決別 1

 クロック症候群は収束する。ノヴァの言葉が真実であることは、ユイス自身が身をもって知ることとなった。最初に変化があったのは遺跡を離れてほどなくのことである。全身に強い倦怠感が現れた。それだけならただの疲労なのだが、次第に手足の違和感が増し始め、触覚が鈍くなった。更に症状が進行しついには感覚が分からなくなると、その代わりとばかりに節々が痛みを訴えだした。しまいには高熱に苦しめられ、気力だけでどうにかリエドまで辿り着いたものの町、に足を踏み入れるなり気を失ったらしい。らしいというのはユイス自身の記憶が町に入る前後で途切れているからだ。気付いた時にはベッドに横たわり医者やら神官やらに取り囲まれており、次々と労いと見舞いの言葉を受け取ることになっていた。混乱するユイスに誰かが手鏡を差し出し、それを覗き込んでようやくユイスは悟ったのだ――苦痛と共に自身の肉体が本来の時間を取り戻していたことに。
「しかし、ティムトまでいたのは予想外だったかな」
「なんの話です」
「リエドで目を覚ました時の仰々しい光景を思い出していたんだ」
 言いながらベッドから起き上がるユイスに、すかさずティムトの手が伸びる。久方ぶりに顔を合わせた従者兼友人は、実にかいがいしく主人の世話を焼いた。お蔭で一度倒れた後の回復は驚くほど速かったが、延々と小言を聞かされ続けたのは記憶に新しい。というより、現在もそれは継続中である。人の目がなくとも敬語が崩れないのが未だ憤慨している証拠である。
「仰々しいだなんてとんでもない。精霊と敵対した挙句、怪我をして倒れたなど……リエドからの報せを受け取った私の気持ちが分かりますか?」
 棘のある声で言い募られ、ユイスは無言で差し出されたシャツに袖を通した。最初に手紙を一通出して以来連絡を怠っていたのは自分だし、過程を知らずに突然そんな手紙を受け取れば驚きもするだろう。その点については何も言い返せない。ただ、納得のいかないこともいくつか存在していた。
「……悪かったとは思っているが、王都に戻ってきてまで自室に拘束される必要はあるか?」
 見慣れたタペストリーに使い込まれた調度品、清潔で肌触りのいい寝具と足が沈み込むような絨毯。透明度の高い硝子の窓からは清々しい朝の光が差し込んでいる。ここは紛れもなく、エル・メレク王城にあるユイスの自室であった。
 ユイスの体調が落ち着いた頃合いを見計らって、一行は王都への帰還を決めた。ユイス以外にもクロック症候群からの回復例が報告に上がり、当面は脅威は去ったと判断したからである。城で待つ王に顛末を説明しなければならないのもあったし、他にも王都の方が何かと都合が良かった。
「相当な無茶もしたようですし、当分は安静にしていろと言われたでしょう。ご自分でも違和感があると仰っていたではないですか」
「それは、確かに言ったが」
 反論しかけたユイスに、ティムトの冷ややかな視線が刺さる。その手が主人の襟元を直すのに必要以上に力を込めているのを見て、ユイスは沈黙する方を選択した。散々迷惑をかけたのだから大人しくしていろ、とティムトの態度が告げている。これ以上の説教はこちらも遠慮したい。
 静かになったユイスの身支度を、ティムトは手際よく整えていく。それがやけに居心地が悪かった。ティムトには何も非はない。従者である彼が自分の世話をするのは日々の仕事の一つで、当たり前のことだった。それに、公務にでなくとも身なりくらいは整える、と言ったのはユイス自身である。だが旅の最中は朝の支度も全て自分でしていたし、やむなく野営するときなどは身綺麗にしている余裕すらなかった。違和感があるとユイスがぼやいたのは、そういった日常のひとつひとつについてのことだ。姿見に映る自分の姿さえ未だに見慣れない。背中まで伸ばして結われた髪も、以前より節の目立つ手足も、少し低く響くようになった声も。全てユイスが元から持ち合わせていたもののはずだ。なのに、果たして自分とはこうだっただろうかと首を捻りたくなることがある。旅の中での感覚が強く残りすぎていて、まるで夢を見ているように思うこともある。本当の自分は、まだどこかの町でレイアやイルファと他愛ない話をしているのではないかと――。
「殿下? やはりお加減がよろしくないのでは」
「いや、少しぼうっとしていただけだ」
 訝しげなティムトに頭を振り、ユイスは思考を打ち切った。こんな空想に意味はない。現実は今、目の前にある。収束しつつあるクロック症候群に民は安堵し、しかしそれを守るために大切な少女を犠牲にすることを求められている、という現実が。
「……はい、できました。朝食はどうなさいますか」
「何か軽いものを。レイア達はどうしている?」
 釦を留め終え満足げなティムトに、ユイスは尋ねた。王都に戻ると決めてからも、彼女はルーナには帰らずユイスに同行し、現在も城に滞在している。彼女についてくるような形でイルファも一緒だった。彼女を王城に残すにあたって様々な理由を王に奏上する気でいたが、その必要もないほどレイアは歓迎された。クロック症候群から民を救った救国の聖女として、彼女は城の中でも自由に振舞うことを許されている。レイア自身も王都の滞在についてはすんなりと頷いてくれた――全てが終わったわけではないという意識が、彼女にもあったからかもしれない。
「私はエレメンティアではないので精霊については分かりませんが、フェルレイア殿は昨日お会いした限りではお元気そうでしたよ。少しお疲れは残っているようですが」
「……そうか」
 王都に戻って数日が経つが、一度見舞いに顔を出してくれたきりレイアとは会っていなかった。未だに二人の間にある気まずさは拭えないままだ。王都に残れと言ったユイスを、彼女はどう思っただろうか。あれこれ理由を付けたが本音は何ということはない。手放したくなかった。それだけのことだ。手元に置いたところで、守れるわけでもないというのに。
「ああ、それと、もう一人のお客人ですが」
 思い出したように言葉を続けたティムトに、ユイスの意識は引き戻された。もう一人の客人、という一点に僅かな緊張が走る。レイアの次に気がかりだったことがある。
「朝方、目を覚まされたそうです。意識もはっきりしていると」
「会いに行く、と言ったら止めるか?」
 一応問いかけの形を取ったのは、これまでの経緯を鑑みてのことだ。とはいえユイスの中では既に決定事項である。こればかりは自室でのうのうとしていられない。多少無理をしてでも押し通る。
 その意志はティムトにも明確に伝わったのだろう。彼は呆れたように眉間を指で押さえ、一拍置いて深々と溜息を吐き、いかにも渋々といった様子で口を開いた。
「……そう仰ると思ったので主治医の許可は貰っています。朝食を召し上がってからにしてくださいね」
「気の利く従者で助かるよ」
「お褒めに預かり光栄です。が、あまり気苦労をかけないで頂きたいものです」
 再び、先ほどより深い溜息を漏らすと、ティムトは一礼して退室していった。諸々の手配と朝食の用意だろう。程なくして戻って来るだろう従者を待ちながら、ユイスは少しでも意義のある一日を過ごせそうなことに安堵していた。

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