ひそやかに揺れる 6

「あ……」
 さしものルアスも、何が起こったのか理解した。恐怖に喉が引き攣る。なぜ、“影”がここに。
「下がってろ!」
 疑問を口にするより先に、叫び声が響いた。ルアスの視界を煌々と燃える赤が覆う。言うまでもなく、ゼキアの炎だ。魔力によって産み出された焔は波のように“影”を呑み込み、周囲の物ごと爆風で吹き飛ばす。
「ぼーっとするな、外に出るぞ! 家の中じゃロクに剣も使えねぇ!」
 なんの躊躇もなく破壊された家に、唖然としている暇もなかった。呆気にとられたルアスの腕をゼキアが掴んだかと思うと、殆ど引き摺られるように屋外へと転がり出た。そのままひたすらに道を走る。未だ混乱する思考でむしゃらに駆け抜け、すっかり息も上がった頃。不意に腕を引いていた力が消えた。
「うわぁ!」
 突如として牽引力から解放された身体は、勢いを殺しきれずに地面へと放り出された。受け身を取るだけの余裕もなく、あちこちを打ち付けられる。
「大丈夫!?」
「いたた……うん、なんとか」
 真っ先に駆け寄ってきたのは、後方に着いてきていたルカである。彼女の助けを借りながらどうにか身を起こすと、“影”に対峙するゼキアの背中が目に映った。そしてその先に見えたのは、狼によく似た黒い獣である。大柄な体躯に対してやや小さい頭が、妙に片寄った位置に付いていた。本来首がある場所ではなく、誤って肩の部分にずれてしまったかのようだ。反対側の肩も毛並みが不自然で、元々あった何かを切り落としたような違和感があった――そこで、ふと気付く。あの獣に、見覚えはなかったか。
「あいつ、この前の!」
 同じく獣を見たルカが、身を固くしたのが分かった。その発言を聞いて確信する。あれは、以前彼女を襲った双頭の狼だ。体つきが不均衡なのは、ゼキアに潰された方の頭が無いせいである。
「やっぱり。でも、家の中にまで入ってくるなんて……またルカを狙ってきたの?」
 夜の貧民街を“影”が闊歩しているのは今更確認するまでもない事実だが、人のいる屋内――“影”達の嫌う灯りのある場所まで侵入してくるなど、聞いたことがない。仕留め損ねたルカに執着しているのだろうか。そうだとしても、奇異な行動であることは間違いない。
「いったい、なんだっていう――」
 零しかけた言葉を、ルアスは中途半端なまま呑み込んだ。唐突にぞくり、と背筋に悪寒が走ったのだ。頭から冷水を被ったかのように、身体が震えだす。全身に突き刺さる、身の毛がよだつような感覚。それは例えるならば――まるで、殺気のようだった。恐る恐る“影”に視線を戻せば、その瞳は明確な意思を持ってルアスを射貫いていた。どうやら、狙いはルカではない。
「……もしかして、狙われてるの、僕?」
 それを自覚したのと獣が動き出したのとは、殆ど同時のことだった。獣は勢いよく四肢で地面を蹴り、立ちはだかるゼキアを避け突進する。
「させるか!」
 すんでの所でゼキアが剣を振るい、それを牽制する。切っ先が獣の胴体を傷付けるが、掠めただけで致命傷にはなり得ないものだった。ゼキアの顔が歪む。魔法には期待できない。効果が薄いのは、以前の戦闘で実証済みだ。
「ゼキア! 待ってて、今――」
 しかし、幸いにも物理的なものを生み出すなら魔法も効き目がないわけではない。植物の蔓で脚を絡めとったことを思い出し、ルアスは援護のため魔力を紡ごうとした。
 しかしそれは、失敗に終わる。
「――え?」
 今しがたの攻撃で不興を買ったのだろうか。ルアス以外眼中に無いかに見えた“影”が、急速に踵を返した。反転した行き先にいるのは、ゼキアである。獣はそのまま突進すると、飛び付くようにしてゼキアに襲いかかった。受け止めきれずに倒れた彼の喉笛を、獣が狙う。
「くっそ……!」
「ゼキア!」
 悲鳴にも似たルカの叫びに紛れ、鈍い金属音が聞こえた。見れば、ゼキアの剣が辛うじて獣の牙を受け止めたところだった。しかし馬乗りされているような体勢で、その状態を長く維持できる筈もない。案の定ゼキアは々に押し負け、構えた剣の位置が揺らいだ。やられる。ゼキアは、殺されてしまう。
 それを確信した時、不意にルアスの脳裏にあることが浮かんだ。恐らく、自分が足掻こうが、ルカが走ろうが、もう間に合わない。だが、あれを使えば。
 ――簡単に人に言ってはいけないよ。
 遠くおぼろげな幼い日々が、頭をよぎる。揺れる灯火、祖母の手の温もり、毎晩繰り返される話。故郷のことで覚えているものなどそれくらいで、他は王都に連れて来られてからの記憶がルアスの全てだ。しかし逆に言うなら、それだけは決して消えないようにと胸に刻み込まれたものだった。あの言葉は守らなくてはいけないと、まるで暗示にかかったように。
「待って、今行くから――」
 まさに駆け出そうとしていたルカの手を、咄嗟に掴む。迷ったのは一瞬だった。今使わなくて、どうするというのだ。
「ルアス!?」
「ルカ、力を貸してね」
 困惑するルカを遮るようにそう告げると、掴んだ手に力を込めた。触れ合った皮膚から、その内側へ意識を送る。深く深く潜り込み、やがて湧き上がる力の泉に行き当たると、ルアスは反対の手を獣へ向かって差し伸べた。見つけた泉から水を吸い上げるように、指先まで巡らせていく――大丈夫、出来る。
「いっけぇ!」
 叫ぶと同時に、空気が凍った。辺りの気温は急速に下がり、無数の氷の粒が浮かび上がる、それは瞬く間に鋭い針のように成長し、その矛先は一斉に獣へと向けられた。
「グァアアアア!」
 夥しい数の氷の針に貫かれ、獣は耳を劈くような咆哮を上げた。僅かに間を置いて、その身体が傾ぐ。その隙を見てゼキアが獣を押し返し、体勢を立て直す。しかし彼が止めを刺すまでもなく、獣はそのまま地に倒れ動かなくなった。やがてその骸は、砂のようにさらさらと崩れていく。
「な、何が起きたの……?」
 跡形も無くなった獣の残骸を見て、呆然とルカが呟く。駆け寄ってきたゼキアもまた、戸惑ったように疑問を口にした。
「今のは、お前か? ルアス」
「えっと……うん」
 頷いたものの、どう釈明したものかとルアスは頭を悩ませた。散々魔力が乏しいと自称し、行動もその通りにしてきた。それが一瞬にして“影”を倒したともなれば、何かを疑いたくなるのも仕方ない。断じて嘘を吐いていたわけでは無いのだが――そうやって言葉選びに苦慮していると、ふと揺れる瑠璃色の髪が目に入った。
「……あ、ルカ!?」
 ぐらり、とルカの身体が傾いたのだ。危うく転倒するかというところで、ゼキアの手が伸びる。
「おい、大丈夫か?」
「……うん、大丈夫みたい。ちょっと目眩がしただけ」
 ルカは何度か目を瞬かせると、しっかりと自分の足で身体を支えた。どうやら大事は無いらしい。しかし、ルアスの胸には後ろめたさが残った。
「ごめんね、上手く加減出来なかったから……」
「え? なんでルアスが謝るの?」
 思わず漏れ出た言葉に、ルカは首を傾げる。そういえば自分が何も詳細を話していないことに気付き、ルアスは苦笑した。
「ここで長話してたらまた別の“影”が出てくるかもしれないし、一旦家に戻ろうよ……それから、ちゃんと説明する」
「……それも、そうだな」
「わかったわ」
 頷いた二人を見て、ルアスは再びごめんね、と呟いた。今まで黙っていたことへの謝罪と、約束を破って話すことの謝罪を、全て込めて。

   ※

 誰も居なくなった貧民街の路地を、一陣の風が吹き抜けた。叩きつけるような突風は、砂埃を舞い上げ、民家の窓を軋ませ、辺りをどこか陰鬱な色へ染めていく。その有り様は、まるで街が溜め息を吐いているかのようだった。
 地面に打ち遣られたままの獣の骸もまた、その風の洗礼を受けた。砂塵と化した身体はあっという間に吹き飛ばされて散々になり、もはや見る影も無い。
 しかし、獣の精神は死んではいなかった。崩れ落ち砂となったその一粒一粒に、僅かながらに獣の思念は残されていた。既に自我とも呼べぬほどの微かな意思で、かつて獣であった砂粒は風を掴む。自力で動くことさえ叶わぬ身となっても、帰らねばならなかった。帰って、成すべきことがあるのだから。
 風に委ねられた砂礫は、更にその形を削られていく。幾度も幾度も風に吹かれては地に落ちる。ひたすらにそれを繰り返した。やがて百度目の反復を数えようかという時、砂粒は地面のヒビから地下へと落下した。閉ざされた暗い空間は、湿り気のある、淀んだ空気に満ちていた。ここにはもう、風はない。これ以上動くことは出来ない。しかし砂粒に宿った意思は絶望することはなかった。まさに、求めていた場所に辿り着いたからだ。
「――やぁ、お帰り。首尾はどうだったかな?」
 日の差すことの無い深い闇の中に、一人の男が佇んでいた。その存在に、獣の残滓は歓喜した。これで、役目を全う出来る。誘われるように伸ばされた男の掌に飛び込むと、獣は自らが知り得た全てを伝えた。
「……そう。そんな所に居たんだね」
 飼い犬からの手土産に、男はほくそ笑む。そして、ふと思い出したように獣の労を労った。
「お疲れ様。あとは私に任せて、休むといいよ」
 その言葉で、獣は深く安堵した。もう、大丈夫だ。彼が我らの悲願を成し遂げてくれるだろう。そう確信した瞬間に、獣の意識は闇の中へと葬られた。今度こそ、ひと欠片も残さずに。
 男はしばらく無言でいたかと思うと、掌に残った砂粒を握りしめ静かに俯いた。しかし、その表情からは悲哀や哀悼は窺えない。寧ろ、愉悦さえ感じさせるものだった。
「――ああ、もうすぐだ」
 どこか恍惚と、男は呟いた。その唇は自然と三日月に歪む。それだけに留まらず、やがて男は声を上げて笑い出した。何もない空間で、男の声だけが高らかに響き渡る。同意する者も相槌を打つ者も居ない中、それでも男の笑い声は止むことはなかった。ようやくそれが収まった頃、男の意識は地上へと向かっていた。
「さぁ、迎えに行かなくてはね。私の可愛い教え子を」
 その台詞を最後に、男の姿もまた闇の中から掻き消えたのだった。

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