Scar 2

「ねぇねぇ、何か手伝おうか?」
 当然のように台所まで付いてきたかと思えば、そんな申し出を受けた。妙に目が輝いて見えるのはなぜだろうか。
「いらねぇよ。向こうでおとなしくしてろ」
「一人で待ってても退屈だもの。ね、何作るの?」
 素っ気なくあしらおうとしても、彼女には全く通用しなかった。既に食材を前に興味津々である。何を作るかなどと言っても、貧民街の家庭で食卓に上る料理などたかが知れている。日によって多少中身の変わる薄いスープと、固くなったパンが少し。大体がそんなものだ。勿論、ゼキアの家も御多分に漏れず似たようなものだった。裕福な家の令嬢だろうルカの口に合うとはとても思えない。何がそんなに楽しみなのか疑問を覚えずにはいられなかったが、いい加減に彼女の視線に堪えかねゼキアは小振りのナイフを取り出した。
「皮剥き」
 そう一言だけ告げて芋とナイフを押し付けると、ルカは了解、と満足そうに笑みを浮かべた。再び溜め息を吐きそうになるのをなんとか堪え、ゼキアは芋を洗う自分の手元に視線を戻す。どうにも丸め込まれている気がして面白くない。向こうがルアスを味方につけているお陰で、毎回こんな調子だ。そして何より悲しいのは、そんな状況にも慣れつつある自分自身だった。
 ――解ってはいるのだ。自分が意固地になっているだけなのだということは。
 ルカの言動に苛立つのは、彼女が自分達の生活や感情を理解しないままに振る舞ったからだ。その行動が偽善的で独り善がりで、腹が立った。ただ今の彼女もそうなのかといえば、少し違う気がするのだ。少なくとも、ゼキアが指摘したことを悔い改めようとはしているようだった。曰く、相互理解のために。なんの使命感に駆られているのかは知らないが、ルカは真剣そのものだった。それこそ最初はふざけているのかと思ったものの、これだけ張り付かれていれば本気らしいことは伝わってくる。その瞳は、あまりにも真っ直ぐにゼキアを見詰めているのだから。
 しかしそれが解ったところで、簡単に感情の整理がつくものでもなかった。富裕層に虐げられてきた記憶や、それを良しとする市民達への怨恨は根深い。特に頂点たる国王とそれに連なる者への感情は、憎悪と言っていい。怒りや憎しみ、そしてほんの少しの友愛。色々な感情が絡み合って上手く解けず、自分でも彼女への感情をどう表現していいものか戸惑っている。それゆえに、ルカの視線から逃れたくなるのかもしれなかった。自分は、彼女のように真正面から向き合うことは出来ない。
「……ん?」
 物思いに耽りながらも野菜の下拵えを進めていたゼキアだったが、ふと違和感を覚え動きを止めた。皮剥き頼んだこの芋、最初に見た時より小さくはないだろうか。いや、確実に小さい。拳大の円形だったはずの芋はおよそ半分程の大きさになり、形もやたら角張っていた。嫌な予感がする。恐る恐る、ゼキアは隣で作業するルカの手元を見た。すると、案の定である。
「ちょっと待て。俺は皮を剥けと言ったんだが」
「む、剥いてるわよ?」
 図らずも剣呑な響きの宿った問いに、ルカは僅かに動揺の色を見せた。だが返ってきた台詞からして、何を言われているか今ひとつ彼女は理解していないらしい。頭の上に疑問符を浮かべるばかりのルカに向けて、ゼキアは切り落とされた芋の皮を突き付けた。
「これじゃ実ごと切り取ってんじゃねぇか! 道理で小さくなってるはずだよ!」
「で、でも皮は取れてるんだからいいじゃない!」
「よくねぇよ! 食い物を粗末にするなこの罰当たり!」
 ルカの反論を即座に切り捨て、ゼキアは彼女の手から芋を取り上げた。続いて、無言で手を差し出す。ルカは数度目をしばたかせた後、渋々とナイフをゼキアの手へと返した。恐らく、野菜の皮剥きなどやったことが無かったのだろう。流石は良家の令嬢である。そもそも任せようと思ったのが間違いだったのだ。
「全く、出来ないなら最初から言うんじゃねぇよ」
「う……出来ると思ったんだけど、やってみたら意外と難しかったのよ」
 どうやら観念してくれたようではあるが、それでもルカにこの場を立ち去る選択肢は無いようだった。戸口横の壁際に落ち着くと、そのままゼキアの作業を観察し始める。その視線が多少煩わしく感じられたが、邪魔をしないのであれば、とゼキアは放っておくことにした。
「……ねぇ、ゼキアはやっぱり貴族が嫌い?」
 だが手は出さずとも口は出してくるようで、さほど間を置かずに背後から質問が投げ掛けられた。それも、答えるまでもない愚問である。
「そりゃあ、な。貧民街の人間で好きな奴がいると思うか?」
 作業をしながら、ゼキアは淡々と答えを返した。芋の処理が終わり、次は葉物の野菜を刻んでいく。
「貴族というか、国の役職に就いてる奴全般な。本来なら民を守る立場の筈なのに、完全に腐ってやがるからな。重税に苦しめられた挙句、行き場を無くした連中も多いんだ。嫌われるのは当たり前だろ」
「……そっか。やっぱり、そうよね」
 どんな言葉を期待していたかは解らないが、ルカはそう呟いたきり神妙に項垂れ黙り込んだ。噛み付いてこないだけ、以前よりは成長したと思うべきなのだろうか。
 ――決してその姿に心動かされたというわけではないが、ふとゼキアは頭に浮かんだことがあった。ひっそりと持ち出していた、とある物のことである。向こうの調子に飲まれて危うく失念するところだったが、今思い出したなら丁度いいとポケットをまさぐる。
「……それに、害意が無くても色々と首を突っ込んで危険な目に遭いたがる変人もいるしな。お前みたいな」
 言いながら、取り出した物をルカ目掛けて放り投げた。一瞬呆けたような顔をしたルカだったが、すんでのところでそれを手の中に受け止める。
「やる。あまり借りを作ってばっかりなのも癪だからな」
「……これって」
 渡された品物を見たルカが、軽く目を見張ったのが判った。彼女の手にあるのは、いつだかに手渡した『お守り』の改良版である。菱形の木片に、穴を開けて通された赤い紐。基本的な形は変わらないが、表面に彫られた模様のいくつかは以前と違うものになっていた。あれから試行錯誤を重ねた結果、より効果が安定するように組み換えたのである。前回のように持ち主を焦がしかけることもない筈だ。厄介事に関わりたがる彼女に渡しておけば試用の機会もあるだろうし、こちらにとっても好都合である。
「これをくれるということは、つまり私に何かあったら助けてくれるのね?」
「気が向いたらな」
 ぶっきらぼうに答えると、ルカは心底嬉しそうに微笑んだ。その笑顔がどうにもむず痒く、ゼキアは目を逸らして鍋に食材を放り込み始めた。そういった意図じゃないだとか、お前はただの実験台だとか色々と言いたいことはあったものの、早々に会話を打ち切りたくて黙り込む。その後ろで声を殺して笑うルカが忌々しい。
「……あら?」
 出来るだけ彼女を無視して鍋を火にかけようかとした時、不意に玄関から物音が聞こえた気がした。必死に笑いを堪えていたルカが反応したので、聞き間違いではないだろう。次いで、カラン、という安っぽい音が響く。ドアベル代わりに取り付けてある空き缶の音だ。
「お客さんかしらね。私、行ってくる!」
「行ってくるって、おい」
 制止の声は残念ながら届かず、ルカは玄関へと駆けていった。あっという間である。人の話を聞かない彼女の行動に呆れつつも、ゼキアは敢えて勝手にさせておくことにした。どうせ訪問者などたかが知れている。ネルやルピが遊びに来たか、良くて近所の顔見知りだ。ここに入り浸りなお陰で、彼らにもすっかりルカの顔は知れ渡っている。そう慌てることもないだろう。彼女もそのつもりで出て行ったはずだ――そう考えていたゼキアだったが、しばらくして様子がおかしいことに気がついた。台所に途切れ途切れに声が聞こえていたが、それがどこか切羽詰まっているのだ。知り合いと会話を楽しんでいるといった雰囲気ではない。ルカの声に混じって耳に届くのは、低く太い男の声だ。
「……俺も見に行くか」
 こんなボロ屋に押し入り強盗ということもあるまいが、妙に胸がざわついてゼキアは手を止めた。少し様子を見に行って、問題が無さそうなら放っておけばいい。そう結論付けて自身も声の元へ向かい――そして、やはり彼女に関わるべきではなかったのだと後悔した。
「おい、ルカ……」
 呼び掛けようとして、ゼキアは言葉を失った。
 ルカと話し込んでいたのは、灰髪の騎士だった。象牙に金の縁取りの制服、そして胸元に光る紋章は紛れもなくマーシェル騎士団のもの。壮年と見受けられるその男は、歳のわりに引き締まった身体を持った偉丈夫だった。髪と同じ灰の瞳には鋭い光が宿り、渋く歪められた表情と相まってただならぬ威圧感を醸し出していた。放つ空気が、明らかに一介の騎士ではない。これは、人の上に立つ者だけが持っているものだ。騎士、それも位の高い者となれば貧民街を歩くことなど滅多にない。しかし、ゼキアが声を詰まらせた理由はそれだけではなかった。
「あ、あのね、ゼキア」
「――なんで、あんたみたいな奴がこんな所をうろついてんだ? 騎士団長さんよ」
 慌てたように双方を見比べるルカを遮り、ゼキアは低く唸った。無意識に、拳を固く握る。そうしなければ、胸の奥底に封じ込めた感情が爆発してしまいそうだった。出来れば、二度と会いたくはなかった。身を引き裂かれそうな過去の記憶が、ゼキアを責め立てる。
 ――マーシェル騎士団団長、オルゼス・バルハート。よく見知った人物であり、ゼキアが心底憎いと思う相手だった。
「え……知り合い、なの?」
「姫様の話を聞いて、まさかとは思ったが……やはりお前だったか。ゼキア」
 戸惑うルカを片手で制し、オルゼスは静かに向き直った。ゼキアの姿を正面に捉えると、その双眸をすっと細める。
「心配していたのだぞ。あの後どうしているものかと」
「……どの口がそんなこと言えるんだかな。というか、姫様だ?」
 ふざけるな、と怒鳴り散らしたくなるのを懸命に抑え、ゼキアは違和感を覚えた単語を繰り返した。それを聞いた瞬間、ぴくりとルカの肩が震える。同時に、視線がゼキアから逸らされた。言葉はない。しかし、その正体を悟るのには充分だった。――絆されかけた相手が、悪夢の元凶に最も近しい人間だったとは。
「察しの通りだ。最近、頻繁に城を抜けられているようなのでな。私がお迎えに上がるよう命を受けたのだ」
「……そうかよ。だったらさっさと連れて帰ってくれ。こっちは迷惑してんだ。それに、これ以上あんたの顔なんざ見たくもない」
 そう吐き捨て、ゼキアは二人に背を向けた。背後から微かに憂うような溜め息が聞こえたが、振り返ることはしなかった。これ以上会話を続けては、頭がおかしくなってしまいそうだ。早く、早くこの場から居なくなれ。願うのはそればかりだ。どうか、自分の中の何かが崩れてしまう前に。ゼキアの望む通り、音を立てて扉が開く。だが、彼女は黙って立ち去ってはくれなかった。
「待ってオルゼス。ゼキア、あの――」
 その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。乾いた音が鳴るのと同時に、ルカの唇は閉ざされる。伸ばされた手を、咄嗟に振り払わずにはいられなかったのだ。
「……さっき話したばっかりだろ。俺にとって、王族なんて諸悪の根元みたいなもんだ。二度とその面見せんな」
 自分でも驚くほど、感情の篭らない声だった。彼女は、一体どんな顔をしただろうか。それすら確認もせず、ゼキアは逃げるように身を翻した。早足で二階への階段を上りきると、知らず知らずに詰めていた息を吐く。僅かに、扉を閉める音が聞こえた。今度こそあの二人が出ていったのだろう。確信できた瞬間に全身から力が抜け、ゼキアはずるずると床に座り込んだ。
「……くそっ」
 必死に激情を抑えていた反動のように、様々なものが頭の中で渦を巻く。忌まわしい出来事。全てを失い、裏切られたと悟った、あの日。いっそのこと、何もかも忘れてしまえればいいと、何度思ったことだろうか。なぜだか、目頭が熱い。望まずとも反芻される記憶を押し戻すように、ゼキアは固く目を瞑った。

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