人と精霊 2

 丸一日を休養に費やし、レイアの怒りもどうにか治まったところで、ユイス達はイルベスの町を後にした。出立の時にレニィの姿を探してみたが、結局あれ以来顔を見せることはなかった。元々『見張り』として同行していたらしいので、彼女達の領域を去るなら顔を合わせる理由もないということだろう。そう解釈はしてみたが、イルファと揃ってかしましかった声が無くなると少し寂しく感じられた。
 以降の道行きは相談した通り、近隣の町から北西に向け手当たり次第訪ねていくこととなった。この方角に時柱が持ち去られたのなら、クロック症候群に関わるような変事はなかったか。あるいは、時柱の結晶が盗品として出回っているような様子はないか。思いつく限りの可能性を当たって聞き込みもした――が、結局は徒労に終わってしまった。神殿関係者や町の酒場、闇市のような場所にまで足を伸ばしてみたものの、収穫なし、である。
「結局、手掛かりらしいものは得られずにここまで来てしまったな……」
 足を踏み入れた町の景色を眺めながら、ユイスは呟いた。背後に聳える山に馴染むような素朴な家々に、清涼な空気。どこか靄が晴れないようなユイス心境とは対象的に、町の情景はあまりに長閑であった。今日はここで一泊となる。
 示された方角のめぼしい村や町を巡回し尽くし、最後に辿り着いたのはシズロ山脈の麓にあるリエドの町である。これといった産業もない静かな場所だが、風の神殿への巡礼客でそこそこ栄えている町だ。道標としている結晶の針は未だ同じ方角を指し続けているが、ここより北西は険しい山々が連なり、風の神殿を除けばリエドを最後に人里も殆どない。一応の目的地を神殿としてはいたが、このまま得られるものが無ければ山を越えなければならないかもしれない。
 となると、これまでのように貸し馬や馬車を乗り継いでいく、という真似はできなくなる。幅が狭く高低差の激しい道が続くので、馬が入れないのだ。当面の目的地である神殿へ向かうにしろ、山越えにしろ、相応の準備をリエドで整えなければならないだろう。急く気持ちはあれど、山の経験に乏しい自覚はある。ひとまずは町を回りつつ必要な物を買い足すという話になり、一段落したのはそろそろ夕刻という頃合いだった。
「これで、大体の物は揃いましたね」
「そうだな。いい加減宿を探さなくては」
 清々しかった青空はいつしか色を変え、燃えるような落日が荘厳な山脈とこぢんまりとした町並みを染め上げていた。風がどこからか夕餉の匂いを運び、鼻腔を刺激する。買い物ついでの情報収集も成果が上がらない。巡礼客が多い時期でもないので満室ということはなかろうが、切りのいいところで引き上げるべきだろう。身体を休めて、明日以降に備えるのが得策である。
「確か、あちらの通りに――ん?」
 目星を付けていた宿屋に早速向かおうとして、ユイスはふと違和感を覚えた。
「どうされました?」
「……イルファはどうした?」
 指摘されて気付いたのか、そういえば、とレイアも慌てて辺りを見回した。つい先程まではユイスかレイアの頭の上でくつろぐか、つかず離れずの距離をふらふらと漂っていたのだが、姿が見当たらない。少し目を離した隙にどこへ行ってしまったのか。
「いつの間に……町の人に迷惑かけてないといいんですけど」
「最近は大丈夫だったんだがな。まだまだ油断禁物、ということか」
 図らずも、二人揃って深い溜め息が零れた。実のところ、イルファの失踪はこれまでにもよくあった事である。いくら注意しても元来の強い好奇心に抗えないようで、新たな町や村に着くと一人で飛び出していってしまうのだ。興味のあるものを遠くから観察しているくらいなら害はないのだが、どこからか菓子を勝手に頂戴してくることもあるのが厄介だ。幸い旅の途中で大事に至ったことはないが、出会ったきっかけがルーナの火事騒ぎだったことを思い返すと安心していられない。
「ユイス様、先に宿をお願いできますか? 私はイルファを探してきます」
「仕方ないな。手続きが終わったら私も――」
「おー、呼んだかー?」
 早く捕まえねば、と捜索の算段を立てる最中、不意に緊張感の無い声が頭上から降ってきた。イルファだ。
「なんだ、戻ってきたのか」
 何事もなかったように、イルファはユイス達の傍まで舞い降りてくる。町中を探し回る羽目にはならずに済んだようだ――しかし、そう安堵したのも束の間であった。イルファが近寄った拍子に、ふと甘い匂いが嗅覚を掠める。その手には、彼の身体と同じほどの紙包みが抱えられていた。包みの中身は、考えるまでもない。
「またお前は! 一体どこから持ってきたんだ?」
「あっちにあったぞー」
 悪びれた様子の一つも見せず、イルファは来た道を指差す。人間の金銭のやりとりや罪悪感について説いたところで彼に解るはずもなく、ユイスはイルファから包みを受け取るとただ無言で項垂れた。人と精霊との感覚の違いは、未だ埋まる気配もない。
「返しに行く……わけにもいかないですね」
「……申し訳ないが、宙に浮いた包みを目撃されていないことを願おう」
 旅のためだ、とユイスは割り切ることにした。イルファの姿が常人に見えない以上、精霊が持っていってしまいました、と説明しても盗人の言い訳としか思われないだろう。早々に時柱を見つけ出さねばならないというのに、こんな所で役人の世話になって時間を食うのは遠慮したい。
 だが、もし元の持ち主が分かれば、密かに菓子の分の硬貨を置いておくくらいのことはしておこう――そう結論を出したユイスだったが、事態はそう上手くはいってくれなかった。
「あー! あった、俺の大事なクッキー!」
 道ですれ違う疎らな人影のうちの一人が、そんな叫び声を上げた。丁度イルファが先程指差した方から歩いてきたである。見れば、この町の住人と思しき少年がユイスの手元を凝縮していた。まずい、と身を翻しかけるが、それでは自分が盗ったと言っているようなものである。
「ちょっとあんたら、旅の人みたいだけど人の物勝手に持っていくんじゃねぇよ! どんな手品使ったか知らないけど、返してもらうからな。おかしいと思ったんだよ、ちゃんと持ってたはずなのに」
 どうすべきか逡巡する暇さえなく、少年はユイスに詰め寄り包みを奪い取った。じろりと気迫満点に睨みつける瞳は『ただで済むと思うなよ』と暗に告げている。
「すまない、説明しづらいのだが事情があってだな……」
 どこまで信じて貰えるか怪しいが、こうなったら正直に事情を話してみるしかない。口を開きながらも、つい恨みがましい視線をイルファに向けてしまう。だからあれほど言ったのに――そんな心中を察したわけではないだろうが、イルファは滑るように宙を移動しユイスと少年の間に割って入った。少年の目が大きく見開かれる。次の瞬間、菓子の包みのことなど一瞬で吹き飛ぶような事実が発覚した。
「なんか、お前知ってる気がするけど、誰だっけなー?」
「――イルファ!?」
 驚愕の表情で叫んだのは少年だった。彼の瞳は確かに精霊の姿を捉え、発する言葉をも正しく聞き取っている。少年以上に驚かされたのはユイス達であった。
「見えているのか……!?」
「見えてるけど、というかなんでイルファがこんな所に? どうなってんの?」
 少年は困惑したようにユイス達の顔を交互に見回す。口振りからしてイルファの知己のようだが、町の少年が精霊と知り合いとはいったいどんな縁なのか。色々と訊ねたいのはこちらも同じである。
「ユイス様、どこかで落ち着いて話した方が」
「……それもそうだな」
 レイアに囁かれて、軽く混乱していた頭が冷静さを取り戻す。イルファの行動について詫びもしなければいけないし、そういえば宿の手配もまだである。夕餉を食べながらでも話した方が良さそうである。
 その旨を提案すると、少年は快く頷いた。
「ちょうどいいや、うち宿屋なんだ。びっくりしたけど、お客さん確保できて良かったよ」
 そう言った少年には先程までの剣呑さはない。そのことにユイス達は人心地つき、彼の先導で宿屋への道を歩き始めたのだった。

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