Scar 5

 その日のデルカ村は、どこか張り詰めた空気に包まれていた。エイリム王国で最も国境に近いこの村は、小さく貧しいが活気に溢れる場所だ。戦争の爪痕を深く残しながらも、その逆境ゆえに人々が力強さを増した村である。家畜を飼い、作物を育て、皆が助け合って生きていた。しかし、その活気も今日ばかりは鳴りを潜めている。大人達は身を縮こまらせてこそこそと働き、いつもなら外で遊び回る子供達の姿もない。親が押し留めているか、異様な雰囲気を察知して家から出ようとはしないのである。
 ――ゼキアも、そんな子供の一人だった。まだ十にも手の届かない、遊び盛りの幼子である。彼は、自宅の窓際で暇を持て余していた。
「……つまんねーの」
 呟きながら、ゼキアは外の景色をぼんやりと見つめていた。この台詞も、既に何回目だろうか。どれだけ眺めたところで、窓から見える風景は変わり映えしない。まばらに建つ木造の家、乾いた風に揺れる畑の作物達。
 四角い枠の外へ思いを馳せながら、ゼキアは本来の予定を振り返る。今日は、仲の良い数人と川遊びをする約束だった。暖かくなってきた今の季節、冷たい水に足を浸すのはさぞ気持ちがいいだろう。石をひっくり返して、小さな蟹や変な虫を見つけるのも楽しい。上手く魚が捕れれば夕食の足しにもなるし、両親や妹も喜んでくれただろうに。だが、残念なことにそれは叶わないのだ。空は嫌味な程に晴れ渡っているというのに、ゼキアの心は曇天だ。それでも言い付けを破って出て行こうとしないのは、村の空気がおかしい理由を知っているからだった。先程から眺める景色に、ちらほらと映り込む異物――王都の騎士団が逗留しているのである。
 国境に近いという土地柄、こういった事態はデルカ村にとっても初めてではない。宿を取るなら、もう少し南に行けば大きな街がある。どう考えてもそちらの方が設備が充実しているため、あえて村まで来る旅人は多くなかった。だが大所帯の騎士団には寧ろそれが好都合らしく、彼らはデルカ村をよく利用する。
 だが、総じて彼らは良い客と呼べるものではなかった。いつも横柄な態度で村人を見下していたし、気に入らないことがあればすぐに罰を与えるという。ちょっとした粗相で、ひどい怪我をさせられた村人もいた。もちろん王都に彼らの横暴さを訴えたが、未だひとつも改善される気配はない。貧しい者は非国民、どうにかしたいのなら金を出せ。返ってきた答えの意訳は、大体そんなものだったらしい。
 そのお陰で、騎士団が来るといつも村はこうなる。必要以上に関わらず、出来るだけ客人の機嫌を損ねないように。それだけが村人の自衛手段なのである。大人でもそうなのだからら、当然子供らを彼らの目に触れさせるわけにはいかない。何をされるか分かったものではないのだ。それが解っているからこそ、ゼキアもこうして家で大人しくしているのである。
「暇だなぁ、リスタ。何か面白いことないかな?」
 せめて会話で気が紛れないものかと、後ろで一人ままごと遊びをする妹に声を掛けた。今年四つになったばかりの彼女の遊びは、何が楽しいのか今ひとつゼキアには理解し難い。しかし退屈が頂点に達した今なら、付き合ってやらないでもなかった。そう思って妹の返答を待つが、いつまで経っても返事がない。
「おい、リスタ……あれ?」
 痺れを切らして振り返る。しかし、そこにリスタの姿は無かった。つい先程までは確かに床で座って遊んでいたのに、今は木の椀やスプーンが散らかっているだけでだ。どこへ行ったのかと考えて、妹も自分と同じように退屈を持て余したことを思い出す。外で遊びたい、という彼女を、ゼキアも何度か注意した。一気に、血の気が引いていく。
「まさか、外に出たんじゃ……」
 慌てて、名を呼びながら家中を探し回った。物置、台所、ベッドの下――しかし、どこにもリスタは見当たらない。代わりに見つけたのは、僅かに開いた玄関の扉であった。いよいよ、嫌な予感が現実味を帯びてきてくる。朝、両親が家を出て行った時は、扉はしっかりと閉められていた筈だ。それが開いているとなると、やはり出て行ってしまったとしか考えられない。
 意を決して、ゼキアはその扉を押し開き外へと踏み出した。早く、妹を連れ戻さなければ。例え村の中を歩いていたとしても、騎士団と関わらなければ大丈夫だろう。ただし、万が一彼らの不興を買えば無事では済まない。有り金を取られるくらいならまだましな方だ。下手をすれば暴力を振るわれたり、命の保証も無いかもしれない。母から聞いたそんな話が、頭の中に浮かんでは消える。だが、それなら余計にリスタを放っては置けない。たかだか四歳の少女に、そんな難しい話が解るはずもないのだ。かといって、子供だからと容赦してくれる相手でもない。何かあってからでは遅いのである。
「くそっ、リスタ! どこ行ったんだよー!」
 叫びながら、村の中をゼキアは駆けた。さして広い村ではないというのに、なかなかリスタは見付からない。通りかかった村人に尋ねてみても、誰もが首を振るばかりだった。中には早く家に帰るよう忠告する大人もいたが、リスタが見つからないのに従えるわけがなかった。あと探していないのは、宿屋の方だろうか。次の行き先に見当をつけたその時、切り裂くような悲鳴が村に響き渡った。まさに今から向かおうとした、宿屋の辺りだ。
「……リスタ!」
 聞いた瞬間、ゼキアは走り出していた。間違いない、リスタの声だ。己の身の安全など考えていられなかった。あの悲鳴は尋常ではない。いつも転んで泣いたりする時とは違う、酷く怯えた声だった。もし、妹に何かあったら――そう思うと居ても立ってもいられず、ゼキアはがむしゃらに地面を蹴った。見慣れた道を真っ直ぐに抜け、緩やかな坂を上れば宿屋はすぐそこだ。
「リスタ! どこだ!?」
 上りきったところで一度立ち止まり、再び妹を呼ぶ。今度はその姿を見出すのに時間は掛からなかった。幼い少女の泣き声と野太いがなり声が、程近い場所から聞こえてきたのである。慌てて音源を探すと、宿屋のすぐ横の木の傍だった。根元に座り込む黒髪を二つに結った少女は、紛れもなくリスタである。一方、泣きじゃくる彼女を見下ろす男は、見知らぬ人物だった。恐らくは滞在している騎士の一人だろう。胸元に光る金の紋章に、仕立ての良い象牙色の制服。何をしているのかと思えば――腰に佩いた剣に、手をかけていた。
 まずい。そう感じたのさえ一瞬で、咄嗟にゼキアは行動を起こしていた。近くに落ちていた太い枝拾い上げ、男に向かって思い切り飛びかかる。
「ぐあっ! ……この、何しやがる!」
「それはこっちの台詞だ! 俺の妹に何するつもりだったんだ、このやろう!」
 全力で男の肩を枝で叩きつけ、すんでのところでゼキアは妹の手を取った。彼女を背に庇いながら、男の顔をねめつける。何をするか、など口してはみるものの、どうせろくでもない事なのは解りきっていた。一歩遅ければリスタは危なかっただろう。
「……おお、痛い。随分と行儀の悪い子供がいたものだな」
 わざとらしく肩をさすりながら、男はゼキアに向き直った。口ではそう言いながらも、その唇は下卑た笑みを刻んでいる。何が面白いのか、男は気味の悪い笑顔でゼキアとリスタを交互に見た。人を虐げることに喜びを感じる下衆な輩がいる、と母から聞いたことがある。この男もその類なのだろうと、ゼキアは肌で感じ取った。
「……リスタ、走って宿屋の女将さんのとこまで行って助けてもらえ」
 小声でリスタに呼び掛けるが、彼女は首を振ってゼキアにしがみつくばかりだった。未だに嗚咽を漏らす妹を守ってやらなければと思うが、彼女の手を引いて男から逃げきれるまでの自信は無い。まがりなりにも、相手は騎士だ。あっという間に捕まえられてしまうだろう。仮にどうにかなっても、すぐ探し出されてお終いだ。行動を起こしたのはいいものの、今更ながら冷や汗が身体を伝う。
「だんまりか? 大人に対する礼儀を知らんようだな。これは躾が必要だな」
 気色の悪い猫撫で声で、男は距離を詰めてきた。こちらが怖がる様子を面白がるように、じわじわと近寄ってくる。どうするべき、だろうか。村の大人達も事態に気付いてはいるのだろうが、己の身に飛び火することを恐れてか駆け付ける気配はない。このまま大人しく男にいたぶられるか、どうにかして逃げる道を探るか。僅かの間逡巡し、ゼキアは最終的に後者を選んだ。
「リスタ、逃げろ!」
 叫びながら妹の手を振り払い、突き飛ばす。次に足元の砂利を掴み取って男の顔に投げつけ、ゼキアは突進した。相手が微かに呻き声を上げて怯んだ隙に、木の枝を握りしめて飛びかかる。どうにか気絶でもさせられれば、と思ったが、いささかその考えは浅はかであった。
「この……餓鬼がぁ!」
「うわぁあ!」
 いともあっさりとゼキアの身体は弾き返され、地面へ転がった。その衝撃で武器にしていた枝もどこかへ飛ばされてしまう。だが、動きを止めるわけにはいかない。有らん限りの素早さで起き上がり、男を振り返る。その時には男の手は振り上げられ――鈍く光る得物が握られていた。
「おらぁ!」
 咄嗟に身を翻し、最初の斬撃は空振りに終わる。だが、それで安心など出来なかった。今度こそ、完全に腰が抜けてしまったのだ。土の上にうずくまり、身体を動かすことが出来ない。代わりに心臓がやたらと早鐘を打ち、呼吸が荒くなる。次の刃は、すぐには振り下ろされなかった。男はそんなゼキアを見て薄く笑みを浮かべ、恐怖を増強させるようにわざと足音を立てて歩み寄る。
「……残念だったな。騎士様に逆らうとこうなるんだ。よく覚えておけ!」
 遂に眼前へ到達した男は、そうゼキアを見下しながら剣を振りかざした。切られる――そう確信して、固く目を閉じた時のことだった。
「何の騒ぎだ」
 その声が聞こえた途端、ぴたりと男の動きが止まった。目の前の人物とは違う低く威厳のある声に、ゼキアはゆるゆると瞼を開ける。
「バート・ウィーデン。一体そこで何をしている?」
「は、オルゼス副団長……」
 バートと呼ばれた男は慌てて剣を納めると、胸に手を当てて礼をとった。どうやら、命拾いしたらしい。やや間をおいてそう認識したゼキアは、もう一人の男に目を向けた。バートという男と同じ、騎士団の制服だ。ただ、胸元の紋章だけは違う。もっと複雑で華やかなものだった。恐らくは、こちらの男の方が階級が上なのだろう。三十代も半ばほどだろうか。ゼキアの父と同じくらいに見える。きっちりと後ろに撫でつけられた鉄色の髪に、伸びた背筋と厳しい眼光。同じ騎士だというのに、全く違う印象だった。
「え、ええ、これは村の子供と交流を深めようかと思いまして」
 見るからに取り乱した様子で、男は言い訳を口にする。だが、それが通じる相手ではないようだった。
「子供と遊ぶのに真剣を抜く者がどこにいる」
「いえ、ほんの冗談ですよ……剣を見てみたいとこの子が言うものですから」
 それにも関わらず、男は白々しい嘘を吐く。唐突に話の引き合いに出され、ゼキアは激昂した。よくそんなことが言えたものだ。騎士とは、こんな下衆ばかりなのだろうか。再び危険に陥る可能性など忘れ、感情のままに叫ぶ。
「ふざけんな! そんなこと言ってねぇし、先にリスタに手を出したのはお前だろ!」
「……彼はこう言っているが? 今し方、宿屋に泣きながら駆け込んできた少女が居たな」
 意外にも、オルゼスという男はゼキアを擁護する姿勢を見せた。バートはゼキアを一瞥すると、忌々しげに舌打ちする。
「……少女がぼうっとしていてぶつかったので、注意を」
「注意、な。もういい、戻って出立の準備をしろ。お前の処遇は王都に戻り次第考える」
 バートは短く返事をすると、早足にその場から立ち去って行った。残ったオルゼスは深々と息を吐き、ゼキアを見下ろす。
「……立てるか?」
 反射的に身構えたゼキアだったが、予想に反して彼はゆっくりと手を差し伸べた。一瞬何を言われているのか解らず、その手と男の顔を見比べる。ようやくその意図を理解すると、ゼキアは男の手に捕まり立ち上がった。
「部下がすまなかったな。怪我はないか?」
 その問い掛けに、ゼキアは無言で頷いた。転んだ時の軽い擦り傷はあったが、大したことはない。どうやらこの男――オルゼスは、人を人として扱うくらいの分別はあるらしい。
「私の顔に、何か付いているかな」
 しげしげと己の顔を眺めるゼキアを不思議に思ったのか、オルゼスは首を傾げた。声音は至って穏やかだ。気に障った、という風でもないことに安心し、ゼキアも本音を漏らす。
「……まともな奴もいるんだと思って。みんな、さっきみたいなのと同じかと思ってた」
 それを聞いたオルゼスは瞠目し、困ったように苦笑した。正直すぎる感想だったが、実際にそうなのだから仕方がない。今までに見てきた騎士というものは、粗暴で人を傷つけることを良しとするような輩ばかりだった。彼のように弱者を助け、こんな風に声を掛けてきた者はいなかった。そんな率直な意見にも、オルゼスは動じる素振りも見せない。それどころか膝をついてゼキアと視線を合わせ、静かに語り始めた。
「そうだな……あれが普通であることなど、本来なら許されない。なのに、それがまかり通っているのは嘆かわしいことだ」
「副団長って呼ばれてた。あんた偉いんじゃないのか? なんとかなんないのかよ」
 バートが口にした呼称を思い出し、ゼキアは訴えた。騎士や役人がよく言う『身分の高い者に従え』という言葉に倣うなら、それなりの地位がありそうなオルゼスには皆従うのだろう。ゼキアはそう思ったのだが、彼は悲しげに目を細めるだけだった。
「もちろん、善処はしている。だが、私一人では難しい事も多くてね……そうだな、君のような正義感の強い子が騎士団にいれば、もっと違うかもしれないが」
「俺ぇ?」
 予想だにしなかったオルゼスの発言に、ゼキアは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「むりむり、父さんと母さんの手伝いもしなきゃいけないし、リスタは泣き虫だから俺が見ててやんなきゃいけないし……あ、からかってるんだろ!」
 ひとしきり否定の言葉を並べた後にその可能性に思い当たり、ゼキアはオルゼスを指差し非難した。それの何が可笑しかったのか、彼は声を上げて笑い始める。
「ほら、やっぱり!」
 どうせそんな事だと思った、と不貞腐れると、声を抑えながらオルゼスはゼキアの頭を撫でた。
「いやいや、本気でそう思っているよ。騎士相手に立ち向かっていく勇気は素晴らしいし、身のこなしもなかなかだ。君は筋が良い。私が直接稽古を付けたいくらいだよ」
「本当かよ……」
 オルゼスは悪人ではないかもしれないが、やはり騎士というものは信用ならないのかもしれない。そんな思いで彼を疑いの眼差しで睨んでいる最中、後方からオルゼスを呼ぶ声が聞こえた。振り返ってみると、何やらこちらに合図を送っている。先程の男とは別人だったが、やはり彼の部下なのだろう。オルゼスは再びゼキアの頭を二、三度撫でると、おもむろに立ち上がった。
「さて、私もそろそろ行かなくては。君、名前はなんという?」
「……ゼキアだけど」
「ゼキア、だな。次は本当に勧誘しに来よう。またな」
 そう告げて微笑むと、オルゼスは部下の元へと戻って行った。その背中を見送りながら、ゼキアは告げられた言葉を反芻する。
「俺が騎士、ねぇ」
 考えたこともなかった。自分はこの村で友達と遊び、両親を支え、妹を守って暮らしていく。なんとなく、そんなものだと思っていた。だが、初めて提示された選択肢に心が動かないと言えば嘘になる。民衆を無下に扱うような騎士は御免だが、オルゼスのように虐げられる人々を守れるなら。デルカ村や、家族を救えるなら――それも、悪くはないのかもしれない。
「……あ、そうだ! リスタ!」
 暫し自分の将来像に思いを馳せていたゼキアだったが、不意に妹の存在を忘れていたことに気が付いた。恐らくは宿屋で待っている筈だ。まだ泣きべそをかいているかもしれないし、早く迎えに行ってやらなければ。そう思って駆け出した時には、既に騎士になるなどということは頭から消え去っていた。
 ――この日が人生の境目になるなどとは、幼いゼキアは考えもしなかったのである。

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