コメント