ひそやかに揺れる 4

 街の北門を抜けて更に北東、駆け足なら数刻程度の場所に、北の森はある。全力で街道を走り抜けたゼキア達は、程無く森の中へと足を踏み入れていた。追っている相手は既に先を行っている。森に入るまでに見付けられるのが最善だったが、どうやら相手は馬を使っているようだ。腐葉土に残った蹄の跡は、着実に森の深部へと向かっていた。
「ねぇ、ここまで来ると、かなり暗いのね」
「当たり前だ。だから危ないんだろうが」
 振り返らずに答えながら、ゼキアは周囲に細心の注意を払っていた。確かに、商人達を追う内に随分と深い場所まで来たように思う。森の入口付近は木々の隙間から陽光が注いでいたが、この辺りでは密集した木葉に殆ど遮られてしまっている。明かりを持たずともなんとか歩くことは出来たが、何も装備のない人間が立ち入るのはそろそろ限界だろう。これ以上の暗闇に進むのは、即ち“影”の餌食になることを意味する。 立ち並ぶ背の高い木々の圧迫感と森の静寂は、暗さと相まって物恐ろしさを増幅させた。
「まだ足跡が続いてる。どこまで奥に行ったのかしら……」
「さぁな」
 適当に返事を返しつつも、ゼキアは商人達もそう深い場所までは行かないだろうと踏んでいた。なにしろ、この森は魔物の巣窟だ。誰であろうと危険なことに変わりはない。彼らも、わざわざ“影”の食糧にはなりたくないだろう。ならば適当なところで捕らえた少女だけ置き去りにし、自分達は早々に退散。少女は身動きのとれない状態にしておけば、夜に“影”が勝手に処分してくれる。これが一番無難な流れである。勿論、強引にとことん奥まで進んだ可能性も無くはないが、彼らがそこまで危険を冒す理由はない筈だ。
「――ゼキア、あれ見て」
 唐突に、ルカが足を止めた。釣られてゼキアも立ち止まると、彼女は斜め前方を指差した。
「あそこ。人、よね?」
 そこに見えたのは朧気に光るいくつかの明かりと、それに照らされる人影だった。数は三人、恐らく男。そしてそれより大分小柄な人物がもう一人。
「……間違いなさそうだな」
 この距離と暗さでははっきりとした輪郭は掴めないが、恐らく商人達と連れ去られたウィッシュの姉だろう。どうやら追い付いたようだ。
「早く助けないと……!」
「待てっての。今行っても向こうを逆上させるだけだ。次に何するか解んねぇぞ」
 またもや先走りかけたルカを制し、ゼキアは語気を強めた。ここで強引に少女を助けたとしても、商人達が同じことをやらない可能性はない。ましてや相手は大層ご立腹である。彼らが立ち去った後密かに少女を助けた方が、禍根を残さずに済む。この場で少女に危害を加えようとするなら話は違ってくるが、あちらも森に長居はしたくないだろう。案の定、商人達は少女を縛って地面に転がすと、馬を引いて歩き始めた。
「こっちに来るな。ほら、隠れるぞ」
「……う、うん」
 言われた言葉に思うところがあったのか、今度はルカも素直に従った。それに安堵しながら、獣道から脇に逸れ木陰に身を隠す。息を潜め様子を伺うと、男達の話し声が近付いてきた。幸い、こちらに気付いたような素振りはない。そのまま彼らは何事もなくゼキア達の前を通り過ぎる……はずだった。
「おい、何だあれ」
 先頭を歩いていた商人が、頭上を仰ぐ。それに続いて他の商人も仲間の指差す方向を見上げた。
「烏……じゃないな。蝙蝠か?」
 そこに見えたのは、木々の枝に密集する黒い生き物だった。別段、蝙蝠など珍しくはない。ただ、その様相はあまりに異様だった。夥しい数の蝙蝠は一匹たりとも違わず、虚空のようなどこまでも暗い瞳で、商人達を狙い澄ましていた。例えるなら、獰猛な捕食者のように。そう、あれは蝙蝠などではない。
「――か、“影”だ! 逃げろ!」
 勘の良い者が叫んだ。それを合図にしたように、“影”達は一斉に不愉快な鳴き声を上げ飛び立った。無数の蝙蝠は、商人達を目掛け急降下する。
「う、うわぁああ!」
 標的となった男達は、情けなく叫びながらも手にしたランプを振り回し応戦する。それが功を奏したか、“影”の群れは波が引くように一瞬身を引いた。光を恐れたのだろう。その隙を突き、商人達は慌てて馬に飛び乗った。
「早く! 早くしろ!」
 蝙蝠達は再び狙いを定めるが、襲いかかるより商人達の逃げ足の方が早い。馬の嘶きと共に、商人達はあっという間に木々の向こうへと姿を消してしまった。惜しくも三人の男を取り逃がした“影”達は、諦めたように散々になっていく――否、それはまったくの見当違いだった。
 身を翻した無数の蝙蝠は、再び宙で群れをなす。再度、攻撃の体勢を整えているのだ。もっと、狩りやすい獲物を見付けたのである。
「――いけない!」
 最初に動いたのはルカだった。蝙蝠達と競うように横たわる少女に向かって突進する。辛うじて先に辿り着くことに成功すると、ルカは覆い被さるようにして少女の身を庇った。
 その姿に、“影”は金切り声を上げ歓喜した。彼らにしてみれば、無防備な餌が増えたにすぎないのだ。
「あいつ、また先走りやがって!」
 ゼキアは一つ舌打ちすると、ルカの後を追った。“影”は遅れてきたゼキアになど目もくれず、次々と二人へ群がっていく。それを払うべく、ゼキアは腰から剣を抜き一閃する。切りつけられたいくらかの蝙蝠が地に落ちるが、全ての相手をするのはいくらなんでも無理がある。この森林地帯で炎を使うのは抵抗があるが――。
「くそ、仕方ねぇ」
 多少の危険は伴うが、仕方ない。そう腹を括り、ゼキアは眼前に剣を横に構えて意識を集中した。下手をすれば木々に燃え移り大火事だ。いつも以上に厳密に魔力を調整する必要がある。いつもは勘に任せているその過程を、緻密に仕上げていく。
「……多少熱くても我慢しろよ!」
 出来た。その瞬間、ゼキアはゼキアは空を薙ぎ払った。切っ先から炎が迸る。生み出された灼熱は黒い塊を飲み込み、魔の物だけを食い尽くしていく。鬱陶しく周りを飛び交う数匹は、直接切り落とした。大半の蝙蝠が塵となる頃には、残った僅かなもの達も散々に飛び去っていった。残されたのは、地面にうずくまった人間が二人。
「おい、無事か!」
 “影”の脅威が消え去ったことを確かめると、ゼキアは駆け足でそこに向かう。屈み込んで声を掛けると、少し間を置いてルカが反応を示した。
「……ええ、お陰でなんとか大丈夫みたい。なんかあちこち齧られたみたいだけど」
 いたた、と小さく呻きながら、ルカは身を起こした。本人の言う通り衣服に所々血が滲んでいたが、大きな怪我は無いようだ。その様子にゼキアは一先ず安堵すると、次に倒れたままの少女へ目を向けた。
「大丈夫? しっかりして」
 すぐ傍にいたルカが、先に声をかける。軽く身体を揺さぶられた少女は微かに呻き声を漏らし、瞼をぴくりと動かした。気を失ってはいるが、見たところ外傷は殆ど無い。どうやら安心しても良さそうだ。その反応にルカも息をつく。
「とりあえずは大丈夫そうだな。あとは、これ外してやらねぇと」
 少女の無事を確認出来たところで、ゼキアはその四肢を縛っている縄を外しにかかった。限界まできつく結ばれた縄は手で解けるようなものではなく、皮膚を傷つけないよう慎重に剣で断ち切っていく。全ての縄が取り払われた頃には、少女も意識を取り戻していた。
「――誰、あんた達。さっきの奴らの仲間?」
 彼女が眼を開けて放った第一声は、こちらを訝しむものだった。咄嗟に距離を取ろうとしたのか、少女はゼキアの手を振り払い身を捩ろうとする。しかし殆どそれは叶わないまま、顔をしかめ動きを止めた。打ち付けた身体がまだ痛むのだろう。
「急に動かない方がいい。さっきの奴らとは関係ねぇよ、俺達はウィッシュに頼まれて来たんだ」
「……ウィッシュに?」
 その名前を聞いて、 少女は軽く目を見張った。ウィッシュを知っていると言うことは、やはり彼女が探していた人物で間違いないらしい。
 ――らしい、という語尾なのは、姉妹であるらしい二人の容姿が似ても似つかないからである。十五、六歳に見える少女の髪は金色だったがかなり赤みが強く、ウィッシュの金髪とはまるで違う。榛色をした眼は釣り上がり、ウィッシュと比べてると全体的にきつい印象を受けた。
「ええと、ウィッシュのお姉さん……で間違いないわよね?」
 少女を見て感じたことは同じなのだろう、ルカが確認するようにそう訊ねる。少女の方もそれに感づいたのだろう、ゼキア達の疑問にぶっきらぼうに答えをくれた。
「……本当の姉妹じゃないわ。何となく面倒見てたら懐かれて、何となく一緒にいるだけ。あの子が勝手に姉って呼んでるのよ」
「そう、だったの」
 家無し同士の疑似家族、といったところか。貧民街ではままあることだが、ルカは戸惑いがちに言葉を返す。貧しさと縁遠い彼女には、思い至らない事だったのだろう。そんなルカに目をやりながら、少女は気怠げに身を起こした。
「そういえば、ありがた迷惑なお節介連中がいた、なんて言ってたけど。あんた達のこと?」
「……ありがた迷惑……」
 苦々しげに呻いたルカを見て、少女は失笑する。
「だってそうでしょ? あんた達が手出したせいであいつらが余計に逆上したんじゃない。これが迷惑じゃなければなんだっていうの?」
 堰を切ったように、少女の口からは次々と怨言が溢れ出していく。こちらが口を挟む隙もにない勢いである。
「そっちは良いことしたつもりでさぞやいい気分だろうけど、こっちはたまったもんじゃないわよ。なんであんた達の自己満足のダシにされなきゃならないんだか。ふざけないでよね!」
 最後は殆ど叫ぶように言い切ると、少女は息をつき瞳を逸らした。暫しの間、その場を沈黙が支配する。あれだけ感情的だったルカも、黙りこくって俯いているだけだった。少々気味が悪いほどだ。ゼキアとしては下手に少女を刺激するよりその方がよかったのだが――奇妙に思っていると、ルカがようやくぽつりと声を漏らした。
「ごめん、ね」
 ――予想だにしなかった言葉に面食らったのは、何もゼキアだけではなかった。絶え間なく喋り続けていた口を噤み、少女は目を丸くする。その場しのぎではない、真摯な謝罪なのだと、直感的に解ってしまったから尚更だ。
「……謝って、それでどうしようっていうの? 許す気なんて無いし、あんた達は私達がどう思ってようと平気でしょ? どうせ私達のことゴミクズくらいにしか思ってないんだから!」
 一瞬、答えに窮したかに見えた少女だったが、すぐに口撃を再開した。しかしよく聞けば内容はこちらを攻めるものから己の境遇を卑下するものへと変わっており、少女の眦にはうっすらと涙が滲んでいた。
 ゼキアには、なんとなく彼女の心境が理解できるような気がした。謝られたからといって、解り合えるとでも思うのか。ならばこの怒りを、嘆きを、どこへぶつけろと言うのか、と。
「……とにかく、もう私達には関わらないで! 不愉快よ! じゃあね!」
 溢れそうになる滴を手で拭い、少女はそれだけ言い捨て駆け出そうとした。それを制したのはルカである。
「待って! ……名前、教えてもらえる?」
「……はぁ? あんた何聞いてたのよ。私、関わるなって言わなかった?」
 不機嫌を隠そうともせず、少女は思い切り顔をしかめた。だがルカは引き下がらない。
「ちゃんと聴いてたわよ、解ってる。ただ、知っておきたいだけだから」
 だからお願い、と懇願するルカを不躾に見返しながら、少女は面倒臭そうに口を開いた。
「……ホープよ」
「ホープ……そう、良い名前だわ」
「もういいでしょ。今度こそさよなら!」
 これ以上引き留められたくなかったのだろう、言い終えるかどうかのところで少女は既に駆け出し、あっという間に木々の向こうへと消えてしまった。
 伸ばしかけていた手を握りしめ、ルカは小さく呟く。
「……行っちゃった」
 それ以上何を言うわけでもなく、ルカは少女が去っていった方向をただ見詰めていた。そのまま微動だにしない彼女を、ゼキアは横からせっつく。
「俺たちも行くぞ。もう用は済んだんだ」
「うん……」
 返事をしながらも、ルカの瞳はこちらを見ない。目くじらを立てて騒がないだけ、市場の時よりは冷静なのかもしれないが再び暴走されては敵わないとゼキアは語気を強めて釘を刺す。
「もういいだろ。ただでさえ貧民層は街の奴等に良い感情は持ってないし、あいつらもそうなのは解っただろ。感謝されたいなら無理だ、諦めろ」
 ルカも流石にこれ以上深追いする気は無かったのか、黙ったままそれに首肯する。
「だったら、さっさと――」
「あのね」
 さっさとしろ、と言いかけたゼキアを制するようにルカは口を開いた。だが人の言葉を遮っておきながら、彼女はまたも押し黙る。
「……なんだよ」
 言い渋るルカに苛立ちを隠そうともせず、ゼキアは先を促した。騒がれるのも困るが、先程からぐずぐずしているのも鬱陶しい。ゼキアの心情を察しているかどうかは定かではないが、ようやくルカ続きを語り始めた。
「……私、何も知らなかったのね。街の治安が良くないのも、貧富の差があるのも知識はあったけど、全然実際のこと解ってなかった。たとえ貧民街でも街中で“影”に襲われるなんて思わなかったし、街の人同士であんな諍いがあるのも知らなかった」
「そりゃあそうだろうな。お前の場合それで不都合は無いだろうし」
 別段、不思議なことではない。知識があったならまだ良い方だ。彼女がどこの富豪の令嬢かは知らないが、きっと街の暗部に晒されぬよう大事にされてきたのだろう。そんな人物が負の感情を伴ったイフェスを初めて見たならば、衝撃を受けるというのも理解できる。ましてや“影”については、貧民街に住んでいるのでもなければ殆どの者は縁が無いのだ。知らないのは当然だろう。だからこそ、感覚が噛み合わなくて彼女の言動が気に障る。そうやって善人面できるのは、お前がなにも知らないからだ――何度、そんな台詞が喉元まで出かかったことか。皆まで言わずとも、言葉の端々に含まれる棘は隠せない。
 ルカもそれに気付かないわけではないのだろうが、彼女は特に憤慨するでもなく淡々と話し続けた。
「私ね、イフェスが好きよ。生まれ育った街だもの。何を見てもそれは多分変わらないわ。でも、その大好きな街の人達が傷付け合っているのは嫌。だから、少しでもなんとかしたかった」
 大きく息を吐くと、ルカはそれきり黙り込んだ。だが彼女がいくら肩を落とそうと、慰めてやる気など起きない。逆に嘲笑ってやりたいくらいだった。彼女が言っているのは夢見事である。街の誰しもが現状に慣れきっていて、それが当たり前の日常だ。誰も日常を壊したいなどと思わない。必ず解り合えると理想を語った者も知っていたが、結局は裏切った。それを目の当たりにしてきた以上、ルカの言葉を真に受けようとは思わない――そんなものは、幻想だ。
「そりゃあお優しいことで。で、結果は?」
「……散々ね。結局、私は何もできないんだわ」
 自棄気味に吐かれたルカの台詞を聞き、ゼキアの胸中を諦念が占拠していく。そうだ、どうせ何も変わることはない。
「……どうすれば、いいのかなぁ」
「さぁな、俺に聞くなよ。好きにすればいいだろ」
 現状が続くだけなら、事を荒立てることなく過ごせればそれでいい。そう思っているからこそ、深く考えることもなくルカに適当な言葉を返した。何をしようが同じなのだから、関係ない――そういった、投げ遣りな気持ちを込めて。しかし、それは意外な方向へ彼女の心を動かしたようだった。
「好きに、ねぇ……」
 そう繰り返しながら、ルカは肩を落とした。その横顔は塞ぎ込んでしまったかのようにも見えたが、やがて顔を上げたルカはきっぱりとこう言った。
「うん、やっぱり解り合えるようにしたい。その為に何かしたいわ」
「……楽観的というかなんというか、本当に懲りない奴だな」
 まだ、そんなことを口にするというのか。ルカの発言に呆れ返り、ゼキアはひっそりとそうごちた。それを耳聡く聞き付けたらしいルカが、鋭くゼキアを睨む。
「諦めたら何も変わらないままでしょ! 私だけじゃどうにもならなくても、私が知って誰かに伝えれば変わることもあるかもしれないじゃないの! だったら行動するわよ!」
 ――綺麗事を言うな。そう一蹴してやろうと思ったのに、何故かゼキアの喉は音を発してはくれなかった。ルカの視線が、あまりにも真摯にゼキアを射貫いていたせいだ。そこには悪意も偽善も無い。その瑠璃色の瞳は僅かな濁りさえも見せずに輝き、ひたすらに真っ直ぐな感情をゼキアに伝えていた。彼女は、至って本気だ。認めたくなくても、それが解ってしまった。
「そういうことだから、相互理解を深めるために貴方のお店にもまたお邪魔するわ。よろしくね」
 たじろぐ間にも、ルカは何やら勝手な事を口にする。
「……迷惑だ」
「さぁ、答えも出たことだし帰りましょうか」
 ようやく絞り出した声も、まるで無視である。流石に苛立ちを覚えた直後、ルカの腕に滲んだ血を見つけてゼキアは顔をしかめた。
「……傷」
「え?」
「怪我、したんだろ。仕方ないから寄っていけ。ルアスも戻ってるだろうし」
 相手に乗せられているようで面白くないが、怪我をさせたままでも寝覚めが悪い。それだけ告げると、ゼキアは目線を逸らして歩き始めた。背後で小さく笑う気配がしたが、振り返ることはしなかった。
「そうさせて貰うわ。あ、そういえばさっきの姉妹の名前ね」
 半歩後ろを歩きながら、ルカが思い出したように口を開いた。
「遠い国の言葉でね、“希望”と“願い”って意味なのよ。素敵な名前を貰ったのね……きっとあの子達だって、何も持ってないわけじゃないと思うわ」
「希望と願い、ね……」
 二人の少女を思い浮かべながら、ゼキアは小さく繰り返した。その名の意味を噛み締めながら思う――まだ、自分の中にもそれは燻っているのだろうか、と。

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