ひそやかに揺れる 5

 痩せ細って皺だらけの、けれど優しく暖かい手が頭を撫でた。
「いいかい、坊や。よぉくお聞き」
 酷くしわがれた声で、老婆は語りかける。古びた木椅子に腰掛ける彼女の傍らには、頼り無さげにランプの炎が揺れていた。ベッドでシーツに包まった自分の髪を梳きながら、彼女はいつも同じ話をする。
「坊やが持っている力はね、特別なんだ。簡単に人に言ってはいけないよ。悪い人に利用されでもしたら大変だらね。坊やが本当に信頼出来ると思った人にだけ話すんだよ」
 老婆の手の温もりを感じながら、わかってるよ、と答える。わかってる、何回も何回も聞いたよと、目を擦りながら。そんなことより、そろそろ起きているのが辛い。先程から何度瞼を閉じそうになっただろう。老婆の話を聞くより、睡魔と戦う方にばかり意識が向いていた気がする。
 そんな自分の心中を察したのか、老婆は苦笑する。
「そうかい? ならいいんだけどね……本当に、頼むよ」
 その言葉と共に部屋の灯火が揺らめき、暗闇が訪れた。老婆がランプを消したのだろう。ただでさえ限界に近かった自分の意識は、闇に誘われるままあっという間に眠りへと落ちていった。不安を押し殺すような老婆の言葉など、ろくに聞きもせず。

 傍に置いていたランプの火が、瞬くように揺れる。その光に眼球を刺激され、ルアスは緩やかに目を覚ました。
「いけない、寝ちゃってたかな」
 目を瞬かせ、頬杖をついたままだった姿勢を正す。ふと窓の外に目を遣ると、藍と茜が入り交じる空が見えた。そろそろ夜が近い。
「ゼキア、遅いなぁ」
 溜め息を吐きながら、ルアスは室内へと視線を戻した。家主である青年の帰りが、随分と遅い。いつもなら出掛けても夕暮れ時には戻って来るというのに、今は既に宵の口だ。帰ってくる気配すら無いというのは、どうもおかしい。
 ――いや、一度は戻って来たのだろう。玄関に買い物の後と思われる荷物が置いてあるのを見た。しかし、肝心の青年の姿が無いのだ。
「せめて置き手紙でも書いといてくれればいいのに……」
 静寂が、辛い。思えば夜を一人で過ごすのは初めてかもしれない。薄暗い部屋が妙に心細く、早めにランプを灯した。昔から、ランプの炎を見ていると落ち着いた。どこか覚束ない、それでも確かな暖かさが、遠い記憶に重なるからだろうか。ゼキアがいれば『まだ明るい』と怒られたかもしれないが、生憎この場に彼は居ない。そもそも居ればこんなに不安に駆られることもなかった筈だ。一人で居ることが心許ないというのもあるが、それ以上にゼキアの身が心配だった。何かあったのだろうか。彼のことだ。迂闊で貧弱な自分とは違って、危険な状況に陥ることはそうそう無いだろう。だからといって、絶対に無事だという保証もないのだ。特に、貧民街の夜では。
「あーもう早く帰ってこいよ! 何やってんだゼキアの馬鹿!」
 無言で思考することに耐え兼ねて叫んだ、その時だった。
「……帰ってきて早々に馬鹿とは言ってくれるなぁ、おい」
 扉が開く音と共に、げんなりしたような声が部屋に響く。言葉を発したのは、紛れもなくゼキアその人だった。
「ゼキア! 遅いよ、何して――」
 文句の一つでも言ってやろうと勢いよく振り返るが、ルアスは途中でそれを飲み込んだ。ゼキアの背後に、予想外の人物を見つけたからだ。
「……ルカ? どうしたの?」
 なぜ此所にいるのかというより、ルカの出で立ちに疑問を覚えルアスは問い掛けた。彼女の簡素だが上等な造りの服は泥まみれで、手や顔には擦り傷も出来ている。衣服にも所々血が滲んでいるのが判った。どう見てもただ街を歩いてきたという様相ではない。しかしルカは質問に答えることはせず、困ったように苦笑する。
「何があったの?」
 説明を求め、ルアスはゼキアに目線を移した。よくよく見れば、ルカだけでなく彼の服も土で汚れている。
「あー……悪者に浚われたお姫様の救出劇、かな」
「……は?」
 肩を竦めてゼキアが口にした台詞に、ルアスは咄嗟に間抜けな声を上げることしか出来なかった。

   ※

「まったく! 遅い遅いと思ったら!」
 ルアスは憤慨していた。ここまで声を荒げるのも珍しいと、自分でも思う。何故そこまで怒りを露にしているかというと、ゼキアが語った今日の出来事のせいである。
「北の森だって? しかも“影”に襲われて怪我したって? どういうことだよもう……ほら、そっちの手も出して!」
「あはは……」
 文句はしっかり言いながらも、苦笑するルカの腕に手を翳す。間を置かず現れた癒しの光は、着実にルカの皮膚を元の状態に戻していった。数こそ多いが、幸いにも浅い傷ばかりだ。ひとつひとつの治療にさほど時間は掛からない。あらかた話を聞き終えた頃には、目立った場所の傷は殆ど癒えていた。
「――はい、終わり。無茶ばっかりしないでよね」
「……主に無茶してたのはそいつだけどな」
 一通り仕事を終えたルアスの横で、ひっそりとゼキアがぼやく。小さいながらもその声は非常に冷ややかで、彼の苛立ちが顕著に現れていた。余程ルカの言動に許せないものがあったらしく、ゼキアの口からはしばしば棘のある言葉が飛び出していた。
「あら、最初に森に行くって言い出したのは貴方でしょ」
 しかし、ルカも負けてはいなかった。ゼキアの吐いた毒など歯牙にも掛けず、彼女は飄々と反論する。それが余計に彼の神経を逆撫でしたらしく、ゼキアは口元を引き攣らせた。
「お前が無理に着いてきたんだろ」
「ちゃんと許可は取ったじゃないの」
 一触即発、である。このギスギスとした空気も、いい加減に居心地が悪い。こちらは何かあったのではと身を切られるような思いで心配していたというのに、帰って来てまで気を遣わせないで欲しい。今にも言い合いに発展しそうな二人を前に、ルアスの堪忍袋もそろそろ限界が近づいていた。
「あれはお前が――」
「あーもう、そんなのどうでもいいよ! こっちがどんだけ心配してたと思ってんの!」
 更に言い返そうとしていたゼキアを遮り、ついにルアスは叫んだ。勢い余って叩いたテーブルの位置が歪んだが、気にするまい。二人が口を噤んだのを確認すると、ルアスは一気に捲し立てた。
「どっちが悪かったとか、子供の喧嘩じゃないんだから! それにね、ルカも気を付けなきゃいけなかったかもしれないけど、ゼキアもどうしたの! そんなにねちねちと!」
 指摘されると、ゼキアは気まずそうに目を逸らした。自分でも、感情を制御しきれていないことに気付いているのかもしれない。
 そう、普段の彼なら、こんな風に相手の落ち度をだしに傷付けるような言い方はしないのだ。面倒臭がりながらもきちんと諭して、後腐れのない接し方をしてくれる。それは自分や、周りとの関わり方を見ていれば解ることだ。しかし今は必要以上にルカを責めている気がしてならなかった。確かに、ルカの行動は軽率だったのかもしれない。だが、どうせ彼なら一人でもその少女を助けていた筈だ。それはゼキア自身がよく理解しているだろうし、それだけに先程からの様子に違和感を覚えて仕方がなかった。
「……とにかく、今回はこれぐらいで済んだから良かったけど、気を付けてよ。ゼキアも、ルカも」
 諌めるように、そう付け加える。二人とも不服を唱えることこそ無かったが、無言のままだった。お互いに視線を外したまま、室内に息苦しい沈黙が流れる。しばらく経って、先に折れたのはゼキアの方だった。
「……解った、言い過ぎたのは認める。悪かったよ。ルアスにも心配かけた」
 苦々しげなその表情から見て、ルアスの言葉に完全に得心がいったわけではないのだろう。それでも一応は謝意を示したゼキアに、ルカの態度もいくらか軟化する。
「私も、色々迷惑かけたわ……ごめんなさい」
「分かれば、いい」
 ルカの謝罪の言葉に、ゼキアはぶっきらぼうにそう返した。とりあえず、この場は和解してくれる気になったらしい。その様子に、ようやくルアスは緊張を解くことができた。ゆっくりと息を吐くと、強ばった身体から少しずつ力が抜けていくのが分かった。ルアスから見れば、ゼキアもルカも恩人である。その二人の折り合いが悪いのは、決して喜ばしいことではないのである。
「本当にもう! 次は怪我したって治療してあげないんだからね」
「うーん、それは不味いわねぇ」
 冗談めかして言った台詞に、ルカが笑う。心なしか空気が和んだかに思えた、その時のことだ。がたん、という不審な物音が聞こえた。玄関の方からである。
「……なんだろう?」
 風で扉が軋んだか。しかし、それにしては妙な音である。もっと低く、鈍い音だ。荒っぽくノックしているようにも聞こえる。
「お客さんじゃないの?」
「だとしたらロクなもんじゃねぇな。まともな人間がこんな時間に来ると思うか?」
 きょとんとするルカの疑問には、ゼキアが応えた。外は既に暗い。夜に貧民街を出歩くなど、辺りを根城にする賊の類いぐらいなものか。そんな客の訪問は是が非でも遠慮したい。彼は警戒するように玄関を睨むと、手元に剣を引き寄せた。
「……それも、そうね。この辺りは危ないのがうようよしてるんだった」
 一瞬考え込んだ後ルカも状況を理解したらしい。愛剣に手を添え、同じように扉に目を向けた。こちらが訝しむ間にも、物音は続いている。ノック、ではない。何かが重いものが繰り返し扉にぶつかっている。断続的に衝撃を与えられた扉は、元の建て付けの悪さも相俟って徐々に留め金が歪んでいく。その合間には、種類の違う音も混ざり始めていた――がりがりと、まるで獣が爪を研ぐような。
「――冗談だろ?」
 ゼキアが何かを察したようだったが、彼が何か言うより相手の方が早かった。落雷のような轟音を伴い、扉は内側へと破られた。同時に、室内に飛び込んで来るものがあった。無惨に破砕された残骸の上に降り立った、黒い塊。それは埃を払うように頭を振りかぶると、目的の
対象へと視線を投げかける――その黒い眼差しと、目が合った。

コメント