Scar 3

「うーん、二人とも大丈夫かな」
 市街地を当て所なく歩きながら、ルアスはぼんやりと呟いた。今ルアスが居るのは、家とは全く別方向にある大通りだった。人も多くて賑やかな、普段立ち寄ることはあまり無い場所だ。本来の目的であった届け物はとうに終えていたが、少し時間を潰してから帰るかと足を延ばしたのである。
 何故か、といえば家に残してきた二人――更に限定するならば、家主である青年について思うところがあってのことだった。未だにぎくしゃくしている、というよりゼキアが頑なに突っぱねるような態度でいるのが、ずっと気にかかっていたのである。以前と比べれば多少は軟化したようにも見えるのだが、彼女に対してだけはどうにも刺々しい雰囲気が見え隠れしていた。確かにルカは富裕層の人間で、ゼキアにとって受け入れ難い部分もあるのかもしれない。しかしルアスから見た彼女は身分など分け隔て無く接する人であったし、優しく親切な女性に違いなかった。自分の知らない所で何かあったというならそれを知る由もないが、ルアスにとっては二人共恩人であり、友人だ。出来ることなら仲良くして欲しい。自分が居なければ多少は話もするかと踏んで、こういった行動に出たのである。
「……そろそろ帰った方がいいかなぁ」
 とはいえ、それが裏目に出ていないとも限らない。余計に険悪になって喧嘩でもしないだろうか。そんな不安は常に頭の隅にあった。来た道を振り返りながら、ルアスは思案する。あまり長い時間戻らなければ、二人も心配するだろう。何せルアスは、数度に渡って悪漢に絡まれた前科持ちだ。実はあまり一人で街をうろうろするな、とも言われていたりする。悲しいかな、唯一ゼキアとルカの意見が一致している部分でもあった。ルアス自身にも己が抜けているという自覚が出来つつあったので、そういった意味でも戻る頃合いかもしれない。
「うん、帰ろう」
 見計らったように腹の虫も騒ぎ始める。それほど悩むこともなくルアスは決断し、踵を返した。空腹のせいか、寒気までしてくるような気がする――そう考えて、ルアスは自分の思考に違和感を覚えた。
「……寒い?」
 思わず口に出して首を捻る。流石に腹が減っていることとそれは関係ないのではないか。
 それを自覚した瞬間、ルアスを強烈な悪寒が襲った。身体の奥底まで冷えきって、凍ってしまいそうな寒さ。気温が低いのではない。イフェスはいつもと変わらず温暖な気候を保っている。物理的なものではない、生理的な嫌悪を感じる気配だ。この、身の毛のよだつような感覚には覚えがある。得体の知れない化け物――“影”と対峙した時に感じた、あの時の恐怖感とよく似ているのだ。まさか、と思った。人でごった返した市街地の、ましてや今は日中だ。こんな所に“影”が存在して堪るものか。
 そう考えながらも振り向けずにいたルアスの肩を、何かが突然掴んだ。
「うわぁああ!?」
 咄嗟にそれを振り払い、ルアスは堪らず叫び声を上げた。それでも正体を見極めるべく、飛び退くように後退りながら振り返る。しかしルアスの目に飛び込んできた姿は、予想とは大きく異なるものだった。
「あ、れ……?」
「やぁ、驚かせてしまったね」
 拍子抜けしたルアスの呆けた顔を見て、その人物は小さく笑った。化け物などではなく、人間。それも、ルアスがよく見知っている人物だった。
「久しぶりだね、ルアス」
「……シェイド!?」
 驚きのあまり声が裏返っていたが、それを気に留めることもなく男の名を呼び駆け寄った。思わぬ再会に、胸を躍らせずにはいられなかった。学院を出てから彼と会う機会も無かったが、変わった所は一つとして見受けられない。昔から好んで着ている茶色いコートに、ろくに長さも揃えていない漆黒のざんばら髪。同じように真っ黒な両眼が前髪に隠れてしまっているのも相変わらずだし、柔和な笑みを浮かべる口元も記憶に違わぬものだった。
「シェイド、こんな所で会うなんて! 学院の仕事は休み? 講義のない時でも部屋に籠りきりだったじゃない」
「私だって、外を出歩くことくらいあるよ。作業も一段落したところだったしね」
 ルアスの言葉に、シェイドは苦笑で返す。とは言っても過去に見てきた彼は薄暗い部屋で何かに没頭していることが多く、こうして日の下で話しているのは不思議な気分だった。
 シェイドは、ルアスがマーシェル学院で過ごした時代の恩師である。魔法の研究者、兼講師として学院に招かれている人物で、ルアスの知識や魔法の技術の多くは彼に教わったものである。ルアスの才を見て最初に学院に連れてきたのも彼なのだという。あまりにも幼すぎた時の話で記憶もあやふやだったが、それを疑ったことはなかった。物心ついた頃から彼に様々なことを学び、ルアスはシェイドに育てられたも同然なのである。兄のような、と言うには少々歳が離れていたが、ルアスにとって家族に等しい人物だった。
「そういえば、ルアスは買い物かい?」
 ひとしきり昔を懐かしんだところで掛けられた言葉に、ルアスは急速に現在の状況を思い出す。昼食と、ゼキアとルカが心配だ。
「ううん。用事が終わって帰らなきゃいけないとこだったんだけど……」
 久しぶりに出会えた知人と話は尽きなかったが、いい加減に戻らなくては。しかし名残惜しさから語尾が曖昧に濁る。
「じゃあ、近くまで送って行こう。君一人で歩いてたら、悪い人に絡まれそうだし」
「……そんなに僕って、そういうのに狙われ易そう?」
 まぁね、と笑うシェイドに、ルアスはがっくりと肩を落とした。ルアスにとって心境を察しての申し出なのは解ったが、付け加えられた言葉が余計である。昔からの顔馴染みにまで言われてはルアスも形無しだ。だからといってそれが断る理由になる筈もなく、二人は自然と並んで歩き始めた。
 彼と街を歩くのは、学院を出てからの期間を差し引いても、随分久しぶりのことである。まだ小さい頃に時折手を引いて連れてきて貰ったものだが、ルアスが成長するにつれてその機会も減っていった。こうしていると昔に戻ったようで、少し懐かしい。
 ――しかし、そんな心地好さを壊してくれたのは、他でもないシェイドであった。
「それにしても、心配していたんだよ。何も言わずにいなくなってしまうし、居所も判らないし」
 ゆっくりとした歩調で道を行きながら、シェイドは言う。何気無いように振られた話題であったが、ルアスはこれに僅かばかりの不快感を覚えた。シェイドが恩師であり、ルアスが信頼している人物であることに違いはない。しかし、一方的にルアスを追放したのは学院の方である。元はといえば己の実力の無さが原因であるし、最終的な判断を下したのはシェイドではないかもしれないが、今も学院に所属する人物にその台詞を言うのか。流石のルアスも反発するというものである。
「そんなこと言って、突然追い出したのは学院の方じゃないか」
 あの時ゼキアに助けて貰わなければ、今頃どうなっていたことか。思うままを口にし憤慨すると、シェイドは慌てたように頭を振った。
「そうじゃないんだよ。君が退学の話を聞いたのはエルシュからだろう?」
「そうだけど……」
 戸惑いながらも、ルアスは頷いた。エルシュ、というのは、共に学んでいた一つ年下の友人の名だ。劣等生のルアスとは違って彼女は魔力も強く、多様な魔法を使いこなす秀才である。しかしそれを鼻に掛けることもなく、寧ろ常にルアスの後ろに隠れているような内気な少女だった。そんな少女に厳しく追放を言い渡された事を思い出し、ルアスは苦々しく顔を歪めた。何を隠そう、彼女の魔法で強制的に学院から放り出されたのだから。しかし、今更それがどうしたというのだろうか。
「どうやら講師が勘違いをしていたようでね。他の学生の話がルアスのことと掏り替わって、それがエルシュの耳に入ったみたいなんだ。だから本当は退学でもなんでもないんだよ」
「……え?」
 シェイドから語られた突拍子もない内容に、ルアスは言葉を失った。勘違い、と言ったか。退学を告げたエルシュは、鬼気迫るような、思い詰めたような、見たこともない険しい表情をしていた。唯一の友人にもついに見限られたかと、己の不甲斐なさを悔いたというのに――それの発端が、勘違い。
「え、勘違いって……そんなのってありなのー!?」
 発覚した事実のあまりの馬鹿馬鹿しさに、ルアスは人目も憚らずに叫んだ。そんなことがあっていいのだろうか。仮にも王国最高峰と謳われる学院だというのに、間抜けすぎるのではないか。様々な疑問や怨言、学院を出てからの苦労など様々なものが脳内を駆け巡るが、最終的には大きな溜め息を吐くことしかできなかった。
「ああもう、なんなんだよ……」
「すまなかったね。そんなことだから私達も君を探していたんだよ……だからね、ルアス」
 百面相の後に項垂れたルアスに苦笑していたシェイドだったが、不意にその目に真剣な光が宿った。それを見て、ルアスも自然と丸めていた背中を正す。昔から飄々とした印象を受ける男ではあったが、この瞳は大切な話がある時のものである。その度に居住まいを直す習慣が、未だに身体に染み付いていたようだ。
「学院に戻っておいで。今からでも遅くないよ。これでも、私は君の力を買っているんだよ」
 彼には珍しく強い口調で告げられた内容に、ルアスは強く心を揺さぶられた。実に魅力的な誘いだった。またシェイドから知識を学びながら、友人と過ごすことが出来るのだ。以前使っていた部屋に戻れるなら隙間風に震えることもないし、食事だって出る。ゼキアやルカとは会い辛くなるだろうが、それでも永遠の別れというわけでもない。ゼキアの家の居候という現在の立場を考えるなら、是が非でもそうするべきだろう。迷惑だなど一言も言わないゼキアだが、自分がいることで負担が増えていることは確かな筈だ。
「う、ん……でも今お世話になってる人がいるから、ちゃんと話してから決めたいな」
 しかしルアスは、何故か素直に頷くことが出来なかった。誤魔化すように言葉を濁す。どうして、だろうか。自分でも不可解だった。強いて言うなら直感だった。戻ってはならないと、本能的に思ったのだ。危険だ、と、何処からともなく声が聞こえるような感覚だった。よく知った人物で、ましてや長く面倒を見てもらった恩人で、警戒する要素など無い筈なのに――。
「……それもそうだね。色々と都合もあるだろうし、この件はまた今度ゆっくりと話そう」
 ルアスの回答をどう捉えたかまでは察することは出来ないが、シェイドはとりあえずルアスの意見を尊重してくれるようだった。答えを急かされなかったことに、ルアスは密かに安堵の息を吐く。
「それで、そのお世話になっている人というのはどういう人なんだい?」
「ああ、えっと、ゼキアっていうんだけど――」
 そこからは、ルアスが喋る番だった。一つ一つ内容を整理しながら、近況を語っていく。幸いなことに、話題には事欠かない。どこか気不味いような雰囲気を変えるには丁度良かった。学院を出た後の出来事からゼキア宅に居候するまでの経緯。家主であるゼキアや、客人のルカも含め最近出来た友人のこと。矢継ぎ早に繰り出される話に、シェイドは穏やかに耳を傾ける。先日“影”に襲われた話などは流石に顔を顰めたが、掠り傷程度で済んだと報告すればその顔に安堵の表情を浮かべていた。因みに、ルカの力を使って倒したという話はしていない。シェイドもルアスの封力についてよく知る人物の一人だ。しかし遠い昔の祖母と違い、彼は口止めを強いたりはしていない。それでも咎められるような気がしてならず、結局言えなかったのである。
「……あ、シェイド、もう大丈夫だよ。すぐそこだから」
 とめどなく話続けるうちに、いつの間にか家は目前だった。貧民街の手前までのつもりが、いつの間にか中まで引っ張ってきてしまったらしい。そこに住む者以外は嫌悪する埃っぽい空気にも、シェイドは文句一つ言う気配は無かった。その事を申し訳なく思ってその顔を見上げると、彼は気にするな、というように微笑んだ。
「次に会うときはここを訪ねればいいね。じゃあ、また」
「うん、ありがとう」
 名残惜しい気もしたが、学院に戻るかどうかの話もある。そう遠くないうちにまた会えるだろう。頷いて手を振ると、徐々にシェイドの背中は遠ざかっていった。
 その背中を見送りながら、ルアスは首を捻る。シェイドに変わった様子は特に見当たらない。久しぶりの再会を喜び、ルアスの話をよく聞いてくれた。なのに、どこか違和感が拭えないのだ。胸に何かがつっかえたような感覚がある。最初に感じた気配のせいだろうか。あのおぞましい、身の凍るような悪寒。確実に“影”だと思ったのに、そこにいたのはシェイドだった。
「……考えすぎ、だよね」
 不穏な予感を打ち消すように、ルアスは頭を振った。きっと、またならず者に絡まれては堪らないと緊張していたせいだ。そう無理矢理に納得して、ルアスは顔を上げた。
「そうだ! いい加減にお昼ご飯出来てるよね。早く帰らないと」
 思考が一通り纏まったところで、ルアスはようやく家の中の状況を思い出した。シェイドと話していたお陰で、だいぶ帰りが遅くなってしまった。とっくに食事の準備など終え、二人とも業を煮やしてルアスを待っているに違いない。それに、ゼキアにシェイドの話もしなければ。途端に気が急き始め、ルアスは小走りに玄関への道を辿った。
「ただいま! ……あれ?」
 扉を開いて、威勢よく声を張り上げる。しかし、迎える声はなかった。それどころかやたらと静かで、物音さえしない。顔を見た瞬間に叱咤されることを覚悟していたというのに、肝心のゼキア達の姿が無かった。どこかへ出掛けたのだろうか。それにしても、二人仲良く一緒に、とは考えにくい。
「ゼキア! ルカ! ……いないの?」
 台所にいるのかと覗いてみても、やはりゼキアもルカも見当たらない。代わりに見つけたのは水の汲まれた鍋と、下拵えの途中と思しき野菜。作られるはずだった昼食が、中途半端なままそこに残されていた。背筋を、嫌な汗が伝う。この不自然な状況はなんなのだ。考えたくはないが、またいつかのように二人が危険なことに巻き込まれているのかもしれない。
 いてもたっても居られず、ルアスは身を翻した。息を切らし、二階への階段を駆け上がる。家の中にいるなら、あとはここしかない。そうでなければ、当たって欲しくない予感が当たっていることになる。最後の一段を上がりきり、祈るような気持ちで部屋を見回して――そして、ルアスは大きく息を吐いた。床に座り込むゼキアの姿を見つけたからだ。
「ゼキア、居るなら返事してよ……何かあったのかと思ったじゃない」
「……ああ、ルアス。帰ってたのか」
 だが安心したのも束の間、ルアスはすぐに異常に気がついた。ゼキアの声に、あまりにも覇気がない。うずくまったまま言葉を返し、此方を見ようともしないのだ。明らかに、いつもの彼ではない。薄暗い部屋の中ではその表情は伺い知れなかったが、やはり何かあったのだろうか。それに、一緒にいたはずのルカはどうしたのだろう。
「……どうか、したの? ルカは?」
 そう口にした瞬間、ゼキアの身体がピクリと震えた。ややあって、ゼキアは緩慢な動きで視線を上げる。その表情に、ルアスは一瞬怯んだ。真紅の瞳はどこか遠くを見詰め、口元には歪な嘲笑が浮かぶ。
「……あいつなら帰ったよ。大層なお迎え付きでな。もう、ここにも来ねぇだろ」
「帰ったって、どうして? また喧嘩でもしたの?」
 問い詰めながらも、そうではない、とルアスは感じていた。確かにゼキアの様子は、以前二人で怪我をして帰ってきた時と少し似ている。あの時も今も、盲目的に何かを拒絶しているように見えるのだ。しかし前と違うのは、ルカとの関係だ。ルカは引き際を見極め、ゼキアも文句を言いながらも会話を拒むことは少なくなっていた。まだ不安定でぎこちないなくはあったが、改善されてきてはいたはずなのだ。だからこそ、ルアスも二人きりにするという荒療治を選択したのである。なのに、それが一瞬で破綻してしまった。一体なぜ――そんなルアスの疑問に答えるように、ゼキアは皮肉ったように喉を鳴らした。
「驚けよ、なんと王国の姫様だったんだとさ。騎士団長が自ら迎えに来たんだ。……喧嘩どころの話じゃない。王族だと? 全ての悪夢の元凶じゃねぇか!」
 沈んでいた声は徐々に荒々しくなり、最後は悲痛な叫びとなった。同時にゼキアは凭れていた壁に拳を叩きつける。元々古くなって耐久性の低い壁は、音を立てて陥没した。
 彼が、こんなに荒れていたことがあっただろうか。長くはない付き合いだが、それでも尋常でない憤りが肌に伝わってくる。恐怖すら覚え反射的に一歩後ずさる。だがそんなルアスの様子が功を奏したのか、ゼキアははっとしたように拳を下ろした。悪い、と小さく呟いたのが聞こえ、ルアスも息を吐く。
 ――そこで、初めて彼の瞳が充血していることに気がついた。
「あの、ゼキア」
 戸惑いながらも声を掛けると、彼は困ったように肩を竦めた。ルアスの視線に気が付いたのだろう。頬に濡れた跡こそ無いが、恐らくルアスの予想は外れていないのだ。
「……やれやれ。随分みっともないところ見せちまったな」
 言いながら、ゼキアはおもむろに立ち上がった。すれ違い様にルアスの肩を軽く叩くと、彼は階下へと向かう。
「飯、まだだろ。今準備する。……それ食うついでに、少し昔話に付き合えよ」
「う、うん」
 慌てて、ルアスもその後に続く。未だに事態を上手く呑み込めていなかったが、ひとまずは落ち着いたらしいゼキアに安堵する。そういえば、彼の過去の話など殆ど聞いたことがない。聞けば、今の彼の不透明な心も見えてくるのだろうか。
 努めていつも通り振る舞おうとするゼキアは、やはりどこか影を背負っているように見えた。

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