水底に眠る 6

 ざり、と、何か異物を噛んだ感触がした。不快感を取り除こうと反射的に吐き捨てた唾は砂混じりで、舌の上が妙に塩辛い。身をよじると、あちこちが痺れたように痛んだ。小石か何かを下敷きにしたまま倒れていたようだ。その刺激で、ようやくユイスの意識は覚醒する。
「……生きているのか」
 己の身に降りかかった出来事を顧みて、ユイスは呟いた。水に叩きつけられ、波に揉まれ、足掻くほどに身体は沈んでいく。あれでよく溺死しなかったものだ。直前のクロック症候群の発作にしろ、不可解なあの海の荒れ方にしろ、ついに精霊の怒りが頂点に達し粛清が下されたかと思ったほどだが――どうやら自分は悪運が強いらしい。
 軋む身体を叱咤し、顔を上げる。辺りに他の人間の姿は無いようだった。レイアやイルファ、レニィはどうしただろう。同乗してくれた船乗り達も無事だろうか。自分のように上手くどこかに打ち上げられていればいいが、あの状況ではどんな形になっていてもおかしくはないだろう。その可能性はあまり考えたくはなかったが、彼らを探さないわけにはいかない。立ち上がり、まずは現在いる場所を把握しようと周辺を見渡し――そして、初めて明確に視界に映した光景に目を奪われた。
 頭上に輝いている太陽は水面に映るが如くゆらめき、地上には紗を通したかのような薄い光が降り注ぐ。深く青い空には大小様々な魚影が踊り、まるで海の中に立っているような気分になる。否、ここが真実海の底であることを確信するのに、それほど時間はかからなかった。まるで透明な硝子の箱を水に沈めたように、この辺り一帯だけが海水に満たされることを拒み空間が出来ているのだ。
 思わず後退った足下で、ぱき、と音が鳴る。踏み潰した砂礫は微かに乾いた響きを残して砕けた。海水で浸食されたようには見えないが、今し方まで自分が転がっていた石畳は至る箇所が剥がれ、ひび割れ、酷く傷んでいる。風化して崩れた壁。埃の溜まった水路。かつて人々の生活を支えていたもの達の、成れの果て。本来持っていた筈の色彩を失い、ここには寒々しい砂色しか残っていない。見えない硝子で覆われた箱庭は、永く放置された廃墟だった。それも、朽ちてから何百年と時が流れたものに違いなかった。
 そんな形骸化した町の中で、ひとつだけ元の面影を強く残している建築物があった。緩やかな上り坂の先に、白く巨大な柱が立ち並んでいる。更にその奥には、遠目にも分かるほど荘厳で優美な聖堂が見えた。
「神殿……か?」
 目にした形から導き出せる答えはそれしかなかった。退廃しきった町の中でも威風堂々とした姿を失わずにいるのは、やはり精霊の加護ゆえだろうか。
 少し悩んで、ユイスはその神殿に向かってみることにした。船で見せてもらった破片は、あの神殿のものかもしれない。ならば目指す手掛かりはそこにある。他の者の安否が気にならない訳ではなかったが、レイアが近くに流れ着いていれば同じことを考えるだろう。上手くいけば落ち合える。
 ――それにしても、ここはどこなのだろう。当然の疑問が今更になって湧き出てくる。水の神殿で聴いた海に沈んだ街というのがここならば、名前すら残されていないというのは奇妙に思えた。あれだけ立派な神殿を擁していたのだから、元々はかなりの規模だったと思っていいだろう。逸話の一つでも語り継がれていて良さそうなものなのに、まるで意図的に排除されているかのようにも感じられた。
 海水が揺らめく空を見上げる。結果的にレイアの言った方法で訪れることになってしまったようだが、どれくらいの深さにあるのだろう。これまで誰にも見つかっていないのだから、人が潜れるような深度ではないはずだ。もしくは、街を包む膜がなんらかの力で目隠しをしていたか。八百年もの間巧妙に隠されてきたのに、今になって存在をほのめかすような遺物が引き揚げられたのも不思議な話だ。
 つらつらと考えているうちに、神殿は既に目の前に来ていた。なだらかな階段を上りきれば、白い柱が立ち並ぶ入口である。
 近くで眺めると、この神殿もまた長い時に晒されたものであるのが分かった。他よりましではあるものの、そこかしこがひび割れ、砕けている。それでも柱の装飾にはっきりと精霊の意匠を見て取ることができた。描かれているのは三人の女性、だろうか。船で見せてもらった石の彫刻とよく似ている。これで何の精霊が祀られていたのか明らかに出来れば良かったのだが、残念なことにユイスでは知識不足のようだ。
 そしてもう一つ。神殿の付近まで来ると、足下の砂礫に薄緑の結晶が混じり始めていた。これも船で見た物と同じである。粒の形は不揃いで、もっと大きな物が砕けた跡のようにも見える。
 聖堂の扉は、ユイスを招き入れるかのように僅かに隙間が開いていた。誘われるままに中へ入ろうと足を踏み出し――そして、すぐに立ち止まった。
「動かないで」
 冷徹な声と共に、首筋にひやりとした感触が走る。刃物だ、と反射的に判断し、ユイスは息を詰めた。人の気配など無かったはずだ。いつの間に背後を取られたのだろう。
「……どなた様かな」
「それを訊きたいのはこっち。どうやって入ってきたの」
 苦し紛れに間の抜けた質問を放ってみるが、相手の対応は冷ややかだった。とても対話できる雰囲気ではなさそうである。今の状態で得られる相手の情報は、刃を持つ腕が存外華奢であること、声が女のものであること。女性が相手ならユイス一人でも立ち回れないこともなさそうだが、こんな場所にいる時点で相手もただ者ではないはずだ。迂闊なことは出来ないが、どうしたものか――そう思案を巡らせ始めたところで、更に別の声が割って入った。
「メネ、やめなさい」
 その人物は、突如として現れたように見えた。足音も、衣擦れの音さえひとつも立てず、気付けば神殿の扉の前に一人の女性がいた。短く揃えた濡れ羽色の髪、深い知性が垣間見える葡萄酒色の瞳。ドレスは胸元と裾に花の意匠があしらわれ、歩く度に生花の如くふわりと揺れる。上品な装いも、洗練された所作も、廃墟に似合わない立派な貴婦人のものだった。
「客人だと言ったでしょう。もう忘れてしまったの?」
「ノヴァ」
 窘めるような声に応じて、ユイスを拘束していた相手が喉元から刃を引いた。メネと呼ばれた彼女は、もう一人――ノヴァという名らしい人物の元へ駆け寄っていく。そこでようやく、ユイスは自らの動きを奪っていた者の顔を知ることが出来た。首筋を流れる髪は青く光沢を放つ銀、大粒の宝石のような瞳は澄んだ藤色。年齢的にはノヴァという女性と変わらないように見えるが、随所にフリルをあしらった衣装のお陰か幾分幼い印象を受けた。
「また、そんな無茶をしたの」
「これが一番ちょうど良かったのよ。手っ取り早いと思って」
 促されて得物を手放したメネの手には、赤く血が滲んでいる。地面に投げ捨てられたのは、辺りに散らばる結晶と同じ物だった。刃だと思っていたのは、彼女が鋭利な結晶を拾ってきたものだったらしい。柄の無いナイフを素手で掴んでいたようなものなのだから、その掌は遠目にも痛々しい。
 どこから取り出してきたのか、ノヴァはメネの傷にきっちりと布を巻きつけ処置をしていた。手付きには全く淀みがなく、慣れた様子で布の端を結ぶ。また、という言い方からして、よくある事なのだろうか。まるで妹を心配する姉のよう――否、対称的にも思える色彩の二人がこうして並ぶと、対となることを定められた者達のようだ。それでいて相反しているような、不思議な光景である。
 そこでふと、ユイスは既視感を覚えた。以前にも、この感覚を味わった事がある気がする。そう首を傾げた瞬間、ノヴァと目が合った。
「……中へ」
 一言そう告げると、彼女はメネを伴い聖堂へと踵を返した。ついて来い、ということなのだろう。僅かに逡巡した後、ユイスも彼女達に続いた。不明な状況は相変わらずだが、分からないまま立ち止まっているよりは行動した方がいい。そうして中へ足を踏み入れると、外で目覚めた時とはまた別の意味でユイスは驚愕することとなった。
 聖堂の中は、風化した外観からは想像もつかないほど美しかった。色硝子の窓は仄かな光を受けてきらめき、天井に描かれた絵画も色鮮やかに残っている。壁や柱の彫刻もより繊細なものが施され、僅かに欠けた様子さえなかった。状態が良い、という言葉だけでは済まない。この場所だけが時を止めているかのようだ。
 中でも特に目を引いたのは、堂の最奥、本来ならその神殿で祀られる精霊の像が安置されるべき箇所だった。そこには本来有るべき像は無く、代わりに巨大な結晶が鎮座していた。淡い緑が湖水のように揺らめき自ら微かな光を放っているようにも見える。ゆうに天井まで届こうかというその結晶は、ちょうど中央が抉り取られたように砕かれていた。散らばっていた欠片の大本は此処だったようだ。途方もない大きさの水晶にひたすら目を奪われていると、ふと視界の隅に異物が映りこんだ。結晶の根元に、横たわる人影。
「――レイア!?」
 豊かな金髪を床に流し倒れているのは、確かにレイアだった。慌てて近寄り抱き起こすと、身体は暖かく胸は穏やかに上下していた。生きている。その事に安堵の息をつくと同時に、背後から足音が聞こえた。
「そんなに睨まないでちょうだい。ここへ運んだだけよ」
「……どうだかな」
 ユイス達を見下ろし、事もなげに告げたのはノヴァだった。そう言われたところで、此方からすれば彼女達は得体の知れない人物だ。簡単に信用は出来ない。
 更に詰問しようと口を開きかけたところで、腕の中でレイアが身じろぎした。重そうに瞼が持ち上げられ、孔雀石の双眸が現れる。
「レイア! 良かった、目が覚めたか」
「ユイス様……? ここは?」
 ゆっくりと身体を起こしたレイアが、戸惑ったように辺りを見回す。そして、ユイスと同じ様に巨大な結晶を見上げ息を呑んだ。
「船から投げ出されたのは覚えてるな。私達はそのまま海に沈んで、例の街に招かれたらしい」
「……招かれた?」
 困惑したままのレイアからひとまず視線を外し、ノヴァに目で問う。メネも傍に立ってはいるが、禄に此方を見てもいない。事情を訊くなら、ノヴァの方が適切に思えた。
「ええ。あなた方をここへ招いたのは、私達」
「いい加減思い出してきたよ。以前にも会ったことがあるな。夢だと思い込んでいたが」
 ルーナの街で気を失った時。そして船の上で発作に見舞われた時。何処とも知れない不思議な空間で、この二人と対峙した。切っ掛けさえ掴めば、なぜ今まで気付かなかったのかと思うほど鮮明に記憶が蘇る。抑えつけていた枷が無くなって、一気に溢れ出してきたようだった。二度まみえたその両方で、謎めいた言葉だけを残した美しき姉妹。
「今度こそは答えてもらおう。貴女達は何者だ。人か、精霊か」
「……私達は時柱(ジチュウ)と呼ばれる者。私は過去を、メネは未来を司る」
 淡々と、ノヴァは答えを返す。聞き慣れない言葉に首を捻るユイス達を尻目に、彼女は水晶柱を見上げた。
「知りたいんでしょう、クロック症候群のこと。話しましょう。あなた方が、望むことを」

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