Epilogue

 窓から差し込み、手元を照らす日差しは穏やかだった。柔らかな午後の光で指先を温めながら、ユイスはペンを滑らせる。一枚、また一枚と重ね続けた書類は、既に古代語の辞書を三冊重ねたほどの高さに達していた。しかし残念なことに、机の反対側には未処理のものがその倍ほども積み上げられている。零れそうになる溜息を呑み込み、ユイスは手を進めた。仕方のないことだ。旅にかまけて公務を放り出していた皺寄せである。臣下の目を気にせず思うままに振舞っていた時間と比べれば些か窮屈だが、これが本来の日常である。元の生活に戻っただけの話だった。クロック症候群に悩まされた日々が過去となれば、世界はなんら変わり映えしないものだった――精霊が、姿を消してしまったこと以外は。
 綴る文章の切れ目に、何気なく窓際に視線を向ける。目を凝らしても、小さく呼びかけてみても、見慣れた小さな友人は姿を現さない。それに気付いたのは、命からがらイルベスに帰り着いてからのことである。あの日ユイス達は確かにイルファの力に助けられ、レニィに与えられた加護のお蔭で生き延びた。だが彼らとの繋がりはそれきりで途絶えている。神殿にいても、日常生活の場でも、精霊の存在を感じない。エレメンティアの力を奪うというシルの宣言は、間違いなく実行されたようだった。この状態を想像していたのかと言えば、具体的に考えてはいなかったのが正直なところではある。だが後悔しているわけではない。他に選べる道はなかったのだ。ただ、友と二度と語らうことはないのだという寂寥感は拭えない。
 不意に扉を叩く音が響き、ユイスは我に返った。ティムトだろうか。仕事を怠けていたと知れたら面倒だ。慌てた姿勢を正してペンを握りなおし、入れ、と声を掛ける。しかし、顔を出したのは予想とは違う人物だった。
「……レイア」
「勝手にすみません。ティムト殿に代わってもらったんです。少し、休憩しませんか」
 そう言った彼女の手には、二人分のティーセットを乗せたトレイがあった。山になった書類を適当に端に寄せ、レイアを招く。淹れてもらった茶の爽やかな香りと温かさが、余計な力を逃がしていく。
「別に給仕の真似事をしなくても、普通に訪ねてくれていいんだぞ」
「ありがとうございます。でも、この方が私も気が楽なので」
 ユイスと共に茶に口にしながら、レイアは僅かに首を傾け微笑した。どの仕草には形式ばった気遣いは感じられず、彼女の本心であるようだった。一通りの片がつき本来ならルーナに戻っても問題ないレイアだったが、未だ城に留まっているのは彼女自身の意思でもあった。まだ事が収束して間もなく不測の事態も有り得るかもしれないし、事後処理に自分の話が役に立つこともあるだろうから、と。ユイスとしては追い返す理由もない。実際、神殿関係者への対応や風の神殿の事件の記録などで頼らせてもらっている部分もあった。何より、自分とレイアが同じ心境だろうと想像できたからだ。
「静かだな」
「静かですね」
 どちらからともなく、同じ台詞を口にする。ユイスとレイアは、互いに同じものを失った。その寂しさを分かち合える唯一とも言える相手だった。エレメンティアとしての力をなくしても、それを実感している人間はさほど多くはない。元より、はっきりと姿や声を認知できるほどの力の持ち主は少なかったのだ。その点ユイスは力の強い方であったし、レイアに至っては『聖女』である。なにより、ユイス達にはイルファがいた。短くはない旅の中で、彼はあまりにも身近な存在だった。それを失った感覚は、たとえエレメンティアであっても他の人間には理解されにくいものだろう。
「……あの二人はどうしているんでしょうか」
 生まれてしまった静寂を埋めるように、レイアが話を振る。そこで初めて、そういえば彼女達の話をしていなかったと気が付いた。
「今は王都の外れの屋敷に滞在してもらっている。一応監視をつけてはいるが、必要なかったかもしれないな」
 レイアが気にしたのは、あの日消えたように見えた時柱の二人――ノヴァとメネのことである。彼女達はユイス達と共にイルベス近くの浜に打ち上げられ、町の人間に保護されていた。懸念していた身体や精神面への影響はほぼなかったと見え、顔色は悪いものの海底の神殿と変わらぬ様子で振舞っていた。しかし大きな変化として、ノヴァ達は時柱として振るっていた力を失ったようだった。
 ――長く囚われすぎて、解放されたらどうしようかなんて考えてもいなかったわ。
 神殿は崩れ、頼ってきた力も既にない。途方に暮れるその姿は、無力な人間そのものだった。ユイスは行くあてのない彼女達をひとまず王都で保護することに決めた。メネの記憶は徐々に安定し、ノヴァも過去に苛まれることは少なくなっているらしい。戸惑いながらも人の暮らしに馴染んでいく過程を見ていれば、もう自分達の敵ではないことは明白だった。複雑な思いがないとは言えないが、彼女達も生きる喜びを見出してくれればいいと思う。
「全てが終わった、と言っていた。ノヴァが言うなら間違いないんだろう」
 クロック症候群は消滅し、原因も取り除かれた。これからの未来で人々の憂いの種となることは有り得ない。今は慌ただしくしているが、じきに城も祝いだなんだと騒がしくなる。それが済めば穏やかな日々が戻り、少しばかりの揉め事がありつつも平穏に時は流れていくのだろう。やがてはクロック症候群のことも、ユイス達の旅も忘れ去られ、歴史の中に埋もれていく。きっと自分でさえそうなのだろう。旅の中での苦悩も、精霊達との語らいも、些細な喜びを分かち合ったことも――今は遠い国の物語のように感じられた。
「寂しい、な」
 思わず零れた呟きに、レイアも頷いた。言葉にしてみればあまりに短い、けれど他には表しようのない感情だった。結局、別れの挨拶すらできなかった。
「……あの、ユイス様。実はお見せしたいものがあるんです」
 沈黙が下りるかに思われた中、レイアがおずおずと切り出した。なんだ、と促すと、彼女は徐に何かを取り出した。小さな紙包みだ。机に置いて広げてみると、包まれていたのはビスケットだった。旅の中で持ち歩いていたのと同じものだ。イルファ用のおやつである。狐色のそれを暫しを見つめ、ユイスはなぜレイアがこれを持ってきたのかを察した。
「これは、もしかして」
「やっぱりそう思いますか? 今朝、枕元にこれ見よがしに転がっていたんですけど」
 自然と顔を見合わせる。次いで、二人同時に噴き出した。本来なら正円であるはずのビスケットは歪な形をしていた。不自然に欠けた縁は、小さな歯型がいくつも重なったようにも見える――というより、実際にそうなのだろう。
「無視すんな、ビスケット寄越せー、ってところでしょうか」
「だろうな」
 ひとしきり笑いあうと、胸に救っていた虚無感があっさりと抜け落ちたようだった。感傷的になりすぎていたのかもしれない。見えなくなったが、消え失せたわけではない。残ったものも、それがもたらした変化もある。
「近々、ルーナ赴かなくてはな。炎の神殿にビスケットを山ほど奉納するとしよう。ジーラス殿に報告もあるしな」
「そうですね、私もいつまでも城でお世話になっているわけにはいかないですし……でも、報告、ですか?」
 レイアが首を傾げた。旅のあらましとその後の対応については既にジーラスへも連絡を済ませてあり、それは彼女も知るところである。不思議そうに見返すレイアに、ユイスはわざとらしいほどの笑みを向けた。
「まぁ、以前からの話ではあるんだが、事態が落ち着いたなら早く結婚しろと周りがうるさくてな。ようやく決心がついたから、その報告だ」
 告げた途端、レイアの動きが止まった。一呼吸分ほど固まった後、壊れた蝶番のような動きで顔を伏せる。
「そ、そうなんですか。お相手は、どなたなんですか」
 ぎこちない動きと連動して声まで強張っている。ユイスは気付かれぬように苦笑した。これは分かっているのか、いないのか。机の上で握り締められた拳に、そっと手を重ねる。レイアの身体が微かに震えた。
「レイア」
 様々な思いを込めて呼びかける。彼女の問い掛けへの答えでもあった。こちらはもう覚悟を決めている。反応はない。通じていると、思いたいが。
「ルーナの神殿には、戻らなければならないだろう。あそこはお前の実家のようなものだ。ずっと私が連れまわしてしまったから、そのままというわけにもいくまい。だが一度戻ったらその後は――私と共に生きていくれないか」
 ――今回の旅を経ての一番の変化はこれだろうか。元々親しみを覚えていた少女ではあった。しかしそれは友人や身近な人々に対する親愛の域を出ないものであったと思う。それがいつしか隣にいるのが当然となり、手放したくないと感じるようになった。それこそ、国の危機を目の前にしても、である。きっと苦労をかけることになるだろう。貴族の娘でもないレイアを娶るとなれば、問題は山ほどある。だがそれも、時柱として彼女を捧げろと告げられた時ほどの絶望はない。この手を離さずにいられるなら、いくらでも力を尽くそう――もちろん、彼女が同じ気持ちであればの話だが。
 レイアは未だに顔を上げない。ただ、金の髪から除く耳が目を見張るほど朱に染まっていた。やがて固く握っていた拳が緩み、控えめにユイスの手に指を絡ませる。
「……私で良ければ、喜んで」
 ともすれば聞き逃しそうなほど小さな声で、レイアが応えた。その瞬間、安堵に全身の力が抜けるのが分かった。ユイスとて多少は緊張していたのである。繋いだ手に少しばかり力を籠め、更に声を掛けようとした時だった。ちょうどユイスとレイアの間、ビスケットを置いていた辺りで赤く火花が弾けた。これにはレイアも思わずといったように顔を上げる。よく見ると、食べかけだったビスケットはいつの間にか綺麗になくなっていた。
「相変わらず……ですね」
「全く、困った精霊だ」
 互いにおかしくなって、声を上げて笑い出す。抗議なのか或いは祝福の炎なのか、火花はその後数回にわたって部屋の中を赤く照らし出した。それは何より代え難いものは確かに今ここにあると、そう教えてくれる光だった。

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