人と精霊 1

 身じろぎした時の、身体が引き攣るような感覚で目が覚めた。肌に柔らかな感触が触れる。清潔なリネンと暖かな空気が、疲弊したユイスを優しく包んでいた。引きずるように半身を起こしベッドに腰掛ける。部屋の内装と窓から見える景色からして、どうやら水の神殿の客室らしいと当たりを付けた。
「……随分と手荒な見送りだったな」
 思い返して、ユイスは深々と息を吐いた。水底に沈んだ街と神殿、そこにいた謎の女性達と巨大な結晶。夢でも見ていたのだろうかと思える出来事だったが、身体の端々に残る痛みがこれは現実だと告げていた。
 服を捲り、改めて状態を確かめてみる。海に呑まれた時に出来たであろう擦り傷や、どこでぶつけたのか青い打撲の跡がそこかしこに残っていた。主立った傷があるだろう箇所には包帯が巻かれ、丁寧に処置されている。微かに鼻につく臭いは何かの軟膏だろうか。そういえば、衣服もゆったりとした部屋着に替えられている。どうやって地上に戻ったのかはさっぱり分からないが、運良く保護して貰えたようだ。もし海を永久に漂うことになっていたらと思うと、流石にぞっとする――そんなことを考えていると、不意に扉を叩く音が響いた。
「失礼します……あ、ユイス様! 良かった、目が覚めたんですね。あんまり深く眠ってたから心配しました」
 片手に盆をのせ、顔を覗かせたのはレイアだった。ユイスの姿を見て安堵したように微笑むと、ベッドまで歩み寄り持っていた盆を差し出した。
「軽食作ってもらったんですけど、食べられそうですか? 朝食……といっても、もうお昼ですけど」
 湯気の立つスープと麦パンが一つ、それにビスケットが数枚。たいして空腹は感じていなかったはずだが、それらを前にして急に腹の虫が騒ぎ始めた。あれからどれほど経ったのか分からないが、海に出る前に軽く食べたのが最後だ。
「……召し上がってください」
 体力を消耗すれば、当然身体は栄養を求めて訴えるものである。笑いを堪えきれていないレイアを軽く睨みつつ、ユイスは素直に食事を受け取って盆を膝に乗せた。それに合わせて、レイアも近くの椅子を引き寄せて腰掛ける。
「私達が海に放り出されてからどれくらい経ったんだ? 他の者は無事か?」
 行儀が悪いとは思いながらも、スープを啜りながらユイスは訊ねた。海底の神殿からずっと気掛かりだったことである。その辺りはレイアも先に答えを用意していたのか、淀みなく話してくれた。
「街近くの浜辺に打ち上げられていた私達を、たまたま通りかかった神官が見つけてくれたそうです。昨日の夕刻だったそうなので、海に出て丸一日半くらいですね。船はかなり損傷してしまったみたいですけど、他の人もみんな無事ですよ」
「……そうか」
 レイアの説明を聞いて、胸に溜まっていた重いものが少し取り払われた気がした。とはいえ、船は彼等の商売道具だ。それをユイス達のせいでなくしてしまったのだから、諸々が片付いたら詫びを入れなければならないだろう。
 そう一安心したところで、ふとレイアの手に目が留まった。袖で隠れているが、白い布が下からちらついている。思わず彼女の腕を引くと、腕に巻かれた包帯が露わになった。
「……先にお前の心配をするべきだったな。すまない」
 包帯の他にも、白い肌にはうっすらと打撲痕が残っている。考えずとも分かることだ。レイアとて同じ状況だったのだから、怪我の一つや二つしていてもおかしくない。同乗していた船乗り達が気になっていたのは確かだが、まず目の前の彼女を気遣うのが普通である。そんなことにも気付けないとは、自分はまだ寝ぼけているのだろうか。
「私は大丈夫です。昔から色々いたずらしては生傷作ってましたから、これくらい」 
 自省するユイスを励まそうとしてか、レイアは明るく声を上げひらひらと両手を振ってみせた。大したことはない、と言う笑顔に触れ、ユイスも少し気が緩む。
「まぁ、確かにな……だが嫁入り前の娘が傷だらけでは、ジーラス殿になんと言い訳したものか」
 敢えて揶揄するように言って、ユイスは眉根を寄せた。厳しく接しながらも、大司教ジーラスはレイアを娘のように可愛がっている。幼い頃から神殿で過ごしてきた彼女の親代わりのようなものだ。そんなジーラスが跳ねっ返り聖女の将来を心配している、というのもあながち嘘ではなかったりする。
「い、今のところそんな予定はないですし、大丈夫です」
「分からないぞ。今年で十九だったか? 結婚しても全くおかしくない歳だろう。お前なら引く手数多だろうに……それとも既に決めた相手がいるとか」
「いません! 別に、好きな人なんて、いないです!」
 頬を紅潮させ、レイアは何度も首を横に振る。からかい半分なのは分かっているだろうに律儀に答え、更にはあまりに必死に否定するので、つい吹き出してしまう。その慌てぶりが逆に怪しいのではないか、続けようとしたが、恨みがましい視線を感じてそれは飲み込むことにした。やりすぎは良くない。
「……まぁ、その辺は置いておくとして。とにかく、無事で良かった。一時はどうなるかと思ったが」
 軽く咳払いしてレイアに向き直る。話題が変わったことに安堵したのか、レイアの表情に柔らかさが戻った。
「はい。ユイス様も、大きなお怪我がなくて良かったです」
 彼女につられて、ユイスの口元にも笑みが浮かぶ。彼女に怪我を負わせてしまったことについては忸怩たる思いだが、この程度の負傷で済んだのは僥倖でもある。だが今後の旅も運の良さに頼る、というわけにはいくまい。今度こそしっかり、レイアを守ってやらねば――そう決意を新たにしたところで、突如として騒々しい声が宙から割り込んできた。
「そうよー、無事で良かったの! わたしのお陰ね!」
 何もない場所から水が弾けたような音が響き、そこから姿を表したのはレニィだった。傍らで襟首を掴まれたイルファがぐったりしているを見つけ苦笑しながら、レイアが横から補足する。
「レニィが私達を見つけて、浜まで運んでくれたみたいなんです」
「感謝して欲しいのよ。こっちは役立たずだったんだからね」
 ずい、とイルファの身体を前に差し出しながらレニィは胸を張った。その言葉に、イルファは猫のような雄叫びを上げて強引にレニィの手を振り払った。
「だー! 役立たずじゃないぞー! 服とか乾かしてやったの、おれなんだからなー!」
 指先を突きつけ、レニィを非難するイルファだったが、殊勝に謝ってくれる相手ではない。逆に彼の主張を鼻で笑う。
「そんなの、全部終わった後だったの。大したこともしてないのに、偉そうなのよ」
「なんだとー!」
「あー、助けてくれたんだったな。ありがとうレニィ。イルファもな」
 礼を述べつつ二人の間に手を入れ、さりげなく引き離す。顔を見せに来てくれたのはいいが、早々に喧嘩を始めるのは勘弁願いたい。それでもイルファはじたばたと藻掻いていたが、食事についていたビスケットを手渡すと取り敢えずは大人しくなった。
「……さて、皆の安否が分かったところで、今後の話なんだが」
 ひとまずレニィもこれ以上騒ぐ気はないと見て、ユイスはそう切り出した。散々な目にあったものの、それなりの収穫はあった。時柱、なる物の捜索。それが当面の目的となりそうである。問題はどこから探すか、であるが――。
「そのことなんですけど……これ、ユイス様が目覚めたらお見せしようと思っていて」
 ユイスが考えることを察したようにレイアが動く。取り出した先に準備しておいたらしい地図と、もう一つは海底の神殿で手渡された結晶である。地図を広げ、レイアは結晶を前に差し出した。
「中に光の針みたいなのがあるの、分かりますか?」
「これは……」
 促されて結晶を覗き込むと、確かにうっすらと金色の筋が見えた。中心から時計の針のように細く光が伸びている。レイアが軽く手を動かして角度をつけると、それに合わせて光の針もくるくると向きを変えた。まるで羅針盤である。そしてその感想は、図らずも正鵠を射たものだったようだ。
「これ、ずっと同じ方角を指してるみたいなんです。ここからだと、北西ですね」
 言いながら、レイアは針の向きと地図を照らし合わせた。彼女の言う通り、結晶は常に同じ方角を指し示している。これがノヴァ達の言うところの道標であるらしい。
「北西……シズロ山脈の方か」
 レイアに確認を取りながら、ユイスは地図に目を走らせた。ちょうど風の神殿の方角と重なる。この辺りは山麓に小さな町や村が点在する地方だ。神殿以外には特に精霊に縁の深い土地はなかった筈である。
「となると、やはり風の神殿を目指すのがいいか……他に分かったことは?」
 目的地の目星は付けた。しかし肝心の時柱については分からないことだらけである。なぜその存在を認知されていないのか、あの神殿との関連性はあるのか、結晶の核とはどのようなものなのか。得体の知れない物なのだから、少しでも情報は欲しいところである。そう考えて問いかけたのだが、レイアは静かに首を振った。
「イゴール様にも海底の神殿や時柱について尋ねてみたんですが、やはりご存知ないそうです。ジーラス様にも急ぎ手紙を書きましたが……」
「望みは薄い、か。ジーラス殿が知っていればとっくに教えてくれているだろうな」
 言葉を濁したレイアの後を引き継ぎ、ユイスは言った。この旅に当たって、ジーラスは資金や連絡面など様々な支援をしてくれている。そんな彼が知った上で情報を出し惜しみしていることはあるまい。現状を知らせれば改めて調べてはくれるだろうが、過剰な期待はしない方がいいだろう。
「イルファとレニィは何か知っているか?」
「残念だけど、わたしから話せることは無いのね」
「おれも知らないぞー」
 念のために傍にいる精霊達にも確かめてみるが、想像に違わぬ答えが返ってきただけだった。さして落胆することもなかったが、やはり釈然としない。どう考えても、こんなに重要な事実が記録に残っていないのはおかしい。神殿も、精霊すら知らない歴史――そんなものが存在するのだろうか。
 それとも、とユイスは思いを巡らす。これまでに顔を合わせた精霊王達はどうだったのだろうか。飄々として掴み所のなかった炎のイフェン、多くを語りたがらなかった地のトレル。話そうとしないだけで、彼らは全ての答えを知っているのではないだろうか。ならばなぜ、それを隠すのだろう。
「ユイス様?」
「いや、手掛かりが心許ないと思ってな。時柱を奪った者がどう動いているかも分からないし、近隣の町を虱潰しにしていくしかないか」
 呼び掛けられて我に返り、ユイスは溜め息混じりにそう吐き出した。悔しいが、これ以上は考えてもどうにもならない。精霊達の思惑は、人間ではとても考えの及ばないような場所にあるのだろう。今はクロック症候群の収束を優先すべきである。
「あまりのんびりもしていられない。すぐにでも――」
「明日以降にしましょう。体調も崩してたんですから、無理なさらないでください」
 出立を告げようとしたユイスを遮り、やけに強い口調でレイアが制した。笑顔に妙な気迫があるのは気のせいだろうか。
「私、イゴール様に言って準備しておきますから。ユイス様は休んでください。食事もちゃんと食べてくださいね!」
 反論する猶予も与えずに捲し立てると、レイアは早々に部屋を後にしてしまった。やや間を置いて、ユイスは苦笑する。そういえばトレルの森でも無茶をしすぎだと怒られた気がする。思っていた以上に気を揉ませてしまっていたようだ。
「なんか、怒ってたなー?」
「諦めて寝てるといいのね」
「……仕方ないな。今日は大人しくしているとしよう」
 どこかのんびりとした、しかし的確なイルファの指摘に、更にはレニィにまで窘められては、ユイスも降参するしかないのだった。

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