犠牲 1

 濃密な緑の木々を背景に、鮮やかな青い髪がふわりと揺れる。本来なら己の領域ではない場所に現れた水の眷属の姿は、どこか場にそぐわないような違和感と、確かな味方が身近にいるという安堵をユイス達にもたらした。
「さて、話の続きをしなきゃなの」
 驚きの正体を明かしたレニィだったが、今は自分達のよく見知った小さな精霊の姿だった。精霊王ともなれば、見た目を変えることも容易いらしい。のろのろと山道を下る一行の周囲を、彼女は気の向くままに漂っていた。もしかしたら、何かしらの力を働かせるためなのかもしれない。急勾配かつ不安定な道が厳しいのは行きと同様だが、そのわりには呼吸が楽だった。心なしか肌に感じる空気も冷たく、火照った身体に心地いい。
 ――しかし、それに感謝するのと、これからする話とはまた別のものである。
「聴かせてもらう……が、その前に尋ねたい。私達の目的を知っていたのに、何故もっと前に話してくれなかったんだ。その口振りからして,
彼らのことを知っていたんだろう」
 平然と切り出そうとするレニィに、問い掛ける声は自然となじるようなものになった。精霊王に対して不敬であるとは自覚していたが、言わずにはいられない。ヴァルト達の企みを知っていたのなら、イルベスでいくらでも話す機会はあった筈なのだ。事前に伝えていてくれたならユイス達は無駄足を踏まずにリエドまで辿り着けただろうし、風の神殿での惨劇も或いは防ぐことも出来たかもしれない。彼女のお蔭で命拾いしたことは確かだが、今更になって、という気持ちが少なからずあるのも事実だった。
「あの時点ではシルが関わっているって確信が持てなかったから。私だってそんなに簡単に動けるわけじゃないの。こうやって話すことも関わりすぎなくらいなのよ。それに……」
 ユイスの態度に不快を示すわけでもなく、レニィは目を伏せる。僅かに沈黙を挟むと、彼女はこう続けた。
「これは、彼女達の傷に関わる話だから。本来なら、精霊王の間でだけ守られてきた秘密の一部なの。だから、覚悟して聞いて」
「精霊王の、秘密……」
 その言葉に、心臓が大きく脈打った。今しがたまでの憤りが消えたわけではないが、否応なくそれを上回る期待と緊張感が溢れてくる。これまでにまみえた精霊王達は、何かを知りながらもユイス達をはぐらかしている節があった。それがようやく明らかになる。クロック症候群根絶への道が、より確実なものとなるのだ。旅の終わりが見えたと言ってもいい。
 しかしユイスは、レニィの言葉の中に違和感を覚えた。彼女達、とは。
「前置きをしておくけど、私も全てを知っているわけじゃないの。私は王の中では若い方だから自分の時代での話だし、不確かな部分もあるからね」
「それでも私達より遥かに多くのことを知っているだろう。話してくれ」
 何かを案じるかのように念を押すレニィに、ユイスは話の続きを急かす。掴みどころのない小さな懸念はあったが、今は時柱やヴァルト達のことを知る方が重要だ。それに、違和感の正体は話の中で解き明かされるという予感があった。
 ユイスの催促に、レニィは覚悟を決めたように口を開いた。
「あんた達の国が出来るよりずっと、昔の話なの。あの男――ヴァルトが王だった時代のことよ」
 先導するようにユイス達に背中を向けながら、レニィは語り始めた。一言とて聞き逃すまいと、ユイスは彼女の言葉に集中する。きっと何もかもが得難い情報であるはずだ。人々の記録には残されていない歴史の片鱗が、精霊王の口から真実味を帯びて明らかにされていく。妄言ではなく、ヴァルトという王は実在していたのだ。
「その頃は、まだ今より人と精霊の距離が近かったの。エレメンティアも多かったし。盛んとまではいかないけど双方の交流はそこまで珍しくなかったのよ。親しい関係を築いてた奴らもいたみたいだし」
 言われて、その光景を想像してみる。例えば今歩いているような森の中で、或いは川べりや、時に街の中で、人と精霊が当たり前のように言葉を交わしている。他愛ない話に笑いあったり、些細なことで喧嘩をしたりする。そう、今も人間が友と語らうのと同じように――それは、ある種の異様さも感じるものだった。現代の感覚では、精霊は崇め、敬い、祈るものであって、存在を疑いはしないがどこか遠い世界の住人だ。エレメンティアであってもその感覚に大きな違いはないだろう。レイアのように精霊に好かれる者も中にはいるだろうが、彼女は特例中の特例であって参考にはならない。
「なかなか信じがたい光景だな。今の精霊達は、どちらかというと人を敬遠しているように感じるが」
「……別に嫌ってるわけじゃないの。単に、エレメンティアの数が減って交流の機会も少なくなったから。実際、あんた達は随分仲良くしてるじゃないの」
 レニィの指摘に、反射的にユイスはイルファを見遣る。エルドの件が後を引いているのか、単に話の内容に興味がないのか、彼はレイア頭上に陣取ってぼんやりと宙を眺めていた。改めて考えれば、彼との付き合いもそこそこの長さになる。共に旅をすることになったのは成り行きだったとはいえ、共有する時間が長くなれば愛着も増していくものだ。互いにすっかり砕けた態度になっている。レニィに対してもそうだ。
 不意に、海底の神殿でのやり取りが思い出された。精霊も人も同じ時を生きていた、とノヴァは言っていた。あの時の話と合わせるとまた疑問も出てくるが、かつて人と精霊が違和感なく共に過ごしていたのは確かなのだろう。
 表情からユイスが納得したと判断したのか、レニィは話を再開した。
「そんな中で、シルはひどくヴァルトに肩入れしていたの。それこそ、精霊王という立場を忘れてるんじゃないかってくらい。まるで恋人だった、って聞いたの」
「恋人……」
 小さく、口の中で繰り返す。親愛の情が育つなら、種族を超えた恋愛も有り得たのかもしれない。そこでユイスは、とある可能性に気が付いた。
「つかぬことを聞くが、精霊と人との間に子は成せるものなのか?」
 ヴァルトとシルが恋仲であったなら、エルドはその末裔ではないのかと思ったのだ。それならば血の記憶、というヴァルトの言葉も説明がつくし、精霊の血ゆえにクロック症候群の症状が変則的というなら得心もいく。しかし、レニィは緩く頭を振った。
「――基本的には、有り得ないことなの。あの少年は確かに珍しい状態ではあるけど、そもそも時間の秩序が崩れるような事態なんだから別におかしなことはないの。ヴァルトには妻子がいたらしいから、きっとその末裔ね。シルとの仲も、あくまでそれぐらい親しかったって話なの。ただ、与えた加護は相当なものだったみたいね」
「そう、なのか」
 精霊王が否定するならそうなのだろうと、ユイスは頷いた。しかし本人たちの感情はそれとはまた別のものである。王族ならば結婚に愛情が伴わないのも珍しい話ではないし、正妻の他に愛人を囲っているのもよくあることだ。その立ち位置に風の王を当てはめるのは些か不敬が過ぎる気がしたが、二人の間に特別な絆があるのは間違いないだろう。でなければ、これほど長い時をてまで共にあろうとはしないのではないだろうか。だが、ユイス達にとって重要なのは彼らの関係性そのものではない。
「――そんな加護があるとは、殆ど無敵だな」
 無意識のうちに、そんな言葉が口をつく。声に出すとなおさら絶望感が増していくようだった。今回はレニィに助けられたからよかったものの、次も運良く助けがあるとは限らない。たとえレニィがそうしたいと考えてくれたとしても、精霊王という存在が軽々しく動けるものではないのは端々から窺える。時柱を取りもどすのに、ヴァルトとシルとの対立は避けられないだろう。どう対策すればいいのか、見当もつかない――そう思考に沈みかけたユイスの意識を引き戻したのは、レニィの一言だった。
「……そうでも、ないのね」
 ともすれば吐息に紛れてしまいそうな呟きだった。だが微かに見えた光明に、ユイスは弾かれたように顔を上げた。
「と、いうと?」
「シルは、もう寿命だから。力も弱まってるの」
「寿命……」
 告げられた内容の違和感に、思わず言葉を繰り返す。精霊の寿命など、意識したこともなかった。彼らは人より遥かに長い時を生きる。その死について言及した人間を、ユイスは知らなかった。あまりに流れると気の早さが違うからか、或いは精霊という存在があまりにも遠いのか。そもそも彼らに死という概念が存在するとさえ考えないのだ。
「まぁ、人で言うところの死とは少し違うかもしれないけどね。シルは今の王達の中では一番長く生きたから、もうじき消える。代替わりするのね。とっくに次の王となる者も生まれてる筈なの。だからこそあんな暴挙にも出たんでしょうね」
 淡々とレニィは語る。この短時間で彼女から知りえた情報は、下手をすれば歴史を塗り替えてしまうのではないだろうか。そう思うと落ち着かなかったが、ユイスは努めて平静を保ちながらレニィに問い返した。
「勝機はある、ということか。とはいっても相手はあくまで精霊王だろう。念のため訊くが、レニィのことは頭数に入れていいのか?」
「それは無理ね。当代の王同士が本気でぶつかろうものなら、自然の均衡を著しく乱してしまうもの」
 間髪入れず、レニィは断言した。やはりか、とユイスは嘆息する。ある程度覚悟していたこととはいえ、彼女がいないとなるとこちらの手札はかなり限られてくる。いくら弱っているといっても、シルの力は先だって目の当たりにしたばかりだ。時間を掛けたくはないが、無策に突っ込むわけにもいかない。どうすべきか、と考え込みそうになったところで、レニィが何度目になるか分からない衝撃的な事実を口にした。
「そう落ち込む必要はないの。少なくともそこの炎の小さいのは味方なんでしょう。それ、次の王なのね」
「……は?」
 反射的に上がった短い声がレイアと重なる。ここまで発言を控えていた彼女でも、これには驚愕を隠せないようだった。イルファが共に来ると決まった時、そんな説明が一言でもあっただろうか。
「名前を持つのは王とその後継者だけなの。だからヴァルト達も警戒して芝居を打ったんでしょ」
 ヴァルト達とのやり取りを思い返す。エルドを人質にしたり、こちらを分散させようとしたり――言われてみれば、確かに違和感があることも多かった。その原因が、まさかイルファにあったとは。

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