影に住むもの 1

 エイリム王国は数々の戦争で周囲の国を合併し、繁栄した国だ。戦いは犠牲を生んだが、それ以上に大きな富をもたらした。小さかった国は膨れ上がり、栄華を極めた。三十年前の戦争を境に他国と平和協定を結び、今では国民は平和で豊かな生活を甘受している。
 そしてその王都、イフェス。中央広場の市場は今日も賑やかだ。店主達の威勢のいい声が飛び交い、道行く人々はうちの客だと、それぞれ主張しているようだ。土産物から食品まで様々な店がひしめく中、とある店先で果てしない攻防が繰り広げられていた。
「頼むよご主人、もう少しだけどうにかなんねぇかな」
「無茶言うなよ、元々こっちはギリギリの値段でやってんだ」
 値段交渉、という名の戦いである。市場で客が商品を値切ろうとするのは珍しくない。この店もそうであった。対象は保存食として重宝される、干し肉の塊がひとつ。既に元の値段の三割引き程になっていたが、客である青年はなおも食い下がっていた。もう数十分はこのようなやり取りの繰り返しである。最初は愛想良く対応していた店主も、苛つきを隠しきれなくなりつつあった。
「そこをなんとか……!」
 手を合わせて懇願する青年に、店主は溜め息をついた。
「……兄ちゃん、これ以上って言うなら他所へ行きな。諦めも肝心だぜ」
 もはや苛つきさえ通り越して呆れたような、哀れむような視線にさすがに気まずくなったらしい青年は、ようやく白旗を上げた。
「……わかった。その値段で頼むよ」
「まいど」
 店主は手際よく干し肉を包んで手渡し値段分の硬貨を受け取ると、人波に消えていく青年を渋い顔で見送った。
「……ようやく行ったみたいだな」
「ああ、散々だったよ」
 事の成り行きを見守っていた隣の店の主らしい男に声をかけられ、やれやれといった様子で店主は言葉を返した。
「まったく、干し肉にあんな必死な奴初めて見たよ」
「どうせ貧民街の人間だろ」
 それを聞いた店主は、得心のいった顔で頷いた。
「ああ……道理で意地汚ねぇわけだな。まったく、国王陛下も貧民街の奴らなんて追い出しちまえばいいのに……」
 愚痴を言い始めかけた店主にすみません、と声がかかる。客だ。
「はい、いらっしゃい!何をお探しでしょう?」
 素早く接客用の笑顔を浮かべた店主は、新たな客に商品を売り込み始めたのだった――。

   ※

「あー……やっぱりキツいなぁ」
 無造作に束ねた黒髪をかきむしり、先程店先で粘り続けていた青年――ゼキアはとぼとぼと大通りを歩いていた。赤い瞳を持つ精悍な顔立ちは中々に印象的であったが、今は俯き石畳と見つめ合うばかりである。腰には彼の瞳と同じ色の石で簡素な装飾を施された剣を携え、姿勢を正せばそれなりに見映えのする剣士なのであろう。しかし脇に抱えた日用品を詰め込んでいる紙袋と、身に纏っている暗いオーラのせいで全てが台無しだ。彼がそこまで落ち込んでいる理由は単純かつ、真剣なものであった。
「相当切り詰めてるんだがな……完璧に赤字だな、また」
 金が無いのである。今日買った物の中に値の張る物は無いし、必要最低限のものだ。しかしそれでも彼の収入からすると結構な痛手なのである。
「やっぱりあそこでもう少し……でもなぁ……」
 ブツブツと呟きながら歩く姿は少々不気味ではあったが、ごった返した市場ほどではないにしろ、大通りは賑やかだ。彼の事を気に止める者は居なかった。彼自身もすれ違う人々を一々気にすることも無かったが、ふと聞こえてきた大声に思わず足を止めて振り返った。
「なぁ、俺達金がないんだよ」
「そうそう!困ってるんだよ」
 最初は自分と同じようにどこかで商品を値切ってでもいるのかと思ったが、市場と違い大通りの店はまず値切りには応じてくれない。どうやら様子が違っているようだ。声がした方を見てみれば、いかにもガラの悪そうな髭面とスキンヘッドの男二人。そしてその間に挟まれている少年が一人。小柄で銀の髪の、瞳は金だろうか。遠目に見ても目立つ容姿だ。
「ありゃ完全に恐喝だな……大丈夫かあのちっさいの」
 少年は男達に何か言い返しているようだったが、男二人は聞く耳を持たないようだ――もっとも、聞くくらいなら最初から恐喝などしないのだろうから当然なのだが。
 いくつかのやりとりを繰り返した後、ついに男達は強行手段に出た……暴力、という名の。一人の男が少年の腕をねじり上げ、どこかへ引きずっていく。当然少年は抵抗するが、その小さな体では岩のような男二人に敵うはずもない。やがてその姿は人波に呑まれ消えていった。
「……不味くないか、あれ」
 周りに止めようとする者は誰もいない。触らぬ神に祟りなし、といったところであろうか。
 一連の流れを見ていたゼキアは、いつの間にか駆け出していた。あの少年の容姿からして暴力以外の最悪の事態もあり得る。
「……ったく、我ながら損な性格してるよな!」
 通行人の隙間を縫いながら、ゼキアは吐き捨てた。遠目に見ただけの赤の他人、とは思っても放っておけない――彼はどこまでもお人好しの性分であった。

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