決別 4

 漆黒だと確信していた空の際から、少しずつ白い輝きが溢れ出していた。明かりを落とした室内もその影響を受け、窓から注ぐ冴え冴えとした光で満たされていく。その様子を窓際から眺めていたユイスは、そろそろ頃合いかと大きく伸びをした。準備ははティムトと話したその日のうちに終えている。旅支度もすっかり慣れたものだ。前に王都を離れた時と違って従者も協力的だし、お蔭で滞りなく出発できそうだった。今回は目的地も最初から決まっているから身軽なものだ。小さくまとめた荷物には最低限の食料と路銀、それと衣類。他に必要なものがあれば現地調達だ。まずはルーナまで出て、その後は前回の旅路とは逆の方角に進む。主要な都市や神殿に立ち寄れないのは心許なくはあるが、その方が早い。あとどれくらいの期間が残されているか分からないなら、一瞬の空白であっても惜しみたかった。
 逸る心を抑えながら自室の扉に手をかける。見張り番にはティムトが手を回してくれているはずだから、引き止める者はいないはずだ――しかしその思考は、部屋から出た途端に裏切られることとなった。
「おりゃー!」
「熱っ……!?」
 突如目の前で弾けた熱源に、ユイスは身体を反らせた。視界の端にちらちらと赤く舞っているのは火花だった。こんな真似をする輩など、一人しか心当たりがない。
「イルファ! こんな場所で力を使うな!」
「やっぱりだったぞー。言ってた通りだなー」
 咎めるユイスの声など意にも介さず、イルファは嘲笑うかのように身を翻した。しばらく大人しいかと思えば、顔を合わせた途端にこれである。気にかけてはいたが、彼は相変わらずのようだ。先を急ぐ身ではあるが、城で火事を起こされてはたまらない。改めて言い聞かせなければと視線でその姿を追うと、そこにいるのはイルファだけではなかった。
「……レイア」
「ティムト殿から聞きました。遺跡まで行かれるおつもりですか」
レイアの言葉に、ユイスは思わず天を仰いだ。裏切者、と心中で毒づく。確かに口止めしなかったが、彼女に告げるつもりはなかったというのにとんだ誤算である。どう説明したものかと頭を悩ませていると、レイアが重ねて言い募った。
「供の者も連れずにお一人で? また無理をなさるつもりでしょう」
「無理でも何でもない。体調も万全だし、やることは決まっている。最初に王都を出発した時よりよほどいい」
「わざわざ遺跡にまで赴く必要性を感じません。どうしてそこまでするんですか」
 頑なにユイスの行動を批判するレイアの瞳は、薄明りの中で揺れて僅かに潤んで見えた。ユイスが自分のために無茶な行動をしようとしていると、彼女は思っているのだろう。見ようによってはそうなのかもしれない。動機の大きな割合を占めているのは事実だ。それが彼女を苦しめると分かっているからこそ、何も言わす一人で出立を決めた。だが、根底の部分は違うのだ。胸中で己の決意を確かめ、ユイスは反論のため口を開いた。
「お前は、勘違いをしているようだが」
 思った以上に固い声が出た。レイアの肩が微かに震える。それに多少の申し訳なさを感じたが、譲れなかった。彼女が気に病むのと同じかそれ以上に、自分も憤っている。
「これは、単なる俺の我儘だ。不要だとか必要だとかは、関係ない。そんなことじゃない。自分か納得するまでやりたいようにやるだけだ。ティムトにどう言われたか知らないが、ここで気を変えるほど軽く決めたことでもない」
 レイアが口を引き結ぶ。しかし見過ごす気もないようで、立ち去ろうとはしない。彼女が再び言葉を発する前にと、ユイスは更に続けた。
「そんなことをしている場合ではない、と言いたいなら分かる。未だ危機が去ったわけではないことは承知している。だからこそ残った時間は最大限に使いたい……それに、ここからはお前には酷なことを言うが」
 喋りながら、何かがのどに詰まっているような感覚が抜けなかった。この決断を告げることに胸が痛まないわけがない。しかしユイスも腹を括ったのだ。いま言わなくても、いずれはその時が来る。先延ばしにしても意味がない。逸らすことなくレイアの瞳を見つめ、ユイスはとうとうそれを吐き出した。
「手は、尽くす。だがどうしても道が見つからない時は――フェルレイア、お前にはエル・メレクの礎になってもらう」
 ティムトと別れてから、ずっと考えていた。本当にどうしようもなく、最後の希望も断たれた時、自分がどちらを選ぶのかを。
 ティムトは、滅びを選ぶかもしれないと言った。だがきっと、自分にその選択は耐えられない。ユイエステル・メレクという人間は王国に育てられ、王国のために生きてきた。時柱の真実を知り、それに反発して揺らぐ思いがあっても、根本は変わらないし、変われなかった。エル・メレクそのものが家族であり友であり、いずれは王となるであろう自分が全てを捧げる場所だった。それを捨て去ることは出来そうになかった。レイアを犠牲にすれば、ユイスの心はあの結晶のように凍り付いて動かなくなるだろう。それでも時柱にまつわる歴史を、身を捧げた彼女の高潔さを正しく残していける。自らの傷をひけらかさずに、良き王となって見せよう。それがユイスの覚悟だった。
 ――レイアもまた、国を思うユイスの姿こそを慕ってくれたのだと感じるから、尚のこと。
「……分かりました」
 ひと呼吸分の間を置いてレイアは目を伏せ頷いた。声音からは、それが安堵なのか失望なのかは読み取れない。どちらだったとしても、今は納得してくれたのならそれでいい。そう自分に言い聞かせて場を去ろうとしたユイスを引き留めたのは、存外に強いレイアの声だった。
「それなら、私も行きます」
 驚愕にユイスは息を詰まらせた。二人の間に出来た溝は埋まらないまま、苦い空気が漂っている。それは彼女も同じものを感じているだろうし、レイアはユイスの勝手に腹を立てているはずだった。なのに、まだこちらの勝手に付き合おうというのか。なぜ、と問い掛ける前にレイアが語を継いだ。
「我儘、というなら命を差し出す私にこそ許されてしかるべきでしょう?」
 見返すレイアの瞳に宿る意志は強固で、決して折れる気はないと明白に物語っていた。よく似た表情を、ユイスは何度も見たことがある。人助けという名の厄介事に首を突っ込む時と同じ顔だ。こうなればレイアは意地でも引かないし、反省するのも建前だけだ――彼女がそういう性格だと忘れていたつもりはなかったのだが、頑固も我儘もお互い様らしい。
「怒っていたんじゃなかったのか?」
「怒ってます。でも自分のことを人任せになんて出来ないですし……まだ終わらせたくないという気持ちも、あるのは確かだから」
 不意に視線が逸らされた。決意が揺らいだのではなく、零れた本音に対する気まずさゆえだろう。終わらせたくない。それは共に過ごしてきた旅のことなのか、自分の命のことなのか。少し考えて、そのどちらでもいいと思った。どちらでも、ユイスも同じことを考えている。僅かでも彼女にその気持ちがあるなら、ますます自分は行かねばならないだろう。
「おれも行くからなー。ビスケット追加払いしろよなー」
 それまで黙っていたイルファが、するりと間に滑り込む。当然のようにビスケットを要求する姿は、旅の始まりの頃となんら変わらない。
「イルファ。お前もいいのか?」
「なにがだー?」
 仮にも友人を痛めつけた、そしてその協力を強要した人間に力を貸すのは嫌ではないのか。そう訊ねたつもりだったのだが、イルファは声色ひとつ変えず宙を行く。そのまま壁際まで飛んで行ったかと思うと、床に置かれていた荷物の上にすとんと腰を下ろした。ユイスのものではない。ということは、ユイスと話す以前からそのつもりだったということだ。呆れたような、むず痒いようなさざめきが胸に広がって、ユイスは笑みを漏らした。
「……ならば行こうか。お前たちがいるなら道中も心強い。ただ、あまり気は遣ってやれない。出来る限り道を急ぐからそのつもりでいてくれ」
「――勿論です」
 力強く首肯したレイアが自分荷物を抱え直すのを待って、ユイスは改めて出立のための一歩を踏み出した。目指すは旧へレス王国。そこに希望が眠っているはずだ。まだ薄暗いと思っていた空は、いつの間にか燦々と朝陽が降り注ぎ始めていた。

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