人と精霊 5

 山肌を切り崩して無理矢理平らにしたような場所に、風の神殿はひっそりと佇んでいた。他の神殿と同じように建物は白で統一され、門前にはそこで祀る精霊の像が置かれている。異なっているのは、敷地全体を囲む防壁が無いことだ。この険しい山道自体が自然の要塞のようなものだから必要ないのだろう。木の根と伸びた枝葉、突き出た岩々と同化した外観は、厳かでありながらもどこか異様さを感じさせた。更に特徴的なのは高く聳える尖塔である。周りの木々さえ追い越し、天を貫くようにして地上を見下ろしている。天から吹き下ろした風を受け止める、風の神殿の象徴といったところだろうか。
 しかしユイスは、印象的な外観より別のことに意識が向いた。
「……静かだな」
 神殿に辿り着き、真っ先に口にした感想がそれだった。入り口に立つ衛兵もいなければ、神官達の姿も見えない。立地の関係もあり余所より規模の小さな神殿ではあったが、それを鑑みてもこれほど人がいないものだろうか。
「中で、取り次いで頂けるでしょうか……」
 神殿を見上げたレイアもまた、訝しげに呟いた。大抵は門兵に書状を見せて司教に取り次いでもらうのだが、いないとなると誰か他の者を捕まえなければならない。勿論、中に神官がいれば問題ない話ではあるのだが、それすら不安になる静けさである。
「何そんな変な顔してるんだよ。神殿なんてそんな賑やかな場所でもないだろ。ほら、入ろうぜ」
 違和感の漂う空気に足踏みするユイス達とは対照的に、エルドは欠片ほどの疑問も持たない様子で先へ進んでいく。数日に一度は訪れているらしい彼が気にしないのだから、これが常のことなのだろうか。疑念は晴れないながらも、ユイス達はエルドに続き神殿の門戸をくぐった。
 屋内に入り、列柱の広間を抜け、中庭を通る回廊に出る。このまま道なりに行けば聖堂だ。しかしその間も、神官の一人、参拝客の一人ともすれ違わなかった。神聖さの感じられない、不気味な静謐。その中で、自分達の足音だけがやたらと耳に残る。エルドは何も言わない。だがこれは、いくらなんでも異常ではなかろうか――。
 そこで不意に、ユイスは町で聞いたエルドの言葉を思い出した。前の巡礼者達がそろそろ帰ってくる筈だが遅れている、という話だ。ユイス達はそれを待たずに出発したのだから、彼らが帰路についていればどこかで鉢合わせしそうなものである。だが、道中に巡礼者と出会うことはなかった。別の道を通っていたからかもしれないが、大きな集団なら多少離れていても人の気配が分かる筈だ。それが全く感じられなかった。ならば神殿にまだ残っているのだろうか。この奇妙な静寂のどこかに――そうだとしたら、些か不穏な気配がする。
「待ってくれエルド、流石に何か様子が――」
 不安に駆られてエルドを呼び止める。その瞬間だった。彼は不思議そうに振り返って何かを言いかけ――糸が切れたように、身体が傾いだ。瞳から光が消える。
「エルド!?」
 倒れる。そう思って咄嗟に手を伸ばすが、その前にエルドは意識を取り戻し自力で踏みとどまった。
「大丈夫か? 体調が悪いなら休んでいた方がいい」
「……ん、平気。時々あるんだ、こういうこと。すぐ治まったから大丈夫だよ」
 眠気を振り払う時のように、エルドは頬を両手で叩く。ユイスに頷いてみせると、彼は何事も無かったかのように微笑んだ。先ほど垣間見せた虚ろな瞳は見当たらない。別段顔色も悪くなく、平常通りのエルドに見えた。少なくとも、外見については。
「悪いな、驚かせて。で、なんの話だっけ?」
「……いくらなんでも、神殿の様子が変だと言ったんだ。人がいなさすぎる。まさか、いつもこうというわけではないだろう?」
 問い掛けの形ではあったが、胸の奥底では警戒心が着々と警戒心が育っていく。エルドの飄々とした態度もどこかおかしい。それとも、疑問に思う自分がおかしいのだろうか。何が正しいのかさえ分からなくなりそうだった。
「うーん、そうかもなぁ。とりあえず聖堂まで行ってみようぜ。案外みんなそこにいるかもしれないし」
 エルドはあやふやな言葉で応えると、小走りで先を行った。まるで何かを誤魔化そうとしているようだ。頻繁に足を運んでいるなら平常時の神殿を知らないわけがない。本当に来ているなら、の話だが。
「イルファ。エルドに何か変わった様子はないか」
「んー、別に普通じゃないかー?」
 昔からの知り合いならイルファが何か気付くかと期待したが、残念ながら思ったような回答は得られなかった。本当に何もないのか、彼が気付いてないだけなのかは怪しいところである。
「おーい、置いてくぞー!」
 聖堂の扉に辿り着いたらしいエルドが叫ぶ。さりげなくレイアに目配せすると、小さく頷いたのが見えた。不穏ではあるが、引き返したところで得るものはない。時柱のこともある。せめて、どういった事態なのか把握しておくべきだ。躊躇したのは一瞬だった。
 置いていく、と言いつつも律儀に待っていたらしいエルドに追いつき、聖堂の前に立つ。古めかしく、厳かな木の扉は、隙間風も通らないほどきっちりと閉ざされていた。耳を澄ませても、やはり物音のひとつも聞こえない。
「鍵は……」
「かかってないって」
 慎重を期するユイスをいなし、エルドは扉に手をかけた。見た目より軽い手応えで開くものだったらしく、聖堂内の光景が一気にユイス達の前に広がる。最初に目が眩んだのは、高い位置にある窓からの光のせいだろう。中は思いの外明るく、弓形の天井の装飾に日差しが反射するのが美しい。
 だが、それに見とれている暇はなかった。視線を下ろした先にある祭壇、整然と並んだ木の長椅子。そしてそこにある、人影。
「なんだ……これは」
 あまりに異様な状況に、ユイスは絶句した。エルドの言う通り、参拝者も神官も聖堂に集っていた――ただし、既に魂の抜けた人形となって。
「いったい何があったというんだ……!」
 我に返り、目に付いた骸に駆け寄る。椅子で反り返るようにして事切れている男は、服装からして旅の参拝者のようだった。見開いた瞳は濁り、口も開けたまま唖然とした表情で固まっている。上衣の何ヶ所かは大きく裂けて、赤黒いものが身体を染め上げていた。流れ出した血は固く乾いてこびりつき、少なくとも今日のものではないと見えた。他にも床に倒れた者、壁に凭れた者――ざっと十数名だろうか。みな同じように切り裂かれ、血を失って死んでいた。祈りを捧げるための空間に決してあってはならない筈の、凄惨な遺体の数々。漂う異臭が、これを成した者のおぞましい狂気を示しているように感じられた。誰が、なんのためにこんなことを。
「ユイス様……」
 震える声で呼び掛けられ、ユイスは背後を振り返った。見ればレイアの顔はすっかり青ざめ、今にも倒れそうな程だった。こんな状況を目の当たりにすれば、それも当然である。
「大丈夫か、レイア」
「……はい。なんとか」
 込み上げるものを抑え込むようにして、レイアは答えた。そうは言っても辛いことに違いはないに決まっている。彼女のためにも外へ出た方がいいだろう。まだ危険が残っているのかもしれないし、どちらにしてもこの事態はユイス達の手に余る。町の自警団に報せて、他の神殿にも連絡した方がいいだろう。遺体の確認と供養に人手が要る。時柱のことは気になるが、素知らぬ顔で捜索できるわけもない。そう決断して、ユイスはエルドを振り返った。
「エルド、一旦町に引き返して――」

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