決別 3

 ティムトを追う形でユイスがやってきたのは、回廊に面した中庭だった。そういえば外の空気を吸うこと自体久しぶりだ。幾日ぶりかに見た空は穏やかに晴れ渡っていた。敷き詰められた芝生の青さは光を受けて鮮やかに輝き、中央に据えられた噴水では金色の飛沫が舞う。どこか長閑な雰囲気を感じさせる場所である。
 肌になじむ空気と込み上げる郷愁に、ユイスは知らず知らずのうちに息を吐いた。この庭園は、昔からユイスの憩いの場だった。神経をすり減らすような出来事があった時は、何をするでもなく噴水の傍で一人ぼうっとして過ごすのだ。そうすると不思議と心が宥められ、王子としての義務を果たすことが出来た。頃合いを見計らった従者が呼びに来て、暖かい飲み物を淹れてくれるまでがお決まりの流れだった――ティムトが言うところの『辛気臭い面』も、ここで過ごせば多少はまともになるのだろうか。
 先導していたティムトが噴水の縁に腰掛けたので、ユイスもそれにならう。時折細かな水滴が肌にぶつかって涼を与えてくれるのが心地いい。
「……ここに来ると、お前が従者を指名した時のことを思い出す」
 ティムトが改まって切り出したのはもう十年以上も昔の話である。この庭園はユイスの休息所であると同時に、ティムトにとっても関わりの深い場所だった。久方ぶりに訪れたせいもあってか、その日のことがいつも以上に鮮烈に蘇る。
「そう、だったな。随分騒ぎになった」
「当たり前だ。反王子勢力の暗殺者を手元に置くだなんて、俺だって正気を疑ったぞ」
 ティムトの言い草に苦笑する。確かに、いま冷静に考えれば正気の沙汰ではない。だが結果としてその後良い関係を築いてこれたのだから、あの時の選択が間違っていたとは思わなかった。
 今でこそ国の情勢は落ち着いたものだが、ユイスが幼い頃は少なからず周囲に陰謀が渦巻いていた。ユーグ王の子はたった一人。排除してしまえば国の実権を握れると、そんな浅はかな考えを持った人間がそれなりの数で存在したのだ。昔ルーナの神殿に身を寄せていたのはこれが理由でもある。残念なことに城に戻ってからもユイスの身は幾度となく危険に晒されたが、そのうちの一つに関わっていたのがティムトである。
 ティムトは戸籍上は伯爵家の次男だが、生まれは没落した名もなき貴族の一人息子である。金と引き換えに王子を狙うための手札として養子に迎えられ、本人の意思とは関係なしに暗殺者として育てられた。たとえ失敗してもティムトの独断とすれば伯爵の実子は守られるし、実害はほとんどない――そんな都合のいい捨て駒として、だ。ティムトの生死はユイスを仕留められるかどうかにかかっていたと言っていい。
「あの頃は周りの思惑に振り回されるのにうんざりしていたし、分かりやすく敵意をむき出しにしている人間の方が却って信用できる気がしたんだ」
「悪かったな、分かりやすくて」
 ルーナから戻ってすぐの頃だった。幾人かの少年がユイスの学友兼従者候補としてあてがわれたが、その中で常に剣呑な雰囲気を崩さなかったのがティムトである。不審に思った王が彼の出自を洗い出させたところ、伯爵による王子暗殺計画が発露した。追い詰められたティムトがついにユイスに刃を向けたのが、この庭園だったのである。
 ――私はその者を従者にすると決めていた。連れていかれては困る。
 そう言い放った時の、取り押さえられたティムトと駆けつけた兵士たちの顔は未だに忘れられない。正気を疑う。まさにそれだろう。当然反対の嵐だったが、その後のティムトの証言により伯爵とその背景にいた黒幕を捕らえられたこと、彼が凶行に及ぶに至った事情、そしてユイスが強く望んだことが考慮され、ティムトはユイスの従者を務めることになった。
 周囲からの疑念の眼差しは常にあったが、ティムトはよく働いた。元来真面目な性格であった彼は徐々に他の臣下たちの信頼を勝ち取り。今では名実ともにユイスの右腕である。
「……まぁ、滅茶苦茶な王子だとは思ったし今も思ってるが、一応感謝はしてるんだ。お蔭で路頭に迷うこともなかったし」
「お前ならいくらでも雇い先は見つかる気がするが」
「馬鹿言え。逆らえなかったとはいえ、王家に刃を向けた人間を手元に置こうなんて物好きはお前くらいだ。王子のくせに」
 随分な言われように、ユイスは小さく噴き出した。だがこの遠慮のなさをユイスは好いている。それを察しているからこそティムトもこの態度なのだ。きっと、互いに一番の理解者である――だからユイスも分かっていた。昔話を持ち出すのはユイスの心を慰めようとしてのことだと。そして、話したいことの本題がそれではないことも。
「……多少はましな顔になったな」
 ユイスの思考を読んでいたかのような間合いで、ティムトが呟いた。返す言葉に詰まって小さく肩を竦めると、今度は後頭部を叩かれた。痛みはない。だが、触れた部分から急速に頭が冷えていくような感覚がした。
「お前はいつも妙な行動力ばかりあるよな。あの時もそうだったし、旅に出た時もそうだった。なのに、今更何をぐずぐず悩んでるんだ」
「……そうだなぁ」
 曖昧に相槌を打ちながら、王都に帰ってからの出来事を思い返す。部屋に籠る以外にやったことといえば、王と神殿関係者へのクロック症候群の顛末の報告である。時柱というものの存在、それを持ち去ったヴァルトのこと。時柱の存続には人柱となる人間が必要であること。それらの事実は一通り王と神殿の上層部の耳には入れてあった。ただ一つ、次に人柱となるのがレイアである、ということを除いて。
 人柱となるのはどのような人間なのかと、そう投げかけられた疑問には言葉を濁したままだった。この瞬間にさえも、彼らは誰を生贄にすべきなのか議論を交わしていることだろう。そこに加わらずに済んだという意味では、軟禁生活は有難いものだったかもしれない。レイアが名指しされたのだと告げてしまえば、皆が彼女の犠牲を望むだろう。いや、そうでなくとも彼女の名前は挙がるかもしれない。己の身を犠牲に国を救う聖女。悲劇的で、叙情的で、とても都合がいい。彼女は身内とは疎遠であるし、民にも貴族にも反感を買わず、最も良い形で決着がつくだろう。国は個人の感情では動かない。全ての民と国家の未来のために動く。その波がうねりだしてしまえば、もうユイスが止めるのは不可能だ。王や他の人間を責めることも出来ない。それが為政者として正しい選択だと、何よりユイス自身が分かっていた。己の思考と行動がそれに背いていることも。
「たとえば、の話だが。自分が一番大切に思う人を生贄に捧げなければ国が滅ぶ、と言われたら、お前はどうする?」
 気が緩んでいたせいだろうか。無意識のうちに、ユイスはそんな疑問を口走っていた。ティムトの顔が歪む。事の詳細を知らなくとも、勤勉で頭の回る彼ならば全てを察したことだろう。呆れられるか、軽蔑されるか――いずれにしても、口にしてしまった言葉は取り消せない。自らの迂闊さを呪いながら、諦めと微かな警戒をもってユイスはティムトの返答を待った。
「随分、規模の大きな話だな」
 溜め息まじりに呟かれた台詞には、ユイスが恐れた響きは含まれていなかった。眉間を指で押さえながらも、馬鹿にする風もなくティムトは続ける。
「とりあえず、その相手を連れて逃げるかどこかに隠す。国なんて滅びるなら滅びろと思うかもしれないな。でももし、守りたい相手がそれを許してくれなかったら……他の方法がないか最後まで悪あがきするさ」
 ティムトの言葉にユイスは瞠目した。まるで全て筒抜けではないか。彼はどこまで知っているのだろうか。
 しかしその回答に驚きはしても、悩みが解決することはなかった。他の方法など存在しないのだ。
「もう他に手がないと分かっていても?」
「それしかないだろう。どっちを取っても後悔するなら我を通せよ。そういうのは得意だろう」
 弱々しく返したユイスの言葉を、ティムトは鼻で笑った。どちらにしても後悔する。きっとその通りだろう。どの道を選んだとしても傷を負うことは避けられない。だが立ち止まったままでは全てを失うことになる。何もしないのが一番の悪だ――それを理解しても足踏みしてしまうユイスに、ティムトは更に畳み掛けた。
「俺は従者だからな。何かしでかすというなら付き合わざるをえない。ひとまず神殿の非公開書架でも漁ってみるか?」
「そこは主の軽率さを諫めるところじゃないのか」
 苦笑しつつも、ユイスはティムトの言葉に引っ掛かりを覚えた。神殿の、書架。確かに通常公開していない史料も含めれば数多の情報が神殿には蓄積されていることだろう。ティムトの言うように気が済むまで別の手を調べるなら、他に相応しい場所はない。だが時柱の存在は、始めから存在しなかったがごとく人の歴史から忘れ去られていたのだ。今更現存する資料を当たったところでたかが知れているだろう。大陸統一前、人と精霊がもっと近しかったころの史料が大量に見つかったのでもなければ、あまり意味はない。
 ――へレスの書架には、彼女たちの物語も残っているかもしれないわね。
 不意に、脳裏に誰かの声が蘇る。引きずられるように思い出されるのは去り際のシルの姿だ。そう、これは彼女が残したものだった。
 特に意味も考えず聞き流していたものが、今になって気にかかる。あの時点で彼女との決着はついていた。それまでのしこりも消えて雑談、というようのものでは決してない。なんの脈絡もなく思えるシルの発言は、何を意味していたのだろう。今は亡きへレス王国。荒れ果てた遺跡と化すまえのそこには現代の人間が知りえないような神秘についての資料もあっただろうか――。
「……まさか」
 一つの可能性に気付き、ユイスは呟いた。ありえない、と心中で否定するのと同時に、絶対にそうだ、と直感が告げてもいた。ろくに調査もされず、人目のつかない地にある遺跡。何もない、はずだった。だが例えば、精霊の力で在りし日の痕跡が隠されていたらどうだろう。そうすれば人間には分からない。へレスは風の精霊王の寵愛を受けた国だった。思い出の地を踏み荒らされまいと、シルが細工していたとは考えられないだろうか。だとすれば、彼女のあの言葉は遺跡にはまだ何か残っていると示唆しているように思える。それが現状の突破口に繋がるからこそ、シルは手掛かりを残していいたのではないだろうか。
「おい、どうかしたか?」
 突如押し黙ったユイスの顔を、ティムトが訝しげに覗き込む。その声で我に返ったユイスは頭を振り、前を見据えた。
「ティムト。書架漁りの必要はないが、また少し留守を頼めるか」
 虚を突かれたように、ティムトは目を瞬かせた。しかしそれも一瞬で、やがて口元には不敵な笑みが浮かぶ。
「本当に仕方のない主だ。俺を従者に選んでおいて良かったな?」
「全くだな……ありがとう」
 小さく告げた礼の言葉には応えず、ティムトは腰を上げた。軽く片手を振り、城の中へと戻っていく。恐らくユイスのために諸々の都合をつけに行くのだろう。本当に、いい友人兼従者を持ったものである。
「さて、そうと決めたら俺も急がなくてはな」
 決意を新たにして、ユイスは立ち上がった。都合の良すぎる考えかもしれない。もしかしたら罠なのかもしれない。それでも、まだ希望が残されているのかもしれないならば、最後まで悪あがきしてみよう。ようやく定まった心を胸に、ユイスは急ぎ自室へと向かった。

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