犠牲 5

 物音がする、と気付いて意識を向けた先には、白い壁と木の扉があった。身体を覆っていたシーツを引き剥がし、辺りを見回す。さほど広くもない、質素な備品が最低限に設置された宿の部屋。窓の外はすっかり暗くなっていたが、日付はまだ変わっていないだろう。仕事に戻るべきかと一瞬考えたが、イゴールも宿の主人も既に休んでいることだろう。明かりを持ち出して彼らを叩き起こすというのも憚られる。かといって、朝まで二度寝を決め込むという気分でもなかった。言うまでもなく、眠っている間の出来事が原因だ。
「……そういえば今回は記憶がはっきりしているな」
 ノヴァ達との会話を反芻しつつ、ユイスは呟いた。これまでも見慣れない空間に意識が飛ばされたことはあったがいつも記憶は曖昧で、同じような状況に陥って初めて思い出していた。しかし今回は交わした言葉を一字一句違えず復唱することも出来るだろう。以前はノヴァ達が記憶に何か細工していたのか、それとも自分の感情の動きのせいなのか――そこまでは分からなかったが。
 不意に部屋の扉を叩く音が聞こえ、ユイスは思考を中断した。そういえば物音で目が覚めたのだった。急ぎの用でもあって神官が呼びに来たのだろうか。待たせて悪いことをしてしまった。
「起きている。誰だ」
「フェルレイアです。今、よろしいですか?」
 告げられた名に、ユイスは目を見張った。てっきり事件の処理で不備でもあったのかとばかり思っていたのだ。慌てて軽く身支度を整え入室を促すと、片手にトレイを携えたレイアが顔を出した。
「こんな時間にすみません。体調がよろしくないと伺ったので……お食事もされていなかったようですし、起きられるようなら何か温かいものでもと思ったのですが」
「ああ、大したことはない。大丈夫だ……だが、せっかくだから貰おうか」
 そう言うと、レイアは安堵したように頷いた。湯気の立つカップを受け取り、彼女にも椅子を勧める。息を吹きかけて啜ったミルクは、ほのかに酒で香りづけがされていた。
「気を遣わせてすまないな。お前の方が堪えているだろうに」
 温もりが喉を通り、張りつめた神経をじんわりとほぐしていく。大丈夫だろうかと心配していたはずが、逆に気遣われているのだから世話がなかった。
「私はいいんです。それより、ユイス様の方がご無理をなさってるみたいで……顔色も良くないですし」
 自分のカップに口をつけながら、レイアは僅かに目を伏せた。その指摘に、ユイスは反射的に自分の頬をさする。
「……そんなにおかしな顔をしているか?」
 問い返すと、躊躇いがちにレイアが頷いた。そこまで表に出ているとは情けない話だった。体調も勿論だが、あの二人の部屋でのやり取りが尾を引いている自覚はあった。それを思い出した途端、寛ぎかけていた心も瞬く間に曇っていく。まとわりつく不穏な影を振り払おうと、ユイスは努めて平静に会話を続けようとした。
「もう心配ない。早くここの仕事を片付けて、時柱を取り戻さなければ」
 あえて強い語調で言い切ったのは、自分を奮い立たせるためだった。やること自体は変わらない。その点において、ノヴァの言うことは正しいのだ。何はともあれ目的を明確にして先へ進むことが最善なのだ――しかし、それを口にするべきでは今ではないと、ユイスは気付くことが出来なかった。
「そう、ですよね。早く取り戻さないと」
 一瞬、レイアが息を詰まらせたように見えた。歯切れの悪い口調に首を傾げかけた瞬間、ひどく無神経な発言をしたことを自覚した。これでは死刑宣告をしているようなものではないか。彼女も共にレニィの話は聞いていたというのに、迂闊にもほどがある。しかし一度声にしてしまった言葉は戻せない。
「すまない。お前をどうにかしようという話ではないんだ。ただ、そうしないと身動きが取れないというだけで。まだノヴァ達に聞かなければ分からない部分もあるかもしれないしな」
 ――嘘だ。ノヴァ達とはつい先ほど話したところで、逃げ道はない。慌てて取り繕ってもそれが滲み出ていたのか、レイアの表情が晴れることはなかった。ただ静かに、彼女は首を振る。
「大丈夫です。分かっています。ユイス様はお優しいから気にかけてくださって……でも、いいんです」
 努めて明るく振舞おうとしているのがよく分かる声だった。物分かりのいい振りなどする必要はないというのに、彼女は未だにユイスを気遣っている。いいわけがないだろう、と切り返しかけて、不意に孔雀石の瞳と視線が絡んだ。形容しがたい光を湛えたその色に、ユイスは息を呑む。揺るがない決意を固めたような、しかし全てを諦めているような――レイアらしからぬ表情だった。
「それで、クロック症候群をどうにかできるなら、私は死んだって構いません」
 あまりにも落ち着いた声音のせいで、彼女が何を言ったか理解するのに時間が掛かった。
「……自分が何を言っているのか、分かっているのか」
 酷く声が強張った。犠牲になることを厭わないと、レイアは言う。彼女の言葉を反芻するたび鈍い痛みが胸に広がり、それは徐々に強さを増していく。つい先ほどまで身体を休めていたはずなのに、視界が歪むほどの眩暈がした。
「少し落ち着け。自棄になることはないんだ」
「充分落ち着いています。お忙しかったユイス様と違って、考える時間はいくらでもありましたから」
「簡単に言うな。これまでのエル・メレクの在り方から見直さなければならない話なんだぞ」
 彼女が人を咎めるような物言いをするのは珍しかった。その時点で冷静ではないのだと察することは出来たが、苛立ちを押さえきれなかった。ユイスの反論にレイアが顔を顰める。
「簡単になんて考えてません。ずっと私もユイス様と旅をしてきたんですから」
「根本的な解決にならない。今回はそれで済んだとしても、代替わりをするというならまた同じことが繰り返される」
「――だとしても!」
 言い募るユイスを遮るように、レイアが叫ぶ。その悲痛さに、ユイスは反射的に口を噤んだ。
「このままじゃ、解決策を講じる時間すらないかもしれないんです。今の段階で、他に打つ手はないんでしょう? 私一人の犠牲でエル・メレクを救えるなら、貴方はそうするべきなんです」
 頭を、殴られたような気分だった。正論すぎる言い分に、ユイスには返す言葉もなかった。エル・メレクに暮らす全ての民と、たった一人の少女。天秤にかける必要もない。精霊と心を通わせる『聖女』であっても、信仰の象徴の一つでしかない。彼女のために国が犠牲になることは許されないし、聖女であるからこそ人々もレイアを生贄にと望むだろう。なにせ、この事象の発端は精霊によるものなのだから。
 けれど、彼女の口からは聞きたくはなかった。彼女にだけは、言って欲しくなかった。危うい均衡を保っていた理性がひび割れていく。
「こちらの気も知らないでよく言う! またいつもの無鉄砲か!? どうにかしようと頭を悩ませているところだというのに、みすみす死ぬつもりか!」
 気がつけばたがが外れて、感情的に非難の言葉を口走っていた。しかしレイアが黙ったのも一瞬のことで、彼女は更にユイスを追い詰める。
「そんなの、私の台詞です! いつも無茶してるのはどっちだと思ってるんですか! 私だって貴方を助けたくて、失いたくなくて」
 しかしレイアは、途中で声を詰まらせた。代わりに溢れ出た涙が、次々と彼女の頬を濡らす。口論は行き詰まり、二人揃って次に発する言葉を見失った。
 「少し頭を冷やしてきます」
 幾ばくかの沈黙の後、レイアはそう言って涙を拭うこともなく部屋を去っていった。引き止めようと伸ばした手は虚しく空を切り、ユイスは静かに拳を握り締めた。これ以上どうするつもりだというのか。慰めるための言葉も持たず、彼女を救う手立てすらない自分に。
「……何をやっているんだ、俺は」
 深く息を吐き再びベッドに倒れこんだ。自問したところで答えなどない。否、レイアが言ったとおりに、とうに答えなど出ていた。ただ、己の心がままならないのだ。エルドを害する覚悟はあるのに、レイアを手放す勇気はない。
 彼女が大事で、失いたくない。たったそれだけの、けれど何よりも許されない自分の願いを扱いかねたまま、ユイスは固く目を閉じた。

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