光と影と 2

 久方振りに見上げてみた空は、快晴そのものだった。暖かな光の下、穏やかな風が街中を撫で、行き交う人々は活気に溢れている。日中はもちろんのこと、市街地には外灯が設置され、大通りは夜でも賑わう。そして騎士団によってイフェスは守られ、確固たる安寧を維持しているのだ。
 ――そう確信し、街の風景を美しいと感じていたのはつい先日までの話である。実際は、中心部以外は街並みも人も荒みきって治安が悪かった。騎士団もまともに機能などしていない。この街が好きだ、という気持ちに変わりはない。だが現実を知ってしまった以上、以前と同じではいられなくなってしまった。
 美しく整備された街並みを眺めながら、ルカは嘆息した。今歩いているのは、貴族や裕福な商家が多く暮らしている区画だった。どの建物をとっても外装は優美で華やか、街中には花のように甘やかな香りさえ漂う。
 貴族達は、その身分を表そうとするかのように高い土地を好んだ。区画全体が丘陵のような先を描き、その頂点には王城が君臨している。そこから流れ落ちるかのように水路が張り巡らされ、一つの道のように地上を、或いは地下を通ってイフェス全体へと下っていく。
 景観も快適さも備えた、豊かな街。下々が住む環境とは、雲泥の差だ。ルカがいるのは比較的下層の方だったが、それでも贅沢と呼べるだけの施設が立ち並んでいた。ゼキアやルアスが住む地区はそもそも道や外壁の整備すらされていなかったし、水も末端の彼らの元に流れ着く頃にはすっかり濁ってしまっている。こんな簡単なことに、なぜ気が付かなかったのだろう。ともすれば再び自己嫌悪の渦に飲み込まれそうな心を叱咤し、ルカは顔を上げた。
「といっても、当てがないっていうのが正直な所なのよね……」
 そう呟き、ルカはぐったりと額に手を当てた。勢いで飛び出してきたものの、具体的にどう行動すべきなのかという指標が無かった。部屋に戻った時には既に二人の姿は見当たらなかったし、父を問いつめようにも自分がそう簡単に謁見できるとは思えない。もう一人の男に至ってはどこの誰かも判らないのだ。
「……私って、ほんと馬鹿」
 とにかくじっとしているのが嫌で街へ出て来たが、冷静に考えれば城でもっと情報を集めるべきだったように思う。自虐の言葉を吐きながら踵を返そうとして、ルカはふとある建物に目を留めた。区画のやや外れにあるが、その存在感で一際目を引く――マーシェル学院。まるで一つの城のような施設だった。広大な敷地に聳える厳かな校舎は、古びた色合いが歴史を感じさせる煉瓦造り。そこから入り口となる門扉までは丁寧に整えられた美しい庭園が広がり、道の脇には偉人を象った彫刻が並んでいる。いくつかに分かれた道の先には学生寮や種々の用途に合わせた施設があり、それらもまた瀟洒な装飾に彩られていた。全体の優美さは王城にも引けを取らない、とまで言われるほどだ。
 自然と、足がその方向へと踏み出される。かつては、ゼキアやルアスもマーシェル学院で過ごしていたという。ルカも、正しく王族としての教育を受けていれば通っていたかもしれない場所だ。もしそうだったなら、違う形で知り合っていたかもしれない。そう考えると不思議な気分だった。
 敷地のすぐ傍まで近付くと、ルカは高い柵の隙間から中を覗き込んだ。数百年の時を刻んだ、由緒正しき王国の学び舎。近くで見ると年月の重みをより感じさせられた。感心しきりで眺めていると、ふとあることに気が付く。年季の入った建物に紛れて、明らかに近代に作られたものがあるのだ。違和感の無いように外観を似せてはいるが、風化の度合いが全く違う。そういえば、学院の一部は魔法の研究施設となっていると聞いたことがある。そのために一部増築をしたとか。
「――研究?」
 その単語がどうにも引っかかり、ルカは首を捻った。どこかで、同じ言葉を耳にしたような気がする。暫し記憶の中を探って、先程の王と謎の男の会話であることを思い出した。確か、研究室がどうだのと言っていなかっただろうか。マーシェル学院の施設は、全て王国の管理下にある。王に許可を求めたのなら、その研究室が学院のものである可能性は充分ある。だとすれば疑問の一つは解消されるかもしれない。だが、国有の研究施設は他にもある。これだけで断定するべきではないだろう。
 その場でいくらか悩んだ結果、ルカは一度城に戻ることに決めた。放棄するわけではない。先に知識と情報を頭に詰め込むべきだ、と判断したのである。いかんせん、今の自分にはどちらも足りなさすぎる。城の書庫なら国内の研究施設についての資料もあるだろうし、他にも調べられることがあるかもしれない。外に出てきたのは無駄足になってしまったが、次に行動する見当が付けられただけでも意味はあっただろう。
 ――どうせここまで出てきたのなら彼等に会いに行きたい気持ちもあったが、それはまた後日、である。どちらにしても、未だ躊躇してしまう部分も大きかったのだ。しかし来た道を戻ろうと振り返った次の瞬間、ルカは息を呑んだ。視界の端に、今し方までは無かった筈の人影が映り込む。ここから少し先の正門の方だ。無意識にそれを目で追い、それが見知った人物である事を確信する。
「ゼキア?」
 見慣れた青年の姿が、そこにはあった。学院の敷地内から出てきたと見える彼は、背後を振り返ると忌々しげに顔を歪める。ここからでも舌打ちの音が聞こえるような気がした。なぜ、こんな場所にゼキアがいるのだろう。彼の経歴を考えれば貴族街、ましてやマーシェル学院など好んで近付くとは思えない。そんな疑問が頭の中を駆け巡るその間に、ふと視線が交わった気がした。
「……あっ、ちょっと、待って!」
 ルカの存在に気が付いたゼキアは、案の定背を向けて歩き出した。反射的に、ルカはそれを追う。深く考えての行動ではない。いま拒絶されたまま顔を背けたら、余計に会いに行けなくなる気がしたのだ。その衝動が躊躇う心を大きく退け、ルカに足を踏み出させた。憎しみを向けられるのが仕方ないとしても、自分は彼らを好ましく思うし、出来ることなら守りたい。それを伝えておきたかった。
 迷っている暇などなかった。二の足を踏んでいればあっという間にゼキアはいなくなってしまうだろう。幸いにしてルカの俊敏さなら大して距離は開かず、どうにか追いついて彼の腕を掴むことに成功した。こういう時ばかりは、姫らしくない自分の運動神経に感謝する。
「……何の用だ」
 しかし、返ってきた声は酷く冷たいものだった。背を向けたままルカを見ようともしない。予想していたこととはいえ、胸の奥の方がすぎりと痛む。それでも話さなければ、とルカは声を絞り出した。
「謝らなきゃ、いけないと思ったの。その、私の身分とか……黙っててごめんなさい」
 いざ喋り始めると、上手く言葉が出てこなかった。色々と考えていた事は沢山あったはずなのに、面白いくらい纏まらない。辿々しい言葉で、それでも口にして伝えなければいけないと思った。
 ――だからせめて、その間だけでもこの手は振り払わないでいて欲しい。
「でもね、私あなた達といる時間が心地よかったし、貧民街の人達も優しくて大好きよ。無力かもしれないけど、出来ることをしたいと言ったのは本当。それだけは、言っておきたくて」
 言葉選びに苦心しながらもどうにか最後まで言い切ると、ルカは深く息を吐いた。恐る恐る、ゼキアの顔色を窺う。斜め後ろのルカの位置からはその表情を読み取ることは出来なかったが、彼が唇を動かしたことだけは分かった。
「聞いたのか」
 短く、ゼキアは問うた。何を、とは言わない。しかしその言葉が指す内容を、ルカは正しく理解した。
「……うん」
 ゼキアとオルゼスの関係、それにまつわる彼の過去。自分の知らない所で古傷を晒され、ゼキアが不快に思わないはずはないだろう。だからといって嘘を吐く気にもなれず、ルカは素直に頷いた。あの野郎、と小さく漏らされた言葉が耳を打つ。
「話は、終わりか」
 ややあって、ゼキアは平坦な声でそう言った。ルカを責め立てるような真似はしなかった。ただ静かに、掴んでいた腕を振り払われる。無理に引き留めておくことも出来ず、ルカはおずおずと自分の胸元に手を戻した。
「……ルアスにもきちんと話したいんだけど、また行ってもいい?」
 口実、というわけではなかったが、少しでも間を持たせようとその名前を口にする。事情を話しておきたいというのは事実だ。ルアスもまた、大切な友人の一人なのだから。
 尋ねた途端、ゼキアの身体が微かに震えた。また不興を買ってしまったかと一瞬身構えたルカだったが、返ってきたのは想像していたのとは違う言葉だった。
「――あいつなら、いない」
 奇妙なほどに緊張した響きで、ゼキアは告げた。その様子にどこか違和感を覚えながらも、ルカは慎重に言葉を返す。
「別に今すぐってわけじゃないし、都合が悪いのならまた今度出直してくるけど」
「……無事に帰って来れてたら、な」
 低く呟かれた内容に、ルカは眉を顰めた。何か不穏な空気が滲み出てはいまいか。俄かに胸がざわつき始める。
「無事にって、どういうこと? 何かあったの?」
 彼等が暮らす地区は、お世辞にも治安が良いとは言い難い。物取りも横行しているようだし、普通なら街中には姿を見せない“影”さえ現れることがある。ルカもそれを身を持って思い知らされていたし、そもそも悪漢に絡まれたいたルアスを助けたことから交流が始まったのだ。またもやその類の被害にあったのでなければいいが――そう憂慮するルカだったが、残念ながらゼキアの返答はそれを裏付けるものだった。
「攫われたんだよ。得体の知れない奴に」
 淡々と返された言葉をその言葉を咀嚼するのには、幾ばくかの時間を要した。理解した瞬間、ルカは叫ぶ。
「……攫われた!? 誰に! どこに!」
「そんなもの俺が訊きたいっての! そうじゃなきゃこんな所までわざわざ来るか!」
 遠慮も何もかなぐり捨てて食らい付けば、堪りかねたたというように相手も叫んだ。そこで、初めて視線が重なる。あまり顔色が良くない。目の下にはうっすらと隈も見える。よほど心配して探し回っていたのだろう。守りたい、と決意した傍からこんな事態になっていようとは。
「……騎士団には?」
「連中がこれしきで動くとは思わねぇな」
 即座に、ルカは自分の発した質問が愚かであったことに気付いた。今の騎士団など本来の役割を放棄しているも同然である。それを知ってあれほど悩んだというのに、未だに理解していない自分の心が憎らしい。あの組織に、期待などしてはいけないのだ。直接オルゼスに掛け合えば或いは、とも思ったが、彼の前でその名を出すことは憚られた。
「得体が知れないって、どういうこと? 相手の特徴とかは?」
 せめて少しでも状況を知りたいと、矢継ぎ早に問い掛ける。ルアスが心配なのは自分も同じだ。しかし次に放たれたゼキアの言葉に、ルカは閉口した。
「それを知って、どうする。自分がどうにかするとでも言うつもりか?」
 ある種の高揚感で浮ついて心が、一気に冷え切っていくようだった。声音から伝わる、拒絶の感情。ルカが最も恐れていたものだ。どうせ何もしない、何も出来ないのだろう。そう、言外に告げられているようだった。
 ――それでも、目を逸らしてはいけない。そう決めてきたのだから。竦みそうになる意志を叱咤して、ルカはゼキアの瞳をきつく睨んだ。
「確かに私は世間知らずだし、王族だけど立場も弱いし、持ってる力はたかが知れてるわよ……でも、出来ることをするの! 今、そう言ったところよ」
 きっぱりと、ルカは言い切った。大言壮語なのかもしれない。だか、始めから諦めるよりは余程いい。往生際が悪い、とでも言われるだろうか。それでもここで引き下がろうとはもう思わなかった。
 束の間、沈黙が重くのしかかる。ゼキアはすぐに口を開かず、無言でルカを睨み返す。その瞳には、微かに迷いのようなものがちらついているようにも見えた。
「……ルアスの知り合い、らしい。マーシェル学院の講師だとか言ってたから来てみたのはいいが、知らぬ存ぜぬの一点張りだ。挙げ句叩き出されてこの様だよ」
 視線を外すと、ゼキアは苦々しげに顔を歪めながら語り始めた。それに安堵と僅かな喜びを覚え、そして彼がこの場にいる理由に得心がいった。
「見た目とかは?」
「痩身で黒髪のぼさぼさ頭、目も多分黒、性別は男。……それぐらいだな。ルアスはシェイド、って呼んでたが」
 ゼキアが話す内容を、ルカはしっかりと頭に刻み込む。王城にもマーシェル学院の関係者が訪れることがある。見逃さないようにしなくては――そう気を引き締めたところで、ふと脳裏に城で目にした光景が蘇った。黒髪黒目の、痩身。それは王と密談していた、あの男にも当てはまらないだろうか。そこで交わされていた言葉、そしてゼキアが語ったこと、マーシェル学院。一つ一つが、糸で繋がっていくような気がした。
「学院に研究施設があって、ルアスを攫ったのは学院の講師で、じゃああの時話してたのって……」
「……何言ってるんだ、お前」
 突如ぶつぶつと呟きだしたルカに、ゼキアの不審そうな視線が刺さる。しかし、そんなことに構ってはいられなかった。もし、あの話にルアスが巻き込まれていたとしたら。
「まさか、とは思うんだけど。その人って見るからに不健康そうで、変な気配があったりしなかった? ……“影”みたいな」
 ルカがあの男が残した強烈な印象が、その気配だった。本能的な恐怖を掻き立てられるような感覚。とても人とは思えない、あの空気。そうそうお目にかかるものではないのは確かだ。一致すれば、間違いなく同一人物だろう。しかし、そんな偶然があるものだろうか。尋ねながらも半信半疑だったが、瞠目するゼキアに自分の推測は正しいと悟った。
「――知ってるのか!?」
「やっぱり、そうなのね」
 こんな風に繋がってきたのは、ルカ自身も思いも寄らない事だった。件の話を一番初めに共有するのがゼキアになるとは。躊躇うこともなく、ルカは城の一室での出来事を話すことにした。本来ならあまり軽々しく話すものではないのだろうが、もはや彼も当事者だ。少しでも情報は共有した方がいい。あんなおぞましい存在が王の傍にいて、ろくな事など有るわけがないのだから。
 王と話していた男が同じ人物だろうということ、その会話からよからぬ事を企てているようであること、そして恐らくそれにルアスが巻き込まれたこと。それらを説明するうちに、ゼキアの表情が俄かに険しくなっていく。
「面倒な上に、規模のでかい話だな……とんでもないことに巻き込まれたもんだ」
「でもルアスを見捨てる気はないでしょ」
 確認するように問うと、ゼキアは俯き深い溜め息だけを返した。是、ということなのだろう。もちろん、彼が首を振るとは思っていなかったが。
 とはいえ、騎士団があてにならない以上は自力で活路を見出さなければならない。無論そうしようとしたからこそ彼はここにいるのだが、それは阻まれてしまった。学院とは無関係の一般人、それも貴族で言うところの卑しい身分の者をそう簡単に中には入れてくれないだろう――だが。
「……あのね、学院の中を調べるのは、私がなんとか出来るかもしれない」
 そう言った瞬間、ゼキアは弾かれたように顔を上げる。ただ、その眼差しは疑念の含まれたものだった。どうする気だ、と言いたいのだろう。そんな彼に向かって、ルカは悠然と微笑んだ。
「私を誰だと思ってるの? 騎士や臣下達を動かせるような権限は無いけど、私自身が中に入れて貰うくらいならなんとかなるわ」
 わざとらしいくらいに力を込めて、ルカは断言した。曲がりなりにも自分はエイリム王の実子だ。例え煙たがられる存在であったとしても、その事実は変わらない。権力とはこういう時に使うものだと、ルカは思っている。そう強く心に言い聞かせて、ゼキアの肩を叩いた。
「本気、か?」
「当然。まぁ、追い出された直後の人間も一緒にってなるとちょっと難しいかもしれないから、一人で行ってくるわね。貴方は少し休んだ方がいい気がするし」
 顔色の悪さを指摘すると、ゼキアは気まずそうに目を逸らした。やはり、疲れているのだろう。それでもなかなか頷こうとはしない。
「何か分かったら、必ず報せるから」
 少しでも安心させようと、重ねてそう言った。ゼキアは暫し逡巡する様子を見せたのの、やがてゼキアは一つ息を吐いた。
「……どっちにしたって、今日のところは退散するしかなさそうだ。手掛かりがあれば、頼む」
「まかせて。じゃあ、後でね!」
 ゼキアの言葉に、ルカは強く頷き返した。僅かでも寄せてくれた信頼を裏切ることは決してするまい。ルアスも、きっと助けてみせる。その誓いを胸に、ルカはゼキアを残して駆け出してた。去り際に小さく無理するなよ、と聞こえた気がして、口元は自然と綻んでいた。

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