光と影と 3

 学院の敷地に足を踏み入れるのは、呆気ないほど簡単だった。まずは門前の警備に声を掛け、学生に知り合いがいるので面会に来た、と言う。先程のゼキアの件もあってか初めこそ疑わしげな視線を向けられたが、金細工の小さなブローチを握らせるとあっさりと引き下がってくれた。街に出る際に、必要なら換金できるよう常に持ち歩いていた物である。幸い、最近は金を使うような事は殆ど無かったし、装飾品などルカには不要である。役立つ機会があって良かったというものだ。警備の彼は、暫く仕事をしなくていいくらいの金が懐に入ることだろう。双方の行為が褒められたものではないことなのは充分理解していたが、今は仕方がないと割り切ることにする。
「西側の研究室、だっけ」
 王が口にしていた言葉を思い出しながら、ルカは堂々と正門を抜ける。学舎までの道は、優美な庭園と一体化していた。煉瓦で作られた赤い通路の脇には低木の緑が鮮やかに映え、広々とした花壇には季節の花々が咲き誇っている。中央の幅の広い道を通っていけば一番大きな学舎へと突き当たるが、用があるのはそちらではない。ルカは学舎を横目に見るようにして、交差している別の道を辿り始めた。幸いにして、庭園内に人の気配は少ない。あまり学生が出歩く時間帯ではないようだ。元々研究者やそれに投資する貴族などの出入りもあるし、ルカがうろついていたところでさほど目立たないだろう。
 不審に思われない程度に辺りを窺いつつ、それらしき場所に目星を付ける。先程、門の外から眺めていた建物だ。無造作にそこへ近付こうとして、ルカは不意に進行方向を変えた。入口と思しきあたりの周辺に、いくつかの人影を見つけたからだ。学生か研究者か、そこまでは分からなかったが、どちらにせよ何か尋ねられても誤魔化せるだけの話術が自分に扱えるとは思わなかった。顔を合わせない方がいいだろう。正面ではなく建物の壁に沿うようにして裏側へと回り込み、そこで一旦息を吐く。
「……大丈夫そう、かしら?」
 とりあえずは気付かれずに済んだことに、ルカは胸を撫で下ろした。しかし、問題はここからである。庭園内だけならともかく、施設の中を好き勝手に歩き回るのは難しい。門の警備と同じ手を使うことも出来るかもしないが、本当に王が関わっているのなら通用しないだろう。他の手段を考えなければならない。
 建物の裏手は日が陰り、どこかじっとりとした空気が滞っていた。壁を形成する煉瓦も、どこか湿り気を帯びている。よく見れば触れた煉瓦は角が取れて滑らかで、他の学舎と同じくらい古い物のようだった。正面から見た時には分からなかったが、裏手は昔の建築をそのまま利用しているらしい。
 流石にこんな所に用事のある者はいないのか、通りかかる影もなかった。人目がないのなら堂々と動ける。窓や換気口があれば侵入するか、それが無理でも中の様子を探るくらいは出来そうだ。そう思い立つと、ルカは早速周囲を調べ始めた。だが生憎と窓は二階以上の高さにしか無く、とても利用出来そうにない。よじ登れないだろうかとも思ったが、凹凸のない壁を自力で上がっていくのはかなり厳しい。
「やっぱり正面突破しかないかしら……ん?」
 一人ごちながら目の前の壁を眺めていると、ふとある箇所に目が止まった。一見、何の変哲もないただの石壁だったが、よく見る僅かに色の違う、親指大ほどの石がはめ込まれていた。それには小さな傷のようなものが刻まれており、三角形を組み合わせた模様のようにも見えた。その形に、見覚えがある。
「これって、隠し扉の……」
 まさか、と思いつつも自分の持つ銀の指輪――王城の隠し扉の鍵を取り出す。やはり、同じ模様だった。更に、その真下の地面には擦れたような白い傷がついている。王城の仕掛けでも同じような跡が残っていた。扉の鍵となる指輪はいくつか同じ物があるが、古くから国に伝わる宝とされ王族しか持つことは許されていない。ルカ以外にこれを所有している人物は、一人しかいなかった。予想が確信へより近付いていく。やはり、王はここを訪れているのだ。
 恐る恐る、自分の指輪を模様の刻まれた場所に翳してみる。すると、案の定ほのかに壁が発光し、丁度人が通れるほどの穴が現れた。入口の先はすぐ階段になっており、地下深くへと続いているようだった。見たところ明かりは無く、非常に狭い通路が続いている。そこから地上より少し冷たい空気が漏れ出し、肌を撫でていく。それがまるで深淵に誘われているかのようで、ルカは思わ唾を飲んだ。
「行くしか、ないわよね」
 身体の奥からせり上がってくるような恐怖を振り払うように呟く。指輪を服の定位置に仕舞うと、ルカは意を決して階段へと足をかけた。
 一歩ずつ、確かめるように道を下っていく。何歩か奥へ進むと、不意に入口から差し込んでいた光が消えた。開いていた穴が元通りに塞がれたのである。それと殆ど同時に、足元に朧気な明かりが点る。やはり、ルカが使っていた抜け道とよく似ていた。その昔王族のための隠し通路があちこちに造られたというが、それがこんな所にも残っていたとは。
 慎重に足を進め、ようやく階段を下りきり息を吐く。通路は平坦になったが、その幅はやはり狭い。明かりが点いたとはいえ歩くには心許なく、ルカは壁伝いに辺りを探りながら先へ進んだ。ざらついた石の感触を手に感じながら歩く。距離はそれ程無かったように感じた。手のひらが、それまでとは違った感触を伝えてきたのだ。滑らかな、細い板が規則的に並べられたような質感。
「扉?」
 暗闇の中に目を凝らし、両手でそれを確かめる。木の扉、で間違いなさそうだった。周りも少し調べてみるが、どうやら通路自体はここで行き止まりのようである。進むなら、この扉の先だ。
 そっと添えた手に力を込めると、軋んだ音を立てながら扉が動いた。鍵はかかっていないらしい。細く開いた隙間から中の様子を窺う。やはり中は暗かったが、本棚のようなものがいくつか並んでいるのが見えた。本や紙の束が雑多に詰め込まれ、古ぼけた机にもなにやら紙が散らかっている。図書室――いや、資料室か何かだろうか。幸いにして人の気配は見あたらず、ルカはその部屋へと身を滑り込ませた。
「……酷いわね、色々と」
 改めて部屋の中の状態を眺め、ルカは思わず呟く。空気は酷く淀んでいて黴臭かった。ろくに手入れされていない部屋であることは間違いない。棚や机にある諸々は先程見た通りだったが、床も酷い有様だった。ばらばらになった資料と思しきものや、様々な本が打ち捨てられたかのように散乱している。
 げんなりとそれらを見つめていたルカだったが、ふと見知った表紙を見つけて手を伸ばした。汚れを軽く手で払ってやると、掠れた題名が浮き上がった。
 ――『光の生まれた日』
 闇しか存在しなかった世界に突如として光が差し、その光は怯える人々に力を与え繁栄へと導いた――概ねそういった内容の、恐らくエイリム王国で最も親しまれているであろう本である。古くから国に伝わる神話で、魔法の起源とされるものだ。研究者用の小難しいものから分かりやすく訳した子供向けの絵本まで様々あり、今ルカが手にしているのは大衆向けに一番広く出回って居るものである。ルカ自身も何度か目を通したことがあるものだ。
「ぼろぼろじゃないの、これ」
 何気なくページを捲れば、ただ床に置かれていたのではないことは一目瞭然だった。文章は所々黒く塗り潰され、ページは酷くしわが寄っていたり破けている箇所も多い。踏みにじったかのような靴の後まである。よく見れば床にある本は似たような題ばかりで、光と影の神話に纏わるものだった。どれも、同じように痛めつけられた跡がある。この部屋を使っていた人物は、光の神話に何か恨みでもあるのだろうか。
「……っと、そんな場合じゃないわよね」
 ふと我に返り、ルカは頭を振って本を元の場所へと戻した。今はルアスを探すことを考えなければ。どこの誰とも知れぬ人物に思いを馳せている時間はない。
 ここから他の道へ繋がってはいないかと、ルカはぐるりと部屋を見渡す。室内の荒んだ様子に気を取られていたが、それが無くなれば古びた扉をあっさりと視界に捉えることが出来た。ここも特に施錠などはされていないようで、いとも容易く道が開く。扉の先は、再び薄暗い通路になっていた。ただ道幅は格段に広く、明かりの数も僅かながら多い。先程のような隠し通路ではなく、施設の一部として機能している場所のようだった。
 相変わらず、人の気配はない。探索するには好都合だが、表で見た人々はどこにいるのだろうか。そう訝しみながらも、ルカは足を踏み出した。密閉されていた部屋の中よりはましだったが、滞っている空気はじっとりと湿って重たくルカにのし掛かる。半円に切り取ったかのような低い天井と石壁は、外壁と同じく古びてくすんだ色をしていた。その陰気さが、異様なほどの圧迫感を醸し出している。
 ほどなくして、ルカはその圧迫感の理由を悟ることが出来た。通路の壁に、等間隔で部屋の入り口がある。ただしそれは扉が設置されておらず、代わりに格子がはめ込まれていた。
 ――牢獄。そんな単語が脳裏を掠める。マーシェル学院の研究室に潜入したはずが、これは一体どういうことなのだろう。言い知れぬ不安を抱えながらも、ルカは歩を進めた。硬質な石壁と床に、靴音が反響する。それ以外に物音は聞こえないかのように思われた。しかし。
「……だれか、いるの?」
 どこからか響いた誰何する声に、心臓が跳ね上がった。思わず口元を抑え、足を止めて身構える。迂闊だった。足音で気付かれたのだろうか。しかし、辺りに自分以外の人影は見当たらない。
「だれ? シェイド……?」
 再び耳に届いた声から、その居場所を探る。通路をもう少し進んだ先からだ。前方に姿が見えないとなると、牢の中、だろうか。
 ルカは逡巡した。逃げるべきか、進むべきか。直感的に、この声は敵ではない、と感じた。細く頼りなさげな少女の声だった。あまりにも心許なく、どこか怯えているようにも聞こえる。ルカが想定している敵には、とてもではないが似合わないものだったのである。
 悩んだ末に、ルカは声の主の元へ向かうことにした。保証があるわけではなかったが、上手くいけば何か情報を引き出せるかもしれない。それに牢に隔てられていれば危険も少ないだろう。万が一罠だったとしたら――その時はその時だ。
 思い切って牢の前に進み出る。そこにいたのは、やはり少女だった。十をいくつか過ぎたくらいの、恐らくはルアスと同じ年頃だろうか。まだ幼さの残る顔立ちをしている。二つに編んで前に垂らされた髪は見事な金、大きく見開かれた瞳は落陽のような橙黄色。光の下で笑っていれば、さぞ愛らしい少女だろう。しかし今の表情はそれを想像しがたいほどに陰り、驚きと恐怖がないまぜになったものだった。
「……こんにちは。少し、話をしてもいい?」
 呑気に挨拶などするのもおかしな話ではあったが、あまり刺激して騒がれても困ったことになる。出来る限り穏やかな声音を作り、ルカはお互いを隔てる格子へと近付いた。それに反応して、少女は蹲ったままさらに奥へと後ずさった。よく見れば、閉じ込められるに留まらず無粋な鉄の枷が細い足にはめられていた。
「……だ、れ」
 掠れた声で、再び同じ問いが繰り返される。少しでも警戒を解くべく、腰を落とし視線を合わせて語りかけた。
「貴女に危害を加えようと思ってるわけじゃないから、それは安心して。訊きたいことがあるだけなの……むしろ、こんな所に忍び込んだ自分の身の方が心配だわ」
「シェイドの、仲間じゃない?」
「ええ、違うわ」
 首を傾げる少女に向かって、ルカはきっぱりと否定した。彼女がここに幽閉されている謂われは知らない。だが、少女が口にした名前には聞き覚えがあった。そしてそれは、確実にルカが共感し得ない人物である。
 ――シェイド。ゼキアから聞いていた誘拐犯の名と一致する。少女は、先程もそう呼び掛けていた。彼女もあの気味の悪い男に捕らえられているのかもしれない。だとすれば、ルアスの居場所も近いかもしれない。
「私の知り合いが、そのシェイドって奴に浚われたらしいの。銀髪に金の瞳の、貴女と同じくらいの男の子なんだけど」
 そこまで言った瞬間、少女が息を呑んだのが分かった。その瞳から怯えは消え去り、微かな期待のようなものが宿る。
「ルアスの、こと?」
 恐る恐る、というように、少女は言葉を紡ぐ。その口からルアスの名が出たことに、ルカは驚いた。情報の切れ端でもあれば、という程度の考えだったが、これは大当たりかもしれない。彼女はルアスを知っているのだ。
「知ってるのね? 私、彼を探しに来たの。何か心当たりは――」
「お願い、助けて!」
 手掛かりを得るべく話を掘り下げようとしたルカだったが、言い終えぬうちに少女の方が行動を起こした。先程までの警戒心をかなぐり捨て、すがりつくようにルカに詰め寄る。
「あの人、何か恐ろしいことをしようとしてる! このままだと、私もルアスも殺されちゃう」
 まるで別人になったかのように、少女は捲し立てた。その剣幕にも驚いたが、あまりにも聞き捨てならない発言だった。殺される、とは。あの人とは、シェイドのことだろうか。
「違う、私たちだけじゃなくて多分もっと……でもルアスは何も知らないの。なのに、また捕まっちゃったなんて……どうすれば……」
 少女の唇から、とめどなく焦りと嘆きが溢れ出す。声は震え、目は潤み、今にも泣き出してしまいそうだった。零れ落ちる言葉は今ひとつ要領を得ず、彼女が伝えたいのであろう事柄の全体像は掴めない。ただ解るのは、ルカが感じた恐怖が確実に現実になろうとしている、ということだった。
「落ち着いて。ゆっくり話してくれる?」
 格子の隙間から手を伸ばし、あやすようにその髪を二、三度撫でる。そうすることで少しは落ち着いたのか、少女はゆっくりと頷いた。
「とりあえず、危険な状況なのは分かったわ。ルアスもここにいるの?」
 それを見計らって、真っ先にその質問を投げ掛ける。兎にも角にも、彼を助けなければならないのだ。少女は考え込むように少し俯いていたが、やがて静かに頭を振った。
「分からない。ここの牢屋にはいないと思う。でも私のこともここの近くに置いておきたいみたいだったから、ルアスもここの敷地内にはいるんだと思う」
「……そう」
 少女の返答に多少の落胆は覚えたものの、ある程度想定していたことだった。囚人に逐一外のことなど教えないだろうし、彼女に自由が無いのなら情報も遮断されていて当然だろう。
「まぁ、それが分かっただけでも充分ね。貴女、名前は?」
 落ち込んでいても仕方がないと、ルカは気を取り直して少女の名を訊ねた。知らないままでは、呼ぶのに不便である。
「……エルシュ」
「エルシュ、ね。私のことはルカって呼んでね。とりあえず、貴女もここを出ましょ」
 おずおずと答えた少女に、ルカは当然のこととして手をさしのべた。彼女もルアスと同じような被害者であることは想像に難くない。シェイドという男の、底知れぬ闇のようなおぞましさを思い出す。あれを知っていてなお、こんなにいじらしく痛ましげな少女を放っておこうとは思えなかった。それに、もっと詳しく話を聴く必要もありそうだ。
「……出られるの?」
「格子も鍵も古そうだしね。壊せるでしょ」
 そう言いながら、腰にはいていた剣を指し示す。少女の顔が、驚愕に彩られた。剣を見るのが初めてなのか、自由を得られるのが信じられないのか。恐らくはそのあたりなのだろうと、ルカは解釈した――それゆえ、反応が遅れた。
「それは、ちょっと困るな」
 突如として、男の声が降って湧いた。その瞬間、ルカは覚えのある嫌悪感に支配された。背筋が凍るような悪寒。本能的にそれを拒絶する感覚。この正体には、心当たりがあった。
「いつの間に――!」
「しばらく眠ってもらうよ。まったく、お転婆も困り物だね」
 その存在を認知し、振り返った時にはすでに遅い。少女の悲鳴をどこか遠くに聞きながら、ルカの意識は闇へと転がり落ちていった。

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