決別 2

 ユイスが帰還してさほど間を置かず、王はクロック症候群の収束を民に宣言した。唐突な知らせに誰もが半信半疑な様子であったが、個人差はあれど王都にいる患者も回復の兆しを見せている。彼らが心からの安堵を得る日は遠くないだろう。時代の時柱の問題を除けばエル・メレクを覆っていた憂いは晴れたと言っていい。しかし、少なからず警戒しておかなければならないこともあった。それがヴァルト、及びエルドの存在である。
 遺跡での戦いを終えてシルが去り、そして苦心してリエドまで連れ帰ってからも、ヴァルトは一向に目を覚まそうとしなかった。いや、この時点で彼をヴァルトと呼ぶべきではないのかもしれない。あれは遠い血縁を辿ってエルドの精神を侵していたクロック症候群そのものだ。時柱が神殿に戻ればその存在は消える。しかしエルドの意識が回復するのにどれほどの時間が掛かるのか、エルドのが戻ってもヴァルトの影響がないと言い切れるのか。あまりにも特殊な事例であるがゆえに、見当もつかなった。もし目覚めた時にヴァルトの意識が残っているようなことがあれば、再び強硬に走る可能性がある。そうなればシルも手を引くという約束を翻しかねない。最悪の場合、事態が振り出しに戻ってしまうこともあり得る。
 様々な事情を鑑みて、エルドは治療の名目で一緒に王都に連れていくことになった。何かあっても目の届く範囲にいればすぐに対処にあたれる。特殊な症例なので王都で診てもらった方がいい、世話になったので費用はこちらが負担する――彼の家族たちにはそう説明した。彼らに負い目を感じていないわけではないが、流石に全てを話すことは出来ない。実際は囚人に準じた扱いで常に監視がつくことになるが、今までの出来事を思えばこれ以上妥協はできなかった。牢に入れるのを阻止できただけましというものである。エルド自身は眠り続けてるし、意識することもないだろうことが幸いか。城の最も粗末な部屋で、彼は沈黙を守り続けていた。それに変化があったのは今朝方のこと。
 案内された一室の前では、物々しく武装した兵が一人見張りについていた。ついて来ようとする男を制し、ティムトだけを伴って部屋に入る。狭く窓のない室内にあるのは、清潔だが質素なベッドが一つだけ。その上で所在なさそうに手を組んでいた少年が、こちらを見上げて首を傾げた。
「えっと、誰?」
「エルド、なのか?」
 意図せず声が重なると、少年はますます困惑したように眉間に皺を寄せた。同じようにユイスも顔を顰めかけて、思い直す。今のユイスは初対面の時とは姿が違う。それほど顔つきが変わっているとは思わないが、服装や体つきが違えば分からないこともあるだろう。今目の前にいるのがヴァルトであっても、エルドであっても。
「君の手伝っていた宿で世話になった、ユイスと名乗っていた者だ。覚えているか?」
 慎重に言葉を選びながら、ユイスは続けて声を掛けた。今更ヴァルトがエルドに擬態する理由も思い当たらないが、警戒するに越したことはない。少年は暫し訝しげにユイスの顔を見つめた後。あっと声を上げた。
「もしかしてイルファと一緒だった兄ちゃんか? なんか背伸びてない? というか状況が分かるなら説明してくれよ。ここ王都だって!?」
 理解した途端、彼はベッドから飛び出し掴みかからんばかりの勢いで捲し立てた。その瞳は不安に揺れてはいたが、怪しい陰りはない。若者らしい輝きに溢れた色に、ユイスは確信する。もう大丈夫だ。彼の中に居座っていた過去の亡霊は消え去った。
「この姿はクロック症候群の影響で、こちらが本来のものだ。それと、君がここにいる理由は今から説明する」
 宥めるようにそう告げると、エルドはひとまず口を噤んだ。彼が話を聞こうと座り直す一瞬のうちに、ティムトに目配せする。これから話すのは真実を含んだ虚偽だ。エルドが危険ではないと判断出来たら、ある程度納得できる話をでっちあげて日常に戻すと決めていた。心得ている、とティムトが視線を返したのを確かめ、ユイスは改めて口を開いた。
「順を追って話そう。私たちが一緒に神殿に向かって出発した後、君はクロック症候群を発症した。その時のことは覚えているか?」
「俺が!? 全然そんな感じはなかったけど……でも言われてみたら参道を案内してた辺りから記憶が曖昧な気が……」
 裏返った声を上げたエルドだったが、思い返すうちに徐々に落ち着きを取り戻してきたようだった。話を聞きながら、やはりか、とユイスも納得する。宿で話していた時は彼に違和感を覚えることはなかった。完全に乗っ取られたのは出発してからだろう。不安気なエルドを落ち着かせようと、ユイスはひとつ頷いて見せた。
「私たちもその場ではよく分からなかったが、どうも君の症例はかなり特殊で精神面に強く影響が出ていたようなんだ。会話が噛み合わないでいるうちにはぐれてしまって……その後色々とあったんだが、これは今は省略しよう」
色々、というのはもちろん風の神殿での一件だ。彼がリエドに戻れば嫌でも耳にすることになるだろうが、あの事件にエルドは一切関わっていないことになっている。説明は後回しだ。
「私たちがクロック症候群について調べている話はしたな? その過程で古い遺跡を訪れたんだが、そこで君が倒れているのを見つけてリエドに連れ帰ったんだ」
「遺跡? なんでそんなところに」
「さて、そこまでは分かりかねるが」
 我ながら白々しいと思いつつ肩を竦めるが、エルドが不信感を持った素振りはなかった。これ幸いと、ユイスは作り話を続ける。
「君の症状がクロック症候群ではないかと考えたのはその時だ。町に戻ってからも目を覚まさないし、特殊な例だから王都の医者に診てもらうべきだと判断した。私たちもちょうど王都に向かうところだったしな。宿のご夫妻に話はしてあるからその点は心配しなくていい」
「そう、なんだ。全然実感ないんだけど」
 ユイスの話を、エルドはどこか他人事のような表情で聞いていた。信じられない、と分かりやすく顔に書いてある。実際他人事のようなものだろうが、ここはあまり深く追及されても困る。
「記憶がなくては心許ないだろうが、体調を崩していたのは間違いない。医師が許可を出すまでは休んでいくといい。落ち着いたら街の観光にいくのもいいんじゃないか? 土産話にもなる」
 そう水を向けると、エルドの頬に徐々に赤味が差していく。神殿への道中で外の世界への憧れを語った時と同じ顔だ。上手く気を上向かせることが出来たらしい。
「そっか、それもそうだな。滅多にない機会だし、町の奴らに自慢してやらなきゃ……でも、あれ?」
 瞳を輝かせていたエルドがはたと何かに気付いたように言葉を区切った。いくらかの間を置いて、再度彼はユイスに向かって問い掛けた。
「クロック症候群を発症したのに、回復した? あんたもそっちが本来の姿って。治ったってことか?」
 そこまで聞いて、ようやくユイスはエルドの疑問に気が付いた。クロック症候群は不治の病として名を馳せていた。目覚めたばかりのエルドは、まだ王の収束宣言を知らない。
「……クロック症候群の原因は取り除かれた。患者はみな回復傾向にある」
「――それ、本当か!? もうクロック症候群を怖がって暮らさなくていいってことだよな!」
 聞いた途端に、エルドは必至の形相でユイスに訴えた。快活さの裏に押さえ込んでいたのであろう言葉に、微かに胸が軋む。どれほど気丈に振舞っていた人間でも、エル・メレクの民は未知の現象に怯えながら暮らしてきた。国のため、と言いながらそんなことすらも忘れかけていた。結局ユイスも、自分のことしか考えていなかったのかもしれない。
「そうだ。もう心配ない。安心してリエドに帰れるぞ」
「……すごい。すごいな! あんた達がやったのか! 英雄じゃないか!」
 破顔したエルドはユイスの腕を掴むと痛いほどに上下に振り回した。それに苦笑しながらも、どこかで息苦しさを感じる。賞賛される謂れはない。まだ解決していない大きな問題がある。まだ最後の一歩を踏み出せずにいる――たった一人の少女のために。眼前の少年のことは殺めることも厭わないとさえ思ったのに、だ。結果的にそうならずに済んだというだけの話なのだ。腹の底に隠したその事実が見えない鎖となって、ユイスを締め付ける。
「殿下。そろそろお時間が」
 ティムトの呼びかけでユイスは我に返った。他に予定はなかったと記憶しているが、長居しすぎだと言いたいのだろう。了解の意を伝える代わりに、ユイスははしゃぐエルドの手をそっと解いた。
「私はあまり構ってやれないと思うが、不便のないように計らおう。何かあれば部屋を出入りしている者に言いつけてくれ」
「あ、うん。というか、いま殿下って言った……?」
 まだ何か言いたそうなエルドを残し、ユイスは部屋を後にした。扉が閉められた直後、大きく息を吐く。大して長い時間ではなかったはずなのに、ひどく疲れた気がした。それを見咎めたのか、前を行っていたティムトが不意に振り返る。
「いや、今のは」
「殿下」
 ばちん、という軽快な音と同時に、額に痛みを感じた。指で弾かれたのだと、一瞬遅れて気付く。反射的に額を押さえると、次に目に入ったのはティムトの仏頂面だった。
「貴方が黙っている以上、従者としては口を出すべきではないのでしょうが」
 一度言葉を切ると、ティムトはユイスの手の上からもう一度額を弾いた。
「友人としては、その辛気臭い面に物申したい。いい加減見飽きた。お前がその調子だとこっちまで気が滅入る」
 ぞんざいな態度で告げると、ティムトは再び歩き出した。足早にそれを追いながら、問い掛ける。「部屋に戻るなら、反対だが?」
「軟禁だなんだと嘆いていたのは誰だ。仕方ないから散歩くらいなら付き合ってやる」
 振り返りもせずに言い捨てると、ティムトは歩調を速めた。有無を言わさぬ友の様子に、黙って後に続く。呆れたような怒ったような口調の中にある気遣いの響きに、ユイスは密かに目を伏せた。

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