光と影と 1

 今日も、エイリムの王城は煌びやかで美しかった。壁には一分の隙もないほど完璧な彫刻と絵画、頭上には金と硝子で彩られた装飾照明。城の中は、どこへ行っても贅の限りを尽くした仕様で人の目を楽しませる。だがとっくの昔にそれらを見慣れてしまった自分にとっては、何の慰めにもならないことだった。
 広大な王城の中で、ルカは暇を持て余していた。本来、王女に与えられるであろう公務などルカには殆ど無い。城下に出なければ、こうなるのは当然の話である。思い付くだけの時間潰しは、全て実行に移し終えていた。庭園を散歩したり、図書室で本を読んでみたり、剣の鍛錬をしたり。だが今更一人で庭園を歩いても何も面白いことは無かったし、読書もすぐに飽きてしまった。剣の稽古も、相手がいなければ張り合いがない。元より、城にルカが安らげる場所など無いのだ。ただ、窮屈なだけ。使用人や貴族の人目にさらされる機会が増える分、ここ数日は気まずい思いをすることも多かった。心地よく過ごそうというのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
 あの日以来、城下町へは足を運んでいなかった。謹慎を言い渡された、というのも多少はある。しかしそんなものは仮初めに過ぎない。監視の目があるわけでもなく、その気になれば城を抜け出すことなど容易いだろう。恐らく、王も無関心なままだ。それでもルカに外に出ることを躊躇させるのは、やはりゼキアのことだった。
「……今日は、どうしようかしら」
 溜め息を吐きながら、当て所なく廊下を歩く。床は白と黒の石で美しい模様が描かれ、あちらこちらに飾られた金銀の細工物は王の威光を示すように輝いていた。
 目が、痛い。生まれ育った場所であっても、ルカは城に馴染めず、また城もルカを受け入れていないような気がしていた。視界が点滅するような感覚を振り払おうと、俯き歩調を早める。せわしなく働く使用人とすれ違っては怪訝な顔をされるが、それも次第に慣れてきた。というよりは、あんな話を聴いた後で感覚が鈍っているのかもしれない。それほど彼らの過去は、ルカの心に重くのしかかっていた。
 ――彼には、本当に申し訳が立ちません。
 そう悲しげに呟いたオルゼスの姿を思い返す。彼もまた、苦しみ続けてきたことだろう。意に染まぬ悪事に加担させられ、信頼を裏切ってしまった。家族は人質に取られているようなものだったという。命令に背けば、妻や一族の者がどのような仕打ちを受けるか分からない。謀反を起こされないための保険、とでも言うべきか。誰よりも誠実で民を思いやる騎士は、腐った上層部には目障り以外の何物でもなかったのである。
 だが、ゼキアが故郷を奪われてしまったのは事実だ。どれほどオルゼスが罪悪感に苛まれていたとしても、それは変わらない。状況を考えれば、ゼキアの反発も理解できる気がした。裏切り者とも呼べるオルゼスと、全ての元凶たる王家に連なるルカも。故郷の敵のようなものだ。切りかかられなかっただけ幸いなのかもしれない。
 そして、そんな暴挙を許している国王が、自分の父に他ならないということが何よりルカを苦しめた。黙認している――否、今では寧ろ煽動してすらいるように思える。ずっと支え続けてくれていたオルゼスも、不器用ながら受け入れようとしてくれたゼキアも、ルカが大事だと思った人々を傷付けてきたのは父だったのだ。
 己の不勉強を、これほど恥じたことはない。周囲の臣下や貴族達は、皆父のことを賞賛した。一代にして領土を大きく広げ、王国に富をもたらした気高き覇王だと。ルカは、その評判を鵜呑みにした。父は素晴らしい人なのだと信じ込んだ。そんな王の子であることが密かなルカの誇りであり、いつかは自分のことも顧みてくれるはずだと夢を見た。何も、自分の目では見てこなかったというのに。
 実際はどうだ。弱者を踏みにじり、あらゆるものを搾取し、自分は玉座の持つ権力にあぐらをかいている。そんな暴君でしかない。なぜ今更になって気付いたのだろう――そう考えて、ルカは自嘲した。違う。目を逸らしていたのだ。何も与えられないままに、重荷だけを背負わされたくなかったのだ。結果が、この瞬間の後悔の念に繋がっているというのに。
「あ……」
 蟠りを抱えながらも足が向かっていた場所に気付き、ルカは小さく声を上げる。行き着いたのは数ある客室の中でも比較的地味で小さく、あまり使われない部屋の前だった。ほんの少し前までは、毎日のように訪れていた場所である。この部屋に飾られたタペストリーの裏から、城外へ繋がる隠し通路が続いていた。ルカが城を抜け出すのにいつも使う道だ。ぼんやり歩くうちに、無意識に通い慣れた道を選んでいたらしい。そのまま扉に手をかけようとして、ルカははたと動きを止めた。
 ――行って、どうするというのだ。
 彼と会えば、きっとまた拒絶されるだろう。わざわざ同じ思いを味わうことはないはずだ。少しずつ縮まっていた筈の距離は、最初よりさらに遠くなってしまった。これ以上関わろうとしない方が、お互いの為なのかもしれない。
 そこまで考えてからあることに気付き、ルカは溜め息を吐いた。いつの間にか、城下へ行くことがゼキア達の元へ行くことと同義になってしまっている。今更になってそれを自覚した。別に、彼等の元を訪れなければいけない理由は無いのだ。実際、知り合うまでは貧民街に足を運ぶことなどなかった。なのに、いつしかそれが当然だと感じるようになっていた。
「……うん、やっぱり少し外に出よう」
 幾ばくかの逡巡の後、ルカはそう決意した。市場の賑やかさにでも触れれば、いくらか気が紛れるだろう。城下を出歩くうちに出来た顔見知り達と世間話でもすればいい。少なくとも、城の中に籠もっているよりはましなはずだ。淀んだ思考を振り切るように、ルカは目の前の扉を開こうとした。
「――では、もうすぐなのだな」
 まさにその瞬間、扉越しにくぐもった声が聞こえ、ルカは手を止めた。中に、人が居る。今まで通っていた時は殆ど使われていなかったというのに、随分と間が悪いこともあったものである。しかし、ルカが驚いたのはその声の主だった。聞き慣れたものではないが、決してルカが忘れることはないだろう低音。まさか、と疑いながらも、音を立てぬように扉に隙間を作り室内を窺う。
「ええ。駒も揃いましたし、王の永遠も近いでしょう」
 次は、別の人物の声が響いた。視界に捉えた様子に、ルカは息を呑む。
 客室の中にいたのは、二人の男性だった。一方は、まるで見覚えのない黒髪の男である。顔までは見ることが出来なかったが、身なりからして恐らく貴族でもなければ城の使用人でもないだろう。いかにも不健康そうな痩身に、くたびれた茶色いコート。せいぜい、庶民出身の学者程度にしか見えなかった。
 そしてもう一方は、対照的に豪奢な衣装を身に纏っていた。鮮やかな深緑に金の刺繍の入った上衣、青い髪を短く刈った壮年の男。その骨ばった指には、王家の紋章が彫られた指輪が填められているはずだ。近くでその姿を見たことなど、数えるほどしかない。それでも見間違えるはずがなかった。レミアス・ギスト・エイリム。エイリム王国の王であり――ルカの、父だった。
「ところで陛下、少々困ったことがありまして。羊を隔離する必要が出てきました。地下施設の使用許可を頂けますか。直接、手元に置いておいた方が良さそうなもので」
「いいだろう、好きに使え。西側の研究室だったな」
 男の要望を、レミアスは上機嫌に快諾した。躊躇は全く無かったように思う。あの男は、いったい何者なのだろうか。個人的に王と面会するような地位のある人間には見えないというのに、レミアスは従者の一人も連れていない。そして、永遠、羊などといった意味の分からない単語の飛び交う密談――父は、何をしているのだろう。
 疑念で思考が埋め尽くされ思わず身を乗り出しそうになった時、不意に男がこちらを見た。その瞳が、ルカを捕捉する。その途端、全身に悪寒が走った。闇の淵に突き落とされるようなおぞましさが、身体を支配する。抗い難い恐怖に突き動かされ、ルカは弾かれるように扉から離れた。衝動のままに廊下を走り抜け、階段を駆け下り、また別の客室の中へと滑り込み、ようやく息を吐いた。見つかった。しかし、追ってくるような気配は感じられなかった。だが、すぐに外に出てみる気にはとてもなれない。
「なんだったの、今の」
 ようやく呼吸を取り戻したかのように、深く息を吐く。身体の奥底まで凍らせるような、酷い寒気がした。以前にも似たような感覚を体験したことがある。あれは確か、初めて“影”と対峙した時だ。あの男は、“影”に連なる者なのだろうか。
 自らの思考に、ルカはまさか、と頭を振る。奇妙な感覚があったと言っても、相手は人間にしか見えなかった。あまりにも馬鹿馬鹿しい――そう思うのに、思い至った可能性を否定しきることがルカには出来ずにいた。はっきりとは見ることの無かった男の双眸は、きっと深淵を覗くような黒だろう。なぜかそう確信した。あれは良くないものだと、生物としての本能が告げているのだ。
 そして、何故父はそんなものと当然のように会話していたのか。話の内容も、国や民のための政とはとても思えないものだった。逆に、何か恐ろしい事を考えているように思えて仕方がなかった。また、民が苦しむ。今は貧民街など一部に留まっているかもしれないが、いずれは国中に波及していくに違いない。他ならぬ王の手によって、エイリムは荒廃していくのだ。
 ――それを、誰が止められるというのだろう。
 ルカは絶望した。近い将来、自身の予想は現実になっていくだろう。だがその事実に気付いたところで、変えられることなどない。王に逆らう者などいない。優遇される貴族達は不満を唱えることはなく、貧しい者には力が無い。疑問を持った人間がいたとしても、圧力で封じ込められる。どこに反逆できる者がいるというのだろう。誰かに、頼ればいいのだろうか。しかし城の中に信頼できる人間などいない。オルゼスに相談してみるか。だが、彼も王の力に屈した内の一人だ。そして、残る王族は自分だけ。
 ルカの思考はそこで停止してしまった。明るい道など見えはしない。元より、ルカはお飾りにすらなれない名前だけの王女だ。自分が声を発したところで、聞き入れてくれる人物もいないだろう。何も、出来ない。大事な人達が傷ついていくのを、ただ眺めているだけだ。
 ふと、貧民街の青年の顔が脳裏を掠める。目の前で故郷を焼かれたという彼も、同じ思いをしたのだろうか。少し考えて、それは違う、と思い直す。ゼキアは、守るための最大限の努力をしていた筈だ。そしてそれは今も変わらない。力無い者や困っている者には手を差し伸べ、口では文句を言いながらも見捨てるような真似はしなかった。それは行き場を失ったという同居人の少年や――恐らくは、ルカにさえもそうだった。友好的とは言い難くとも、そこに居ることを受容してくれていたと思える。力ずくで追い返すことも出来ないわけではなかったのに、それをしなかった。ルカがなんだかんだと店に居座っていたのは、居心地が良かったからだ。それはごく狭いものだったのかもしれないが、確かにあそこにはルカの居場所があったのだ。このまま放っておけば、その場所もなくなってしまうのだろうか。ゼキアやルアスも、また辛い思いをする。
「……そんなこと、駄目に決まってる」
 気付けば、拳を握り締めていた。自らを奮い立たせるようにして、声を絞り出す。怖じ気づいている場合ではない。ぐずぐずしていては、今有るものさえ失ってしまう。逆に言えば、それ以外失うものなどないのだ。動かなければ。出来ることをやるのだと、決めたではないか。痛い目にもあって、ゼキアにも散々叱られて――彼にとって自分は疎ましい存在なのかもしれないが、それでも通じ合えた部分もきっとある。失望されたままなのは、嫌だ。
 胸中に決意を固め、ルカは再び部屋の外へと足を踏みだす。今度こそ迷うことなく、あの隠し通路へ向かって。

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