prologue

 暗い部屋だった。目を開いているか閉じているかさえ曖昧になるような、そんな深い暗闇。空気はじっとりと湿り気を帯びて黴臭く、重くその場に滞っていた。誰しもがその場に留まりたくないと感じるような、陰気な場所だった。
 そんな部屋の中、古びた木椅子に優雅に腰掛ける男がいた。身動ぎする度に椅子は耳障りな音を立てるのに、その様はまるで玉座の王のような優々たるものだった。その黒髪は闇の中にあってもなお黒く、瞳もまた深淵を覗いたような漆黒である。暗がりに隠された肌だけが、不健康にやたらと青白かった。
「かつて、夜には光が無かった」
 男は傍にあった棚から一冊の本を手に取り、おもむろにページを捲る。読み上げるのは、魔法に纏わる古い神話だ。国中の誰もが一度は耳にする、お伽噺のようなものだった。
 ――かつて、夜には光が無かった。その闇を憂えた太陽から月が生まれ、夜を照らす光に人々は歓喜する。しかし闇の魔物は影に潜み、人を苦しめ続けた。太陽と月はそれを嘆き、自らの力を人間達に分け与えることを決める。彼らは火の神、水の神、大地の神、風の神を生み出し、人はその神々を通じ、魔法という力を得たのだ。
 男の唇は、淡々とその過程を語る。明かりのひとつもないというのに、文字をなぞる男の声は淀みない。或いは、諳じていたのかもしれない。
「――ああ、全く、気に入らないね」
 あらかた内容を読み終えたかというところで男は唐突に本を投げ捨て、嫌悪も露に吐き捨てた。更には椅子から立ち上がり、ページが千切れるほどに踏みにじる。
「何が、光の慈悲だ。そんなものに屈してなるものか……お前も、そうだろう?」
 言下に男が視線を落とした先には、彼の忠実な“犬”がいた。物音ひとつ立てず現れたその獣は、闇色の毛並みを揺らし男に歩み寄る。男がその鼻先を撫でてやると、獣は何かを訴えるように一声吠えた。それを聞いた男が僅かに瞠目する。
「……逃げた? あの子が?」
 獣は是と答えるように地に伏せ、頭を垂れた。獣が主の判断を待つ間、幾ばくかの沈黙が流れた。ややあって、男が口を開いた。
「あの子が一人でそんなことをするはずがないね。エルシュの仕業だろう……さぁ、探しておいで」
 男が軽く体を叩いて促すと、獣は喉を鳴らし暗闇に溶けて消えた。その様子を見送りながら、男は一人ごちる。
「あの子のことだから焦る必要はないだろうけど、野垂れ死にされても困るからね……もうすぐなんだから」
 そこで一度言葉を区切ると、男の口元には歪な笑みが浮かんだ。
「そう、もうすぐだ……この世界を、塗り替えるのは」
 そう言い残すと、男の姿もまた闇の中へと消えていった。

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