水底に眠る 7

「まずは昔話から始めましょうか」
 ふわり、と優雅にドレスの裾を靡かせ、ノヴァは壇上の前の階段に腰掛けた。メネも同じ様に隣へ座る。しかし彼女はあまり喋る気は無いようで、どこか上の空だった。こういう事はもっぱらノヴァの仕事であるらしい。目線で促され、ユイス達も近くへ腰を下ろす。やがてノヴァは、静かに語り出した。
「遥か遠い時代のこと。神も、精霊も、人も、みな同じ時を生きていた。人間は誰もが精霊の姿を見て、言葉を交わし、彼等に触れることだって出来た。でもある時、一人の人間が大罪を犯した。それに激怒した神は、自分達の時の流れから人間を隔離してしまった」
「……初めて聴く話だな」
 始まりからして真偽が疑わしく思えて、ユイスは口を挟んだ。神、という概念は確かにあるが、馴染みは薄い。精霊より遥か高位の存在と定義されてはいるが、決して実態の見えない偶像のようなものだ。それが出来る人間は限られているとはいえ、実際に関わることのある精霊達と比べると現実味がない。
「それはそうでしょうね。大陸が統一される以前、多くの国がひしめき合っていた時代の、更にずっと前の話だもの」
 訝しむユイスを気にした様子もなく、ノヴァは更に続ける。
「その人間が隔離された時に、クロック症候群と同じ事が起きた……いえ、もっと酷かったわね。一度その現象に陥ればたちまち死んでしまった。苦悶の声があちこちから上がって、とてもまともな生活なんて送れる状態じゃなかったわね。時間という秩序を失った世界に、人の身はとても耐えられなかった。流石にそんな人間を哀れに思ったのかしらね。それを食い止めるために新たに作られた秩序が、時柱という存在。それによって人は生きることを許された」
「つまり、それが貴女達の事だと?」
 そう、と短くノヴァは首肯した。俄かには信じ難い内容にレイアと顔を合わせるが、彼女もまた戸惑ったような視線を返すだけだった。平然と海の底にいることやユイスの体験を考え合わせれば、彼女らが人ならざる者であるのは納得できなくもないが――。
「……少し、質問したいのだが」
 胸の内に疑念を燻らせながら、ノヴァに向かって口を開く。促す言葉はないが拒否もなかった。都合の良い方へと解釈して、ユイスは更に語を継ぐ。
「その話を信じるならば、時柱という存在によって当時のクロック症候群は収束したのだろう? なぜ貴女達がいる今も同じことが起こるんだ」
 ノヴァの話を要約すれば、時柱が存在すればクロック症候群は起こらないという事になる。実際今日まで続いた歴史の中に記録が残っていないのだ。それがなぜ、今になって大陸を浸食し始めたのか。
 ユイスの問い掛けに暫し黙考した後、ノヴァはぽつりと告げた。
「奪われたの」
「……奪われた?」
 言葉の意味を掴みかね訊き返したユイスから顔を背け、ノヴァは高く聳える結晶に目を向けた。その中央、抉られた部分に視線を据え、ノヴァは続けた。
「過去、未来、そして現在を司る時柱があの結晶だった。けど、見ての通り砕かれて、一番大切だった核が奪われてしまった。そこから、今回のクロック症候群が始まった」
「……誰が、何のために!」
 思わず、語気が強まる。もしクロック症候群が誰かが意図して起こした現象であるなら、国を守る者として許し難かった。そのために、どれほどの民が不安と悲しみに暮れていることか。
 だがノヴァは静かに頭を振る。
「分かることもあれば、分からないこともある。ひとつ言えるのは、精霊が噛んでいるであろうということ」
「精霊が奪ったと? なぜ?」
「さぁ。けど、人間の貴方達は招かれなければ此処へは来られなかった……そうでしょう?」
 ノヴァの言わんとするところを察して、ユイスは口を噤んだ。人が自力で此処へ辿り着くのは不可能だろう。ましてや、あんなに巨大な結晶を破壊し持ち去るなど無理な話だ。
 ――理解はしたが、ユイスは少なからず衝撃を受けていた。クロック症候群は人の領分を超えた現象だと思った。だから精霊の知識を求めた。だが、これでは精霊が自らの意志で人を滅ぼそうと仕向けているようではないか。長く人間と共存してきた筈の存在が、なぜ。不確定な要素が多いにしても不安は募る。頑なだった精霊王、精霊の怒りを買って沈んだと言われるこの町。一体、何を意味しているというのだろう。
「それで、本題なのだけど」
 黙り込んだユイスの反応など気にかけた様子もなく、ノヴァは切り出した。
「貴方達には、あの結晶の核を取り戻して欲しいの。そうすれば、クロック症候群も無くなっていくでしょう」
 彼女の言葉に、ユイスはたった今感じた困惑を忘れるほど強く反応した。まさにその方法を求めていたのである。改めて、ユイスは時柱を名乗る二人の女性を見やった。
「……クロック症候群から民を救えるなら否やはない。だが、我々のような脆弱な人間を頼るより、貴女達が直接動いた方が早いだろう。時を司るというのだから、人には持ち得ない力があるのだろう? それに、今までに原因や治療法を探していた者はいくらでもいた筈だ。なぜ私達にそれを求める?」
 彼女達の見た目は人間と何ら変わりはない。言葉も、動きも人そのものだ。しかしその口から語られる内容はあまりに途方もなく、人智の及ばぬところにある。内容に整合性はあるように思えたが、唐突な話の転換にいささかの不信感を覚えずにいられなかった。
「簡単に理由を言うなら、貴方達がやる方が何かと都合がいいと思ったからよ」
 答えながら、一瞬だけノヴァはユイスから視線を外し、レイアに移した。しかし、それに違和感を覚えるより早く彼女は言葉を続ける。
「秩序の崩れた今の世界に私達が出て行けば、余計に事態が悪化する。影響を与えないように、普段は時空の狭間に隠れているのよ……そうね、分かりやすくしてあげましょうか」
 言うが早いか、ノヴァは徐に立ち上がりユイスに手を伸ばす。その指先が額に触れた瞬間、強烈な眩暈がユイスを襲った。心臓が不自然に脈を打つ。呼吸するための機能が麻痺してしまったかのように、上手く息ができない。
「――ユイス様!?」
 悲鳴のようなレイアの声を聞きながら、ユイスは床に倒れ込んだ。とても姿勢を保っていられない。込み上げてきたものを抑えきれず、その場に嘔吐する。朦朧とする意識の中で、レイアが慌てて傍へ寄ってきたのが分かった。呻き声さえ上げられないユイスに変わり、彼女はノヴァを糾弾する。
「何をしたんですか!」
「何も。触れただけよ。私達が人の世界を動き回ればクロック症候群を煽る事になる……よく分かったでしょう」
 動揺の欠片さえ見せないノヴァの言い分に、ユイスは妙に納得した。船の上で体調が優れなかったのは、彼女達に近付いていたせいか。
「だからって、こんな風にしなくても――」
「レイア、いい。少し落ち着いてきた」
 尚も言い募るレイアを制そうと、ユイスは声を絞り出した。嘘を言っているわけではない。ノヴァが身を引いて、急速に苦痛が和らいでいった。まだ少し眩暈はするが、動けなくはない。慎重に身体を起こし、ノヴァを見る。
「……疑問は残っている。が、貴女達の話に信憑性はありそうだ」
「分かってもらえたなら良かったわ。納得しないなら、メネにもやってもらおうかと思ったもの」
 肩を竦めたノヴァの発言に、背筋が冷える。ノヴァは過去、メネは未来に纏わる力を持つらしい。メネに触れられれば、幼く時を戻した身体が今度は老人になってしまっていたのだろうか。そんな風に身体の時間をいたぶられては、文字通り寿命が縮んでしまう。
「……冗談にしては笑えないな。それで、具体的に私達にどうしろと?」
「いいのかしら? 後ろの子は不満なようだけど」
 揶揄するようにノヴァが指摘する。レイアに視線を移すと、彼女は目を伏せ微かに首を振った。
「不満、なわけじゃありません。ただ、ユイス様の身体が危うい状態なんだと、改めて思っただけで」
 そこで言葉を切ると、レイアは唇を噛みしめ沈黙した。ノヴァによってユイスの状態が激変したことを心配しているらしい。随分みっともない姿を晒してしまったから、不安に思うのも仕方ない――ノヴァの影響ではなくとも、今後同じようなことが起こらないとは限らないのだ。ユイス自身も、それを痛感していた。しかし、それに怯んでばかりはいられない。
「……確かにそうだが、初めから承知の上だ。どちらにせよ先に進まなければ希望はない。エル・メレクを救えるのなら、この程度の代償は大したものじゃない」
「それは見上げた精神だこと」
 レイアが何かを言いかけたが、それはノヴァによって遮られる。切れ長の瞳が、冷たくきらめいた。ユイスと話しながらも、時折ノヴァの瞳はユイスを通り越してレイアに向けられている。気のせいでなければ、沈黙を決め込んでいるメネも同様である。それも、敵意を含んだような眼差しを――しかし違和感としてはっきりと認知する前に、ノヴァは次の行動に移っていた。
「メネ」
「ん」
 短いやり取りの後、こちらへ碌に興味を示さなかったメネが立ち上がった。あれで話が通じるということは、彼女も一応は話を聴いていたらしい。メネはユイスの前を通り過ぎ、レイアに向かってずい、と何かを押し付ける。困惑の表情を浮かべながらもレイアが手を差し出すと、掌に置かれたのは背後にある結晶の一部だった。丁度、子供の拳ほどの大きさである。レイアが受け取ったのを確認すると、メネは一言も口をきかずさっさと元の場所へと戻ってしまった。代わりに説明を引き受けたのは、やはりノヴァである。
「時柱を奪った者の行方は私達も分からないけれど、核とその欠片は共鳴する。道標にはなるでしょう」
「……それを、なぜ私に?」
「エレメンティアとしての力は貴方の方が強いのでしょう? 道標をより正確に読み取れる」
 ならばこの結晶は、やはり精霊の力によって作られたものなのだ。しかし彼女達は自分を精霊とは決して言わない。その事に妙な引っ掛かりを覚えたが、今は余計な詮索をする時でもない。これでクロック症候群が収まるというなら些細なことだ。そもそも精霊の考えなど、人間が全てを理解出来るはずもない。
 レイアもまた同じような結論に達したらしく、渡された石を大事そうに握り込んだ。
「さぁ、話が纏まったところで貴方達には早々に旅立ってもらわなければ」
「……そうしたいのは山々だが、私達はどうやって地上に戻ればいい?」
 身も蓋もないノヴァの言い草に辟易しつつも、ユイスは尋ねた。ここへ来るには彼女達に『招かれた』らしいが、海に呑まれて以降の過程は全く覚えていない。彼女らの力でどうにかするのだろうが、先程ノヴァに触れられた時の事を考えるとあまり好ましくない方法のように思えた。まさか、泳いで帰れとは言われまいが――。
「ああ、それなら問題ないでしょう。とりあえず、外へ」
 何が問題ないのかはさっぱり分からなかったが、促されるままユイス達は聖堂を後にした。だが、ノヴァとメネが着いて来る様子はない。どうするつもりかと問おうとして振り返れば、彼女達の姿は既に掻き消えていた。
「……いません」
「結局、どうすればいいんだ」
 恨みがましく呟くと、仕方なしにユイスは歩き出した。方法は自分で見つけろ、といったところか。見当もつかないが、とにかく街を歩いてみる他はない。そう思ったのだが、レイアに動く気配がない。
「レイア、どうした」
 彼女は微動だにせず、視線は上空に釘付けとなっていた。呆然としたように、レイアは言う。
「ユイス様。空が」
「空?」
 レイアの視線を追ってユイスも上空を見上げる。するとそこには、信じられない光景があった。
 果てなく広がる空が、大きくひび割れていた。空、もとい青々とした海水とこの空間とを隔てている不可視の膜に、あちこち亀裂が走り始めているのである。目で捉えるのも難しいほどの速さで亀裂は広がっていき、その間にも別の箇所でひびが入る。既に穴が空いて滝のように水が流れ込んでいる場所もあった。
「――何が問題ないだ、くそ!」
 吐き捨てるように毒づくうちにも、膜の崩壊は瞬く間に進行していく。流れ込む水の勢いで穴は更に拡大し、滝はより太く強くなる。気付けば足下が水に浸り始めていた。どすん、と地響きにも似た音が耳を打つ。
「み、水の精霊に……!」
「駄目だ、間に合わない!」
 叫んだ瞬間、空間を守っていた膜は儚くも砕け散る。一瞬にして膨大な量の海水が流れ込み、ユイス達はなす術もなく水に浚われた。

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