Bright blue 4

 徐々に日が傾き、石畳を赤く照らし始める頃。イフェスの市場はまだまだ賑やかだ。あちこちから聞こえる威勢の良い声。夕食の材料を買い求める女性。遊び足りないのか、帰りたくないと駄々をこねる子供たち。人々はやがて訪れる夜に怯えることなく、生活を営んでいる。それはイフェスの豊かさの象徴だった。
「あれぇ? ルカじゃないか。久しぶりだねぇ!」
 ずらりと並ぶ店の一つから声をかけられ、ルカは足を止めた。
「こんにちは、おばさん! 最近ちょっと遊びすぎたから怒られちゃって、閉じ込められてたのよ」
 冗談めかしてそう言うと、恰幅のいい女店主は声をあげ豪快に笑った。
「あっはは! まるでイタズラした子供みたいだねぇ! どうだい、良い品が入ってるんだけど見ていかないか?」
「うーん……残念だけど遠慮しとく。また今度ね!」
 異国の装飾品を扱うその店は大層魅力的ではあったが、あまりのんびりしていると完全に日が暮れてしまう。帰りが遅くなってまた面倒なことになるのは御免である。断りを入れると女店主は少々不満そうな声を上げたが、「絶対だよ!」と念を押すと笑顔でルカを見送った。
 店主に向かって手を振りながら、ルカは足早に人波を縫って歩いた。ルカはこの市場――ひいてはイフェスの街が好きだった。美しく整備された街並みはもちろん、何より人々が明るく暖かい。一部の治安の悪さはあるが、決して嫌いになれるものではなかった。特に市場には、賑やかさが好きで通い詰めたお陰で先程のような知り合いが何人もいる。歩いている間にも何度か名前を呼ばれたが、軽く挨拶する程度に留めておいた。そうでなければ、つい話し込んでしまう。
「ふぅ……やっと抜けたわね」
 時折周りにぶつかりながらもようやく人混みを抜け、ルカは息を吐いた。普段は好ましく思っている喧騒でも、急いでいるときは少々厄介なものである。
「でも、なんとか間に合いそうね」
 市場を歩き始めた頃よりは深みの増した茜色の空を、ルカは安堵の表情で見上げた。そしてするりとズボンのポケットに手を滑らせ、中を探る。
「……ん?」
 はた、と足を止める。そこにあるはずの感触が、ない。
「え、嘘」
 ポケットをひっくり返したり、上着をはたいてみたり、一通り自分の身体を確かめる。通行人に不思議そうな目を向けられたが、そんなものに構っている場合ではない。近くに落としていないかと辺りを探してもみた。しかし。
「……ない」
 非常に、まずい。これでは帰るに帰れない。全身から冷汗が吹き出すのが分かった。混乱と焦りで、体の中が暑いような寒いような妙な感覚に襲われる。出てくるときには確かにあったはずだ。どこで失くしたのだろうか。思いつく限り、片っ端から自分の行動を振り返ってみる。
「……あの時!」
 一つ、心当たりがあった。人も閑散とし、貧民街に差し掛かる街外れ――ルアスを助けだ時だ。あれだけ動けば落としたとしても不思議ではない。
 そうと分かれば、急いで戻らなければ。誰かが拾っているかもしれないし、貧しい者の多い場所のことだ、売り飛ばされでもしたら堪らない。
「あーもう、無事でありますように!」
 ルカは踵を返すと、今来た道を一目散に駆け出した。

   ※

「うーん……」
 ルアスは顔をしかめながら、テーブルに置かれたとあるものを見つめた。
「いつまで唸ってんだ。しょうがないだろ」
 正面に座るゼキアが呆れたように溜め息を吐いても、ルアスは顔を上げることが出来なかった。
 ルアスの視線の先、頼りなさげなランプの光に照らされているのは、小さな銀の指輪だった。台座に三角形をいくつか組み合わせたような模様が彫ってあるだけの、あまり飾り気のない作りのものだ。模様と共に所々刻まれた文字は数百年前から使われなくなったもので、随分と古い物であることが窺える。それでいて上品な輝きを失わず、使い込まれた質素なテーブルにあるのがひどく不釣り合いに見えた。
「でも、こんな高価そうな物持ってたら落ち着かないよ」
「……まぁ、それには同意だけどな」
 切り詰めに切り詰め、ようやく最低限の生活を送っている二人である。いかにも値の張りそうなこの指輪が、解れた服を何度も繕って着ているような人間の私物なわけがない。なぜそんな物があるのかといえば――拾ったのである。
「ルカって、実はいいとこのお嬢様なのかなぁ」
「……さぁな」
 昼間、絡まれていたのを助けられた時のことだ。ルカが飛び降りてきた拍子に転がってきたものを咄嗟に拾い上げ、そのまま返しそびれていたのである。それに気づいたのはささやかな夕食を終え、そろそろ床に着くかという時分だった。もちろん故意でやったことではないが、傍から診れば盗人に見えなくもない。ルカに勘違いされていなければいいのだが。
「まぁまた来るとか言ってたんだし、その時に返せばいいだろ。案外落としたのに気づいてないかもしれないしな」
「……うん。そうだよね」
 ゼキアの言う通り、こうして指輪を睨んでいたところで解決するものではない。次に会うまで大事に保管しておく、というのが妥当だろう。
 それにしても、とルアスは今しがたのゼキアの発言を振り返る。
「ちゃんと返そうとする辺りは、ゼキアだよねぇ」
「なんだ、それは」
 しみじみと呟くと、ゼキアは訳がわからないというように声を上げた。
「売っちゃえばお金になるのに」
 それを聞いたゼキアは、眉間を押さえてがっくりと肩を落とした。
「あのな……俺らみたいなのがこれを持っていったところで、出所を怪しまれるだけだろ」
「それは確かに、そうだけど」
 とはいえ、裏では闇商売が横行しているイフェスである。その気になればいくらでも買い手は見つかる筈だ。どれだけ金に困っていてもそれをしないのだから、どこまでも悪人とは程遠い男である。もちろんルアスとて、それを勧めようとは思わないが。
「さぁ、話はこれぐらいにしてとっとと寝るぞ」
 そんな思考を知ってか知らずか、ゼキアは立ち上がるとルアスの頭を軽く叩いた。
「……はぁい」
 だらだらと話しているうちに夜も更けた。空が暗くなれば身体を休め、朝日とともに目を覚ます。夜は闇に覆われ出歩けない貧民街で、これは生活の基本である。ゼキアに従い、唯一部屋を照らすランプに手を伸ばした時だった。
「あのぅ、すみませーん」
 ノックの音と同時に、扉越しのくぐもった女性の声が響いた。
「……客?」
「こんな時間に?」
 思わず二人で顔を見合わせ、首を捻った。多くの家は既に寝静まっている時間である。余程急を要する用事か、そうでなければ良からぬことを企んでいる輩か。いずれにせよ吉報とは思えないが、放っておいても心が安らがない。ちょっと待ってろ、とルアスを制すると、ゼキアは慎重にドアを開けた。
「……あ、お前!?」
 驚いたようなゼキアの声に、訪問者を見ようと目を凝らす。ゆっくりと開いたドアの隙間からは、瑠璃色の髪が覗いていた。
「ごめんね、変な時間に」
「ルカ!?」
 苦笑を浮かべながらそこに立っていたのは、昼間に別れたばかりの人物――ルカだった。走ってきたのか肩で呼吸をし、よく見れば明かりのひとつも持っていない。ただならぬ様子に、ゼキアも慌てて彼女を扉の内に招き入れた。ルアスもそれに駆け寄る。
「ルカ! 一体どうしたの!?」
「え、あの、大した用じゃないんだけど……なんでそんなに慌ててるの?」
 捲し立てるようなルアスの剣幕に、ルカは戸惑ったように言葉を返した。
「あのなぁ……女一人、夜遅くに明かりも持たないで歩いてきたら何かあったと思うだろ」
 溜め息混じりにゼキアに言われると、ルカは気まずそうに肩を竦めた。
「……そっか。そうよね。ごめんなさい」
「で、どうしたって?」
 先を促されると、ルカはおずおずと口を開いた。
「あのね、昼間に落とし物しちゃったみたいで……見てないかなぁと思って。指輪、なんだけど」
 まさについ先程まで話していたことを切り出され、ルアスは瞠目した。
「……それでわざわざ来たのか?」
 呆れ返ったといったように、ゼキアは額に手をあてて脱力した。次の機会に返そうと考えた矢先に本人が探し来るとは、まったくの想定外である。こんな夜更けなら尚更だ。
「はい、これだよね?」
「……ああっ! それ!」
 テーブルに置き去りになっていた指輪を差し出すと、ルカは驚きと安堵が入り混じった声を上げた。
「良かったぁ……もう見つからないかと思った」
 手渡された指輪を両手で包み込むと、ルカはへなへなとその場に座り込んだ。
「まったく、そんな大事なものなら落とさないようにしとけよ」
 そうゼキアに指摘され、ルカはその通りね、と情けなく笑って立ち上がると、指輪を右手の小指にはめた。
「さ、探し物も見つかったし、さっさと帰るわ。騒がせちゃってごめんなさい」
「ううん、僕も返し忘れちゃってたから。それはいいんだけど……」
 詫びるルカに、ルアスは頭を振った。彼女の様子を見るに余程大事なものだったのだろうし、迷惑だと咎める気はない。それは家主のゼキアも同じであろう。
 ――しかしそれとは別に、見過ごせないことがあった。
「ちょっと待て。お前そのまま戻るつもりか?」
 言葉通りに外へ出ようとするルカを引き留めたのは、ゼキアだった。
「え? そうだけど」
 それがどうした、と言わんばかりのルカの態度に、ゼキアは盛大に顔を歪めた。
「これだから金持ちは……」
「……どういうことかしら?」
 ぼそりと呟いたゼキアの声はルカの耳にも届いたのか、彼女は僅かに眉を潜めて問い返した。
「ルカ、貧民街は明かりがなくて“影”が出ることもあるんだ。危ないよ」
「……“影”が?」
 ――実のところ、街中に“影”が出るという事実は、あまり広く知られているわけではない。当事者である貧民街の住民と、警備関係の役職についている者くらいである。大半の市街地の住民は貧民街には近付きたがらないため、特に問題にもされない。 街中に“影”が出ると知れては民が混乱すると、国があえて隠蔽しているという話も聞くほどだ。
 つまりは、ルカもそれを知らない可能性が高い。そのまま放り出せば、食べてくださいと言っているようなものである。
「そんなに頻繁なわけじゃないけどな。せめて灯りくらいは持っていけ」
 ゼキアはおもむろにテーブルの上のランプを手に取ると、ずい、とルカの前に差し出した。しかし彼女はしばし思案するように沈黙した後、そっとその手を押し戻した。
「……いいわよ、大丈夫。これを私が持っていったら、貴方たちの家の灯りが無くなるでしょ?」
 それを聞いたゼキアは盛大に顔をしかめ、言い返した。
「帰り道“影”に喰われました、なんて事態になったら、こっちだって後味悪いんだよ」
「これでも剣の腕には自信あるのよ? 襲われたら返り討ちにしてやるわよ」
 お互い相手を気遣っていたはずが、奇妙な押し問答に発展してしまっている。ルアスとしてはゼキアの勧めるようにして欲しいところだが、ルカもなかなか頑固である。これではらちが明かない。どうにか妥協案はないものかと考えていると、ふと思い当たることがあった。
「……あ、そうだ!」
 唐突に声を上げたルアスに、二人の視線が集中する。
「ゼキア、『あれ』渡したらいいんじゃない?」
「あれ? ……あぁ」
 ゼキアは一瞬きょとんとしていたが、すぐに納得したように頷いた。
「まぁ、試作品だけど無いよりマシか」
「僕、取ってくるね」
 ルアスは小走りで階段を上ると、ある物を手に戻ってきた。
「はい、これならいいでしょ?」
「……なぁに? これ」
 そうして手渡されたものを、ルカは不思議そうに眺めた。見た目は掌ほどの大きさの木の板だ。菱形に切り取られ、端に小さな穴を開けて紐が通されている。板にはいくつもの図形が組合わさった複雑な模様と、細かな文字が彫りこまれていた。昼間ゼキアが作業に勤しんでいた『新商品』である。
「なんというか、お守りみたいなもんだ。気休めくらいにはなるだろ」
「ふーん……ありがと」
 これに関しては強く拒否する理由は見つからなかったのだろうか。今度はルカもすんなりと受け入れ、お守りの紐を腰のベルトにくくりつけた。
「さて、じゃあ今度こそ帰るわね」
 落ちないようにしっかりと結ばれたことを確認し、改めてルカは言った。
「うん。気を付けてね」
「朝になって死体が見つかった、とかは勘弁してくれよ」
「わかってるってば。じゃあね!」
 少々皮肉混じりのゼキアの言葉も軽く受け流すと、ルカは足早に貧民街の暗闇へと消えていった。
「……大丈夫かなぁ」
 不安を拭いきれずに呟くと、ゼキアの長い溜め息が聞こえた。恐らくはルアスと同じような心境なのだろう。その横顔を見てみれば、予想通りの渋面だ。
「嫌な予感しかしねぇな」
 ――出来れば、それは当たらないで欲しい。そう切実に願いながらも、ルアスは深く頷いたのであった。

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