ひそやかに揺れる 3

 それからの帰り道、会話らしい会話は殆どしなかった。半歩後ろを付いて歩くルカはどこか上の空で、市場ではしゃいでいた時とは別人かと思うほどに静かだった。別段一緒に帰る必要は無いのだから、さっさと追い返してもよかったのかもしれない。しかし、ルカのあまりにも意気消沈した様子を見てはきつく当たるのも躊躇われ、結局気付いた時には家の前だった。
「おーい、ルアス! いるか?」
 玄関の扉を開けて呼び掛ける。返答はない。ルアスはまだ戻ってきていないようだ。恐らく子供達に捕まっているのだろう。彼の不在を見て、ゼキアは背後を振り返った。
「見ての通りルアスはまだ戻らないみたいだが、どうするんだ? また”影“に遭遇したくないなら、早めに帰った方がいいぞ」
 どことなく気まずい思いを振り切って、ルカヘそう尋ねた。まだ日は明るい。道中“影”が出るようなことはまずないだろうが、それでも常に気がかりなことであるのは確かだ。用心するに越したことはない。それに、もし再び襲われるような事があったとしても、また助けてやれるとは限らないのである。
「……うん。今日のところは帰る。また今度、出直すわ」
 意外にも、ルカはあっさりと首を縦に振った。朝の強引さを考えるとなんだかんだと居座りそうな気がしていたので、思わずゼキアはルカの顔をまじまじと見返した。
「なによ、その反応。私そんなにおかしなこと言った?」
 言いながら、ルカは拗ねたように腰に手を当てた。先程からの微妙な空気に居心地の悪さを感じていたかと思いきや、溌剌さを失っていない瞳を見るとそうでもなかったらしい。落ち込んでいたと思ったのは勘違いだったのか、それとも立ち直りが早いのか。
「……あー、なんでもねぇよ。気をつけて帰れよ」
 いずれにせよ、ここで気が変わられては堪らない。誤魔化すように咳払いをすると、幸いルカは「はぁい」と短く応えて背を向けた。しかし、二、三歩進んだ所で足が止まる。
「なんだ、まだ何かあるのか?」
 ゼキアの問い掛けには答えず、ルカは無言で頭を振る。暫くしてルカは、呆然と前方を見つめたまま呟いた。
「あの子、さっきの……」
 ルカの視線の先を追うと、家の前の道に子供が佇んでいた。ボロボロの服の裾を握りしめてこちらを睨み付けている姿は、紛れもなく街で出会った物取りの少女である。
「貧民街に何でも屋を開いてる変人が居るって聞いて来たの。あんた達だったのね」
「……変人とは失礼な奴だな。あとこいつは違うからな」
 少女の発言に訂正を入れながら、ゼキアも前へと歩み出た。
「で、その変人に何の用だ? さっきは逃げただろ」
 あれだけ毒を吐いて去っていったのだ。彼女もわざわざ自分達と関わりたくはあるまい。しかし今ゼキア達の姿を見ても立ち去る様子がないということは、何かしら言いたいことがあるのだろう。用件を促すと、少女は唇を引き結び、苦々しげに目を逸らした。
「それは……」
 それきり少女は口ごもり、何か言うのを躊躇うように口唇を開きかけては止めることを繰り返す。何度目かの
後、彼女は意を決したように顔を上げた。
「頼みがあって来たの。お姉ちゃんを、助けて」
 そう告げた少女の声は、微かに震えていた。よく見れば眼も赤く、泣くのを必死で堪えているようにも見える。あの後、何かあったのだろうか。
「……お姉さんが、どうしたの?」
 気遣うようにルカが屈みこみ、少女に声をかける。今度は少女も癇癪を起こすこともなく、ぽつぽつと事情を語り始めた。
「……あいつ、あのジジイ、追いかけてきたの。上手く逃げたと思ったのに、見つかっちゃって。お姉ちゃんが、私を庇って連れていかれて……!」
 徐々に嗚咽を堪えきれなくなってきたのか、少女の碧眼から次々と涙が溢れ始める。そこから先は言葉にならないようだったが、大体の話は掴めた。大方、少女の代わりに姉を痛め付けることで憂さ晴らしをしようと言うのだろう。とことん腐っている。
 ゼキアは少女の頭を一撫ですると、ルカに習って膝をつき目線を合わせた。
「何処に連れて行かれたかは、判るのか?」
 出来る限り穏やかに問い掛けると、少女は小さく頷いた。
「多分、北の森だと思う。森の魔物の餌にしてやるって、馬に載せて連れて行かれたから……他の商人達も一緒だった」
「北の森、な……」
 少女が口にした場所を、ゼキアは忌々しげに繰り返した。
 北の森とは、その名の通りイフェスの北に広がる森の通称だ。そして、王都の住人が恐れる森のことでもあった。街の人間は、進んでこの森には行きたがらない。狩りを目的としたり、木材を求める人々の出入りもあるにはあるが、それもごく浅い場所での話だ。少し奥へと踏み入れば鬱蒼とした木々が陽光を遮り、昼間でも足元が覚束無い。つまりは、闇を好む魔物――“影”どもの巣窟なのである。その昔は罪人を魔物に食わせて処刑していた、などという逸話も残る地である。近付きたがる人間がいるはずもない。特に最近は“影”が増えているという噂も聞く。もし少女が一人で放り出されては、ひとたまりもないだろう。
「――もちろん、タダでやってくれなんて言わないから! ちゃんと、お金渡すから……!」
 ゼキアの沈黙を躊躇しているものと受け取ったのか、焦ったように少女は畳み掛ける。言下に懐をまさぐると、彼女はずい、とゼキアの前に革袋を差し出した。
「あ、それ私の財布!」
 それを見たルカが声を上げた。やはり犯人は彼女だったらしい。多少非難するような口調になってしまうのは仕方のないことだろうが、それが気に食わなかったらしい少女はルカを思い切りねめつけた。
「どうせあんた達はこれ以外にも物もお金も持ってるでしょ!? 拾ったんだから、もう私のものよ! だから対価はこれなの。私には差し出せるものなんてこれしかない……!」
 濡れた瞳で訴える少女の切実な声に、ルカがそれ以上声をかけることはなかった。代わりに、何か言いたげにゼキアを横目で見る。なんとなくその意味は想像出来たので、いちいち返事はしない。言われなくても、元からそのつもりだ。
「お前、名前はなんていうんだ?」
「……ウィッシュ」
 躊躇いがちに答えた少女の手から、ゼキアはそっと革袋を受け取った。
「ウィッシュ、な。この通り、代金は受け取った。姉さんは必ず探してきてやるから、お前は先に帰ってろ。な?」
「……ほんとう? 本当に、お姉ちゃん助けてくれる?」
 不安が拭いきれないのか、少女は縋るように繰り返す。彼女が少しでも安心出来るよう、ゼキアは鷹揚に頷いてみせた。
「よろず屋ライトランプ、屋根の修理から“影”退治まで……ってのが売り文句でな。腕にはそこそこ自信があるんだ。これぐらい朝飯前だって! あと、金ぼったくる気もないから安心しろよ」
 言いながら軽く胸を叩くと、ようやく少女は小さく首を縦に振った。恐る恐るといった様子ではあるが、一応信用する気になったようだ。
「……お姉ちゃんに、いつものねぐらで待ってるからって伝えて。絶対に、頼んだからね!」
 早口にそう言付けると、少女は駆け足で来た道を戻って行った。ねぐらとやらに戻るのだろう。その後ろ姿を見送ると、ゼキアは持っていた財布をルカの手に押し付けた。
「そういうことだから、俺はまた出掛ける。これは返しといてやるから、お前はさっさと帰れ」
 言い終えるなり、ゼキアはルカを置いて歩き出そうとした――が、残念ながらそれは失敗に終わる。
「ちょっと待って。私も行く」
 彼女は目敏く気配を察してゼキアの腕を掴むと、きっぱりとそう宣言した。
 ――まったくもって予想通りの展開過ぎて、頭が痛い。
「お前な、この前の事もあるんだから少しは懲りろよ……危険なことぐらい解るだろ」
 恐らく自分は今、相当渋い顔をしていることだろう。露骨に呆れ返った声で諌めようとはしてみるものの、ルカは怯まなかった。
「解ってるわよ。でもあの子の事に最初に首突っ込んだのは私なんだし、私が行くのが筋でしょ」
 それに、とルカは今しがた取り戻したばかりの財布をちらつかせた。
「これは代金、でしょ。私も受け取ったからね。危険なら尚更戦力は必要じゃない?」
 勝ち誇ったかのようにルカは言う。瞬きもせずに自分を射貫く視線に、ゼキアは確信した。これはなにがなんでも着いてくる気だ。
「……自分の身は、自分で守れよ」
 暫しの逡巡の後、ゼキアは諦めの溜息と共にそう告げた。勝手に来られるよりは、目の届く範囲に居てくれる方がいくらかましだ。それに、問答している時間も惜しい。
「ええ、もちろん。さぁ、急ぎましょ」
「……頼むぞ、本当に」
 幸い、日暮れというにはまだ早い。北の森は徒歩でもそう遠くはないので、首尾よくいけば夜までには街に戻れるはずだ。満足気に頷くルカに一抹の不安を抱えながらも、ゼキアは道を急ぎ始めるのだった。

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