Scar 4

 考えてみれば、あの時も様子がおかしかったのだ。思い返すのは、初めてゼキアとルアスに出会った日の夜である。もう少しというところで隠し通路にいるのをオルゼスに見つかり、小言を言われながら私室に戻った後のことだ。
「――ルカ様、それは?」
 一通りその日の話を終えて、オルゼスの怒りもようやく落ち着いてきたかと思われた時だった。ようやく気を抜けると安堵したルカに、彼はどこか緊張した面持ちで尋ねた。その視線が捉えていたのは、ゼキアから貰ったお守りの名残だった。突如として迸った炎のお陰で殆ど燃えてしまったが、黒く焦げた欠片が辛うじてベルトにぶら下がっていたのである。
「これ? さっき言った、助けてくれた人がお守りだっていってくれたのよ。持ち主の魔力を感知してどうのっていってたけど……よく自分で作るわよね。私にはさっぱりだわ」
 特に深く考えることもせずに、ルカは簡単な説明を付け加えた。しかし、それを聞いたオルゼスの顔つきが更に険しくなる。
「見せて頂いても?」
「構わないけど……」
 何が彼の関心を引くのか解らぬまま、ルカは焦げた木片をオルゼスに差し出した。今にも崩れそうなそれを慎重に手に取り、オルゼスは目を細めて凝視する。
 まるでその欠片を通して何か遠い景色を見ているような、そんな目だとルカは思った。彼は時折こんな表情を見せることがある。それが何故なのか聞いてみたこともあったが、オルゼスはあやふやに答えを濁すばかりだった。彼とて、触れられたくないことの一つや二つはあるのだろう。そう思ってここ最近は気にしないようにしていたが――このお守りの何が、オルゼスの琴線に触れたのだろうか。
「……貧民街の青年が、これを作ったと?」
 声を掛けられずにいたルカの耳に、オルゼスの疑問が響いた。我に返ったルカは、慌てて首を縦に振る。
「え、ええ、そう言ってたけど」
「そんな所にこんな優秀な魔法師がいたとは驚きですな。物に魔力を定着させるのは、繊細で非常に難しい技術だと聞きますゆえ」
「そうなの……」
 オルゼスの言葉を受け、ルカは助けてくれた二人の顔を思い浮かべた。確かに、そうなのかもしれない。ゼキアが生み出した炎の迫力は凄まじかったし、ルアスはたちどころにルカの傷を癒してしまった。お守りの説明をしていた時の口振りからして、主に製作を行っていたのはゼキアだろうか。しかし、彼が優秀な魔法師というのが今一つしっくりこない。なぜだろうかと思考を巡らせて、ルカは一つの事実に思い当たった。単純に、剣を振るう姿の方が印象に残っていたからである。
「なんだか、剣を使ってる方が印象に残ったからピンとこないわね。たぶん彼、ルガート流だったのよね。それで気になっちゃって。珍しいわよね、はっきり見てたわけじゃないから今度聞いてみようかと……」
 そこまで言葉を続けて、ルカはオルゼスの表情が曇り始めていることに気が付いた。彼は何事かを小さく呟いたようだったが、その声はルカの耳までは届かない。
「……オルゼス、どうかした?」
 声を掛けると、オルゼスは我に返ったように顔を上げた。首を傾げるルカに、彼はただ静かに頭を振る。
「いいえ、何も。少しぼうっとしてしまって……私も歳ですかな」
「……ふーん」
 何もないという顔ではないだろう。そう喉元まで出かかっていた疑問をどうにか飲み込み、ルカは適当な相槌を打った。聞いたところで、彼はきっと答えないだろう。今までもずっとそうだったのだから。
「では姫様、私はそろそろ。どうぞ早めにお休みください」
 ルカが早々に諦めたのを見てか、オルゼスは退出の為に扉の前へと引き下がった。ルカにも、これ以上引き留める理由もない。
「解ってるわよ。おやすみなさい、オルゼス」
 どこか釈然としないものを感じながらも、ルカは素直にオルゼスを部屋から送り出した。
 ――もしもこの時食い下がってオルゼスを問い質していたなら。あるいは、ゼキアの名前をはっきりと告げていたなら。ルカは今、こんなに沈んだ気持ちを抱えずに済んでいたのかもしれない。
 憂鬱だった。ここ数年で一番と言っていいほど鬱屈とした気分を抱え、ルカは過ごしていた。この日何度目になるかも分からない溜め息を吐きながら、ベッドの上で寝返りを打つ。先程からやたら向きを変えたり枕を殴ってみたりしてみたものの、なんの憂さ晴らしにもならなかった。枕はふかふかとして手応えはないし、マットもルカの身体を優しく押し戻すだけ。
「あー、もー」
 意味を成さない声を発しながら、ルカはごろりと仰向けになった。淡いレースの天蓋を通して、柔らかく光が降り注ぐ。普段なら、昼寝に丁度よい陽気だとでも思っただろう。だが胸に重苦しいものが溜まっている今、その温もりさえも煩わしい。
 広すぎる部屋が、落ち着かなかった。薄い桃色を基調としたソファやベッド、木目の美しい調度品。昼間は大きな窓から穏やかに日光が部屋を照らし、夜は硝子をふんだんに用いた照明が幻想的な美しさを醸し出す。その他、必要な物はなんでも部屋の中に揃っていた。水差しにはほのかに香りの付けられた水が常に満たされていたし、軽く摘まめる菓子もある。豪奢なドレスを合わせて楽しむことも出来たし、暇を潰すなら本もあった。例えここから出られなくとも不便しない程、充分すぎるほどのものがある。贅を尽くした、王女の部屋。
 ――そんな自室が、ルカは昔から嫌いだった。まるで、華美に飾り立てた牢獄である。鍵が掛かっているわけではない。城の中なら、出歩いても咎められないだろう。なのに、ここは息苦しい。嫌なことばかりを思い出す。
「姫、ね……」
 姫。王女。どちらも自分を表すのには似付かわしくない言葉だった。幼い頃から、姫らしくない姫だと言われ続けて来た。城内をあちこち駆け回っては乳母を困らせ、十五で成人してからは剣を学んで騎士の真似事をし、最近はしょっちゅう城下をふらついている。とんだじゃじゃ馬姫がいたものだ、という周囲の風潮は、ルカ自身もよく知っていた。だが『姫らしくない』という言葉の本質は、もっと別の意味を含んでいる。
 王が、あまりにもルカに無関心なのだ。王族ゆえに親子の距離が遠いという理由では、説明できないほどに。ルカは、王族の女子が学ぶべき教養をおよそ身に付けてこなかった。嫌って学ばなかったのではなく、王がそのための環境を用意しなかったのだ。まともに教師が付いたのは、字の読み書きくらいだっただろうか。子供の頃は疑問にも思わず遊んでばかりだったが、時が経てば自分の扱われ方がおかしいことぐらい見当が付く。嫌でも周囲の噂話は耳に入ってきた。実は王妃の不義の子なのではないか。あれでは嫁がせることも政治をさせることも出来ない。王は何を考えているのか、気が知れぬ――ずっと、そんな声を聞きながら育ってきた。母はとうの昔に死に、時折姿を見る父は視線の一つもくれない。臣下達は、ルカを見れば密かに陰口を叩く。城のどこにも、身の置き所が無かった。自分の部屋でさえ、これをやるから出てくるな、と言われているように思えて仕方がないのだ。
 オルゼスは、そんなルカが気を許せる数少ない相手の一人だった。剣術を教えてくれたのも彼だったし、今は使われていない古い通路を教え、街へ連れ出してくれたのもそうだ。自らの生い立ちを気にせず過ごせる時間は、何より心地良いものだった。日々オルゼスと街を歩くのを心待ちにするようになり、次第に一人でも出掛けるようになった。
 そんな中でゼキアやルアスと知り合って共に過ごすようになり、直面したのが王都に住む貧民の現状である。貴族や役人は、彼等の惨状には無関心らしい。そう知って初めて、自分に出来る事があるかもしれない、と思った。彼等の生活を直に知った『王女』が行動すれば、何かが変えられるかもしれない、と。ようやく、自分の存在に価値を見いだせた気がしたのだ。何より、親しくしてくれるゼキア達の力になりたかった。だというのに。
「どうして、こうなっちゃったかなぁ……」
 呟きながらどうしようもない空虚感に襲われ、涙が出そうだった。ゼキアの口から出たのは拒絶の言葉だけだった。今までも顔をしかめたり文句を言うことはあっても、こんなに強く拒まれたことはなかったというのに。王族の血筋であるということが、彼に受け入れて貰えなかった。
 ――結局自分は、どこであっても疎まれる存在でしかないのだろうか。オルゼスでさえも、何も言ってはくれない。ゼキアと面識があるようだったが、それも拒絶された大きな要因の一つだろう。どんな関係なのかは知らないが、オルゼスがあの場に現れなければ話は違っていただろう。少なくとも、こんな形で身分がばれて仲違いすることは無かったはずだ。正直なところ、オルゼスを罵倒したい気持ちでいっぱいだった。例えそれが、八つ当たりにすぎなかったとしても。
 扉をノックする音が聞こえたのは、まさにそんな事を考えていた時のことだった。
「――ルカ様、いらっしゃいますか」
 扉越しとはいえ、その声を聞き間違えるはずもない。部屋を訪ねてきたのはオルゼスだった。
「……どうぞ」
 横たわった体勢のまま、ルカは入室を許す。それに応えて彼が扉を開けた気配を察すると、ようやくルカは身を起こした。
「来なければこっちから出向くところだったわ。そっち座って」
 オルゼスの姿を見て真っ先にそういい放ち、ルカもまた彼の座るソファの対面へと陣取る随分と都合の良い時にやって来てくれたものである。
「……先程は、お見苦しいところを」
 ルカが何かを言い出す前に、オルゼスは頭を下げた。ゼキアとの言い合いのことだろう。彼自身に取り乱した様子はあまり無かったが、こうしてわざわざ謝罪するのが生真面目なオルゼスらしい。しかし、ルカが追及したいのは、そんなことではないのだ。
「謝って欲しいのはそんなとこじゃないのよ。せっかく馴染んできたところだったのに、わざわざ私が王族だって分かるような真似しなくたってよかったじゃない。それにゼキアと面識があるみたいだけどどういうこと?」
 ここぞとばかりに、ルカは不服を並べ立てた。子供じみている、というのは解っていた。しかし今はとにかく感情の捌け口が欲しかったのだ。そんなルカの癇癪にもオルゼスは嫌な顔一つせず、ゆっくりと答えていく。――甘えているな、と自分でも思う。こんなことだから、ゼキアも怒ってばかりだったのだろうか。
「申し訳ありません。私がお迎えに上がったのは、陛下の命です。早急に、とのことでしたので……場所が場所だけに、良からぬ輩に漬け込まれているのでは、心配なさっていたのですよ」
「お父様の?」
 語尾を跳ね上げ、思わずルカは聞き返した。普段は自分が何をしていようと気にも留めないというのに、どういう風の吹き回しか。何度か謹慎を言い渡されたこともあったが、臣下達に進言されてようやく動いた程だったというのに。
「あまり態度には出されませんが、陛下は姫様を気にかけておいでですよ。……それと、ゼキアのことですが」
 そんなルカの心境を察してか、オルゼスが重ねて言う。しかし、そんなことはどうでもよかった。彼が、最もルカが気にしていることを口にしたからだ。やや口ごもりながらもオルゼスが口にした名前に、息を呑む。
「私情です。本来なら姫様のお耳に入れるような話ではないのですが……お聞きになりますか」
 そうは尋ねるものの、オルゼスがあまり気乗りしない様子なのは見て取れた。目を伏せ、どこか遠くを見つめるようなあの表情。いつも濁していた答えを、今なら教えてくれるのかもしれない。更にそこにゼキアが関わっているというなら、聞かないという選択肢はなかった。二人がなぜ知り合って、ゼキアがなぜあんなにも敵意を向けるのか――その、理由を。
「聞くわ。これで黙ってられたら、気になって夜も眠れないわよ」
 姫だから何だというのだ。どうせ、そんな風に扱う者など殆どいない。それのどこが障害になるのか。言い渋るオルゼスを急かすように、ルカは断言した。彼は深々と息を吐くと、やがて覚悟したように顔を上げた。
「……分かりました、お話ししましょう。私がゼキアと出会ったのは、十年と少し前の国境近くの村でした――」

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