光と影と 9

 深い闇に潜った先でゼキア達を待ち受けていたのは、目を覆いたくなるような光景だった。
 古く、今にも崩れそうな階段を下りきると、上の階とよく似た通路が更に続いていた。規則的に並んだ牢と、冷たく湿った石の壁。格子の向こうには、やはり捕らわれの身となった人々の姿があった。
「これは……」
「……あまり見ない方がいい。進むぞ」
 俄かに青ざめたルカを促し、自分はエルシュを庇うようにして歩を進める。半歩後ろを歩く少女の顔色もまた、蒼白だった。唇をわななかせ、それでも取り乱さずに気丈に明かりを保っている。
 牢の中からゼキア達を見つめていたのは、夥しい数の骸だった。殆どは既に肉が削げ落ち白骨化しているか、或いは水分を失って干からび枯れ木のような有り様である。いずれも全身が元の形を留めているものは少なく、捕らえられた囚人の顛末は想像に難くなかった。
「胸糞悪い……」
 転がっていた骨片が靴に当たり、からん、と乾いた音を立てる。盛大に顔をしかめながらも、歩調を緩めずにゼキアは進んだ。こんなものを見付けてしまっては、尚更急がなくてはいけない。間違ってもルアスをこの骸達の仲間入りさせるわけにはいかなかった。怯える女性二人を気遣ってやるべきところなのだろうが、何かあってからでは遅いのだ。
 ――それに、寒気がする。室温のせいでも、無残な遺体のせいでもない。シェイドという男と対峙した時の、得体の知れない悪寒。あの時同じだった。確実に、近付いている。
「……扉がある」
 押し黙っていた口を開いたのはエルシュだった。見やすいようにと配慮してか、彼女が掲げていた光球を少し前に移動させる。すると、仰々しい両開きの扉が闇の中にくっきりと浮かび上がった。
「この先、だろうな」
 確信できるだけの気配が、そこにはあった。閉ざされた扉の微かな隙間から、封じられた闇が少しずつ這いだしてくるようだった。足元から冷気がじわじわと身体に絡みついてくる。不愉快極まりない、今すぐとって返したくなるような感触だった。だが、その本能に従う気などない。
 背後の二人に目配せすると、ゼキアは意を決して扉に手をかけた。意外にも道は簡単に開かれる。扉は錆び付いたような音を立てながらも、緩やかに向こう側へ動いた。その先には、確かに求めていたものがあった。まず見えたのは異形の化け物、そして痩身の男――今にも黒い影に絡め取られようとしている、銀髪の少年。
「――ルアス!」
 叫ぶと同時に、ゼキアは飛び出していた。一気に距離を詰め、ルアスに伸ばされていた黒い手を剣で切り払う。手応えはなく、煙を切っているようだった。影は霧散したものの、瞬時に元の形に集束し主の元へと戻っていった。即ち、シェイドの手に。
「おや、思ったより早かったね。参ったなぁ」
「そっちの都合に合わせてやる義理は無いからな」
 手元で燻る影の残滓を見ながら、シェイドは僅かに微笑む。台詞とは裏腹に、彼に焦った様子は微塵もなかった。これくらいは予想済み、といったところだろうか。
 ちらり、と背後の少年達を窺う。座り込んだルアスの傍にはルカとエルシュが寄り添っていた。ルアスは呆然した表情でかなり参っているようだったが、ひとまず命に別状は無いようだった。とりあえずはルカ達に彼を預けることにして、ゼキアは改めて敵を見据えた。剣を構え、男を睨みつける。
「物騒だなぁ。少しは話を聞こうと思わないのかい?」
「必要性を感じないな」
 鋭く言葉を返しながら、シェイドを観察する。相対する彼は余裕ぶった態度を崩さない。ここに来るまでに得た情報だけでも、この男がただの人間ではないことは容易く想像できた。“影”か、もしくはそれに近い何か。こんなにも人間そのものの形を取る“影”は聞いたことも無かったが、長く力を蓄え続けてきたなら有り得ないことでもない。一度その姿を見た時に感じた気配は相変わらずだ。いや、更に異様さを増しているようにさえ感じる。隠す必要が無くなったから、だろうか。それとも傍らにあるもう一つの存在が力を増長させているのか。
 そこにいたのは化け物だった。姿こそ人を模してはいたが、あまりにも歪な見た目である。天井まで届きそうなほどの背丈、つぎはぎの皮膚、身体を包む黒い靄。感情の色を全く見せないそれは、粛々と主に従う僕のようにシェイドに寄り添っていた。そしてやはり、“影”と同じ本能的な恐怖を刺激する気配。
 今し方目にした骸たちの残像がよぎる。彼等は、あの化け物たちに害されあのような姿に成り果てたのだろう。あと一歩遅ければルアスも、と考えると途端に背筋が寒くなった。
「ルアスは返してもらうぞ」
「返すも何も、彼は元々学院で過ごしていた学生だよ」
「そういう事実をでっち上げて騙してたんだろ」
 白々しくも講師と学生という関係を装おうとするシェイドの言葉を、きっぱりと切り捨てる。相手もそうな嘘が通用するとは思っていなかったのか、軽く肩を竦めて見せただけだった。いかにも人間らしい仕草だ。それに戸惑った、というわけではないが、ゼキアはこれからどう行動するべきか決めあぐねていた。はぐらかしているが、シェイドに素直にルアスを返す気が無いのは明白だ。彼は影を自在に操れるようだし、もう一方の化け物に至っては何もかも未知数だ。自分一人でどこまで対応出来るものか――最悪でも、ルアス達を逃がさなければ。
 しかしこちらの事情を相手が汲んでくれるわけもなく、シェイドは更なる爆弾を投下してくれた。
「まぁ、そんなに怖い顔しないでよ。王国のためにやってることなんだよ――ねぇ、陛下?」
 シェイドがそう言いながら振り返った瞬間、何も無かった筈の空間に変化が起きた。部屋の隅、魔法で作り出した光からも逃れた、凝縮された闇。その闇が、微かに揺らめいた。そして縦横に切れ目が入ったかと思うと、波が引くようにするすると闇が床に吸い込まれていく。代わりに姿を現したのは、一人の男だった。短く刈った青い髪に青灰色の瞳を持つ、やたらと豪奢な服を身に纏った男。
「――お父様!?」
 背後でルカが叫ぶ。直前のシェイドの発言でまさかとは思ったが、彼女が父と呼ぶなら確定だ。エイリム王国の現王、レミアス。家族の、村の敵である。決して会いたかったわけではないが、平民の自分が直接お目にかかることは一生無いだろうと思っていた人物だ。なぜこんな場所に、と思ったが、瞬時に考え直す。別段、不思議なことはない。元々この件に王が関わっていることは分かっていたのだから。レミアス自らこの場に足を運ぶこともあったのだろう。
 それよりも、同じ室内にいたというのに全く気付かなかったことを不気味に思うべきだろう。いくら暗いといっても、目視できない範囲ではない。だというのに、気配すら感じられなかった。まるで“影”に守られていたかのように。
「……まさか、国王まで同類っていうんじゃないだろうな」
「それはないわよ。私が証人」
 思わず口から出た言葉を、ルカが否定する。“影”が人の子の種を持っているとは考えにくいから、彼女が王の実子である以上その可能性は低い、ということだ。シェイドの庇護を受け、“影”達を味方につけている、といった所だろうか。
 それにしても困ったことになった、とゼキアは思う。父親の登場となっては、恐らくルカはこの場に留まりたがるだろう。これまでの行動で、なんとなく分かってしまった。ルアスとエルシュを連れてさっさと逃げてもらおうと画策し始めたばかりだったのに、台無しである。
「……もう一度訊くけど。こんな惨いことをしているのは貴方の命なのよね。何のために?」
 予想に違わず、ルカはゼキアの傍らまで進み出る。強張った声からは、憤りとも悲哀とも呼べる感情が伝わってきた。対してレミアス王は、耳障りな羽虫の音を聞いた時のように眉をひそめた。
「……ただの副産物の分際で、やかましいことだ。大人しくしていれば己の身くらいは守れたものを」
「何、ですって?」
 まるで答えになっていない言葉に、ルカは激昂し声を震わせた。今にも飛びかからんとする勢いだったが、さりげなくゼキアが目線で制したことで睨み返すに留まった。“影”が付いていることが分かっている以上、下手に手を出すのは危険なのだ。
 そんな娘の感情など歯牙にも掛けず、レミアスはシェイドと異形の化け物を振り返る。
「手筈通りだシェイド。こやつも取り込んでしまえ。凡人でもいくらかの魔力は身体に宿るものだ。多少の足しにはなるだろう」
 一瞬、理解が追い付かず、何の話かと思った。しかしまもなくその意味を察し、ゼキアは己の耳を疑った。視界の端に、絶句するルカの青ざめた顔が映る。如何に情が薄いとて、こんな台詞が簡単に口に出来るものだろうか――未知の化け物に、娘を食らえ、など。
「陛下も人が悪い。少々お姫様が可哀想になってきましたよ」
 少しも哀れんでいるようには聞こえない口調で、シェイドはわざとらしく肩を竦めた。それを一瞥し、レミアスは失笑する。
「心外な。閉じ込めて、大人しくしていれば邪魔は入らず、向かってくるなら餌が釣れると言ったのはお前だろう」
 返された言葉にも、シェイドは笑みを深めるばかりだった。仕組まれていた、のだろうか。それならここまで敵の気配が殆ど無かったことも納得できる。だからといって、ルアスを放置しておく選択肢など無かったのも確かだ。
「……とことん性格悪いんだな。何が国のためだって?」
 ルカに代わって、ゼキアが質問を引き継ぐ。先程から、不愉快極まりない台詞ばかりだ。彼らの言い草は、まるで出来の悪い家畜を扱うかのようだ。決してルカに友好的だったとは言えない自分でも、横で歯噛みする彼女の肩を持とうというくらいには腹立たしい態度である。
 相手の態度が気に食わないという点ではお互い様なのか、ゼキアに視線を移したレミアスはさも不機嫌そうに顔をしかめた。塵芥でも眺めるかのような侮蔑の瞳に、思わず噴き出しそうになった。人を人とも思わない下衆男。雲の上に御座すエイリム国王が自分の想像していた通りの屑と分かって、もはや笑うしかない。
 そんなゼキアにつられたわけでもあるまいが、レミアスは突然くつりと喉を鳴らした。歪んだ笑みを浮かべ、宣言する。
「……良いだろう。お前のような愚民にも、特別に教えてやろう。エイリムの民が予をなんと呼ぶかは知っておろう」
 それが先程の問いに答えるものなのだとゼキアが理解するのに、幾ばくかの時間を要した。それを埋めるようにして、ルカが応える。
「……エイリムに多大な富をもたらした、大いなる覇王、と」
 ルカが口にした王を讃える言葉に、ゼキアは酷く苛立った。何が富をもたらした、か。苦しむ民を蔑ろにしたまま、搾取を続けているだけだ。いつまでもこんな状態で持つわけがない。遠からず国が傾くに決まっている。
 そう全力で否定して罵詈雑言を浴びせてやりたい所ではあったが、発言した本人が渋い表情をしているのを見て口を噤んだ。ルカとしても納得のいく評価ではないらしい。あくまで民がそう呼んでいる、ということである。確かに、そういった一面も事実ではある。その恩恵に預かれる層の人間には、レミアスはさぞかし良い王に見えるのだろう――そんな人間は、ごくごく一部であるが。
 しかし王本人はさも得意気に鼻を鳴らし、胸を張って尊大にゼキア達を見下した。
「そう。一代でこれほどに国を大きくした英雄であるぞ。予の代が続けば更にエイリムは豊かとなろう。ゆえに、予は永久に玉座にあり続ける……これはそのための道具だ。予に後継など必要ない」
 吐き捨てるように最後に添えた台詞はルカへのものか、レミアスは忌々しげに彼女を睥睨した。
 その視線を受けながら、ルカは憤りは悲しみや憤りより困惑したような表情でレミアスを見返す。呆れている、とも言えるだろうか。奇しくも、ゼキアもほぼ同じ心境であった。レミアスの発言はあまりに荒唐無稽で、理解に苦しむものだった。英雄、などという呼称は自称するものではないし、王であり続けるといっても寿命がくればそれで終いだ。
 この男は、何を言っているのだろう。そんな疑問を見透かしたように、レミアスは更に語る。
「予は、永遠を手に入れる。魔力を凝縮したこの“神”の力さえあれば可能なことだ。そのために全てを捧げてきたのだ……他国への侵略も止めて研究に費やした。全てが整った後、ゆっくりと手に入れればいいからな」
 ――当代の王は、武学は秀でていても他の知識と冷静な思考回路を欠いているようだ。思わず、そんな皮肉が口をついて出そうになる。魔法で不死の妙薬が製造できるとでも思っているならお笑い種だ。
 どんなに強い魔力があったとしても、人に使える力など限られている。不死やそれに通じる魔法があるなら、今日もっと研究が進んでいることだろう。治癒魔法などは治療対象の魔力を底上げする形で施されるからそもそも理論が違うし、あれに必要なのはむしろ封力の方だ。よしんば本当に不死の術が存在していたとしても、魔力に身を食われるだけだろう。少しでも魔法を学んでいれば、そんな理論すぐに分かりそうなものである。
 詳しい経緯は知る由もないが、十中八九シェイドがあらぬことを吹き込んだのだろう。非難の視線をその男に投げると、やれやれというように溜め息をついた。
「私が責められる謂われはないよ? 陛下とはちょうど周辺国を侵略し終えた頃に知り合って……まぁ、利害の一致ってやつだね」
「……国王はお前の正体を知ってるのか」
「もちろん。私が“影”そのものである事実は、一番始めにお話ししたよ」
 事もなげに告げられた台詞に、ゼキアは眩暈を起こしそうになった。人ではないことなどとうに確信していたことだったが、こうも簡単に言ってのけるとは。知られたところで大した問題にもならない、ということだろうか。
「……つまりこの男が何か知った上で、民を苦しめると解っていて、あえてこんな事してるわけ? 為政者のやることとは思えないわね」
 ルカが語を継ぐ。それを受けた王が、胡乱な目で彼女を見返した。
「予の統治の元、エイリムは発展していくのだ。苦しむといっても、どうせ民の義務も果たせぬ役立たずばかり。そんな者でも国の礎になれるなら喜ばしいことだろうよ……そんなことも解らぬとはつくづく愚かな娘だ。予の研究を奪おうとするほどの知恵が無かったのは幸いだったとは、塔の中で思ったがな」
「――まさか、塔に私のことを見に来たのはそのため!? こっちこそ、我が父ながら頭が痛くなってきたわよ……!」
 ルカが捕らえられていた時にどんなやり取りがあったか詳しくは知らないが、それでも彼女が心底呆れ果てているのは感じ取れた。この王は、予想以上に救いようがない男なのかもしれない。
「まぁ、問答もそれくらいにしたら? いいじゃない、君達も世の中には散々絶望させられてきただろう。誰が死のうが国が滅ぼうが、この際どうだって」
 一連のやり取りを見ていたシェイドが笑う。この男にしてみれば、人の命など羽のように軽いものなのだ。
「冗談じゃねぇよ。これ以上関係ない人間巻き込んで好き勝手されてたまるか!」
 苛立ちのままに吐き捨てる。どうでもいいなら、最初からこんな所まで乗り込んで来はしない。絶望し、嘆いても、滅んでしまえとは思わない。大切なものが残っているのも、また事実なのだ。彼等は、それを解っていない。
 しかしゼキア以上にシェイドの言葉に異を唱えたのは、意外にもレミアスの方だった。
「何を言うておるのだ、シェイドよ。国が滅びては王座の意味がない。予は永久の王国に君臨せねばならん。お前もそう言っていたではないか!」
 相変わらず気が触れたかとでも問いたくなる発言だが、一方で筋が通っていることもあった。国が滅んではレミアスの目的は達せられない、という部分だ。シェイドとレミアスの意見が、食い違っている。協力者ではなかったのか、と非難する響きがレミアス王の声にはあった。
「まぁ、確かに言いましたけどね。私にも色々とあるんですよ」
 やれやれと言わんばかりに、シェイドは息を吐いた。唐突に意見を翻したかに見える男は悪びれた様子もない。
「何のつもりだ――」
 レミアスの問い掛けは最後まで発せられることはなかったが、程なくしてその答えがもたらされることとなった。
 どす、という鈍い音が聞こえた。予兆も何も無かった。瞬きするほどの間に床からは巨大な黒い棘が飛び出し、レミアス王の胸を刺し貫いていた。自らの胸に刺さった棘を目にし、王は瞠目する。なぜ、と、微かに唇がわなないた。
「陛下の大言壮語にもそろそろ飽きてきたもので。協力には感謝していますよ。お陰で“神様”もほぼ完成だ……でも、私の望む世界に、人間は要らないんだよ」
 言い終えると同時に、シェイドが片手を緩く横に払う。それに連動するように黒い棘が引き抜かれ、栓を失ったレミアスの胸からは血潮が噴き出した。一瞬の間を置いて、力を失った身体が赤い水溜まりに倒れ込む。一度だけ咳き込むように胴を震わせると、レミアスは二度と動かぬ肉塊となった。
 だが、目の前の惨劇はまだ終わらなかった。
「全く、最期まで馬鹿で助かったよ。私もここまで信じ込んでくれるとは思ってなかったんだけどね……その点、お姫様の方がまだ賢かったかな?」
 眉一つ動かさず、シェイドはエイリム王の愚かさを皮肉った。あまりに唐突な出来事に、みな言葉を失っていた。悲鳴を上げることも、罵声を浴びせることも出来ずに立ち尽くす。それとは裏腹に、心中はひどく乱れていた。実父の酷い最期を見せ付けられたルカに、未だ幼さも残す年齢のルアスとエルシュ。穏やかでいられるわけがない。――だから、再びの異常に気付いたゼキアは、比較的冷静な方だったのだと思う。
 ざわり、と空気が気味悪く揺れた。視界の端に、微かに黒い靄のようなものが映る。出所はすぐに知れた。シェイドの傍らの、あの化け物だ。身体の継ぎ目から漏れ出した靄は触手の如くレミアスに伸ばされ、何かを言いたげにその骸を撫でる。しかし、まるで労っているかのようにも見えた仕草は、与える印象とは真逆の意味を持っていた。
「……悪食だねぇ。まぁ美味しくはないと思うけど、好きにおしよ」
 化け物の仕草に、シェイドが呆れたような声をかける。それを合図にして、骸に伸びた靄に変化が起きた。あやふやだった触手の輪郭が明瞭になり、実体を伴った存在となる。それが化け物の身体から幾重にも這いずり出し、物言わぬレミアスを覆い尽くしていく。
 その瞬間ゼキアの脳裏に通路で見た光景が蘇った。あの、夥しい無惨な死骸たち。それがどうやって生まれたのか――目の当たりにすることになった。
「見るな!」
 咄嗟にルカを後ろに押しやったが、間に合ったかどうかは分からない――いや、恐らくは遅かっただろう。
 何かが折れるような鈍い音が、断続的に響く。レミアスの身体は有り得ない方向に捻じ曲げられ、いとも容易くばらばらになった。首は落ち、四肢は千切られ、胴体は真っ二つに。切り分けられた部位にはそれぞれに触手が群がり、その血肉を吸収していった。触手に触れられた部分は酸が撒かれたように溶け出して、そのまま影の中へ沈んでいく。化け物の食事はあっという間だった。その所業にゼキア達が呼吸を忘れるうちに、レミアスは通路にあった死骸と同じ姿に成り果ててしまった。煌びやかな衣装の切れ端だけが、エイリム王の面影を残している。
「さて、と」
 場にそぐわない軽い声で、シェイドが呟いた。もう興味はない、というように、レミアスだったものの残骸から視線を外す。向き直って、次に目をやったのはゼキア達――正確には背後に庇われた光の子らである。それが意味することを悟り、ゼキアは剣の柄を握る手に力を込めた。
「私が望むのは影の民の安寧。光の加護なんていう、ふざけたものが存在しない世界だよ。そのための“神様”だ。光の子らには尊い犠牲になってもらって、もちろん残りも消えてもらう」
 全身に、悪寒が走った。辺りの空気が変わる。シェイドと異形の化け物を中心にして、目には見えない鋭利な刃が張り巡らされているようだった。押し包まれていた殺意が顕在化し、それらの刃は今にもゼキア達を切り裂こうと狙っている。
「――逃げるぞ!」
 辛うじて先に行動することに成功し、ゼキアは剣を斜めに薙払う。その動作と共に、魔力が爆発した。渦巻く炎が生まれ、部屋ごとシェイド達を飲み込み、もはや腐りゆくだけだった死骸たちを燃料にして、炎は薄暗かった室内を煌々と明るく照らし出す。
 へたり込んだままだったルアスの腕を無理矢理ひっぱり、ゼキアは全力で駆け出した。弾かれたようにして、ルカとエルシュがそれに続く。上手く不意をついたようにも見えるが、長く時間は稼げないだろう。“影”の親玉のような存在だ。そう簡単に焼け死んではくれないだろう。以前相手にした双頭の獣でさえ魔法は効果が無かった。どうせまともに相手をしても歯が立たない。一度身の安全を確保して、それから対策を考えるべきだ。とにかく、今は外へ――。
 しかし、敵の追撃は思った以上に早かった。両側に牢屋を見ながら道を駆け抜けを抜け、どうにか外への隠し通路へ辿り着こうかという時である。背後で、唸るような轟音が響き渡った。
「ゼキア!」
 切羽詰まった声に振り返ると、たった今抜けてきた地下からの出口に夥しい数の“影”の触手が蠢いていた。そのすぐ後ろには、化け物の本体が道につっかえて呻いているようだった。その巨大な質量に壁は耐えられず、触手に押し広げられて脆くも崩れ去っていく。化け物は、もうすぐそこだ。
「くそっ……!」
 ここで食い止めて、他の者を先に逃がすしかない。そう覚悟した時、最後尾を走っていたエルシュが毅然として振り返ったのを見た。彼女は両手を前に突き出すと、深く息を吐く。ふわり、と金の髪が揺れる。その指先で空気が渦を巻き始めた。それが勢いよく飛び散ったかと思うと、次の瞬間這い回っていた触手達が千々に引き裂かれ悲鳴を上げた。風の刃だ。流石は光の愛娘、と言うべき威力で、千切れた触手は地に落ちた水滴のように溶け、本体に近い部分は激痛に悶えるように大きく波打った。明らかに、化け物の動きが鈍る。
 だが、このまま逃げ切れる、などという希望は、あまりにも儚いものだった。
「きゃああっ!」
 甲高い悲鳴。切り裂かれ二度と動かないかに思われた触手の断片が、蛇のようにエルシュの足首に絡み付いた。再び駆け出そうとしていた彼女は予想外の力で引き倒され、強かに身体を床に打つ。
 そこからは、あっという間だった。辺りに散らばった触手の切れ端が次々と息を吹き返し、倒れた少女に群がっていく。両腕を、下肢を、首筋をきつく締め上げ、エルシュは悲鳴を上げることもままならかった。
「エルシュ!」
 項垂れたまま無言だったルアスが、その光景を前にして初めて声を上げた。焦って彼女に手を伸ばそうとするが、既に遅い。地下から身を乗り出した化け物の本体がエルシュを捉え、見る間に身体が飲み込まれていく。全てが黒く覆い尽くされる間際、少女の唇が何かを伝えようと動いた。
 ――にげて、と。
 断続的に響く、ぼきり、という鈍い音。つい先程までいた地下室での場面が脳裏をよぎる。エルシュがどうなったのかを知るには充分だった。充分、すぎた。
 エルシュを取り込んだ化け物は、一時の満足を得たのか階下に戻るように身体を引きずり始める。手に入れたご馳走を、自分の巣でゆっくりと食そうとでもいうように。
「――待ちなさい!」
「待つのはお前だ、馬鹿」
 それを追おうとしたルカの手を、ゼキアはすんでのところで掴んだ。振り返った彼女の瞳に、憤りの炎が煌めく。
「なんでよゼキア! 離して!」
 叫んだ声が刺々しく避難めいたものだったのは、仕方のないことだったと思う。しかし、ゼキアが彼女に同調することは出来なかった。
「……手遅れだ」
 静かに、頭を振る。ルカの顔がさっと青ざめた気がした。何かを言おうとして口を開き、言えずに唇を噛む。同じ光景を目の当たりにして、彼女とて解っている筈だった。だが、受容できるかは別の話なのだろう。それはゼキアにとっても同じことで、出来ることならあの化け物を追いかけて少女を救い出したかった。
「でも」
「逃げろ、と言っていた。見てなかったか? 今なら脱出するくらいの時間はある。それに……」
 尚も言い募ろうとするルカを遮り、ゼキアはもう一人の人物に視線を投げる。
「考え無しに戻っても、全員あの化け物の腹に収まってお終いだ。あいつはルアスを助けたくて色々してたんだろ。それも叶わなくなる」
 ルアスの表情はひどく強張り、顔色は蒼白だった。シェイドもエルシュも、かつて彼のすぐ傍にいた人物だ。唐突にこんな現実を突きつけられて、平静でいられる筈もない。今、彼が自分の足で立っているのも奇跡に近いのではないだろうか。だからこそ、この少年を守ってやらなければならない。
 目線をルカに戻すと、彼女は無言で化け物が去っていく方向を見つめていた。次にゼキアの、ルアスの顔を見、ようやく言葉を絞り出した。
「……行きましょう」
 一言そう告げると、ルカは足早に出口への道を進み始めた。何かを振り切るように、あるいは目を背けるかように、歩みは次第に速度を増していく。それが決して“影”への恐怖心のせいばかりでないのは、言わずと知れたことであった。
 ルアスはその場に硬直したまま動こうとしない。その姿に何か声をかけようと逡巡して、ゼキアは結局口を閉ざした。今、何か言ったとしても上滑りな言葉になるだけだと思った。エルシュを見捨てたと、ゼキアを恨むならそれでもいい。
「……行くぞ」
 半ば無理矢理ルアスの手を引き、ルカの後を追った。この先の階段を上り切れば、光の差す地上である。

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