恋月想歌 5

 早く、早くしなければ。心臓の軋む音が聞こえてくる。自分にそう多くの時間は残されていない。この身体はもう持たないだろう。その前に奴に話を付けて、この事態をどうにかしなければ。今更なんの意味があるのかと問われたら、何もないのかもしれない。そう、これは自分のエゴだ。それでもこの場所は、と思わずにはいられない。さっさと片付けてしまおう。そうしたら――。
「そうしたら、ようやく君に会いに行ける」
 命の灯火が潰えようというのに、青年はとても幸せそうに微笑んだ。

 

 目覚めた時には、見慣れた自分の部屋だった。育ての親である神父の“聖職者たるもの常に質素で慎ましくあれ”という意向で、本当に最低限のものしか置かれていない殺風景な部屋だ。テーブルとベッド、衣装棚くらいなものか。どれをとっても装飾のひとつもない、地味なものだ。
「私、どうしたんだっけ……」
 ベッドに潜り込んだまま窓の外に目をやると、うっすらと月明かりに照らされる教会が見えた。周りは水を打ったように静まり返り、物音ひとつ聞こえない。どうやら今は真夜中らしい。ゆっくりと身体を起こすと、目の奥がズキリと痛んだ。頭がどうしようもなく重い。気だるさに耐えながら懸命にこの状況に至るまでの記憶を手繰り寄せる。
「確か、ミサが終わった後……」
 ようやく糸口を掴んだ感覚を覚えた時、不意に甲高い音が静寂を切り裂いた。何かの動物の声――違う。人の声だ。
「悲鳴……!?」
 途端に、頭にかかっていた霧が晴れた気がした。様々な思考が一気に溢れだす。そうだ。あの紅い瞳を見た瞬間に意識が遠退いたのだ――彼は人ではなかった? 村人を殺したのは誰だ。それに今の悲鳴は。
 気づけば家を飛び出していた。夜着ではなく、いつもの法衣を着たままだったのは幸いだった。
「嘘よ……ヴァンパイアなんて」
 息を切らしながらも、自らに言い聞かせるように呟いた。僅かな時間ではあったが、リムが接していたレストは人間そのもので、伝え聞く化け物などではなかった筈だ。けれど気を失う直前に見た彼は、明らかに何か別の存在だった。なのにそれを否定したがっている自分がいる。信じたくない――それは意図せずとも芽生えてしまった感情に基づいたものでもあり、恐怖ゆえのものであった。
 望まない事実をその目で否定するために、リムは駆けた。もし彼が本当に犯人でヴァンパイアなら、イーゼは滅びを待つしかないのかもしれない。垣間見た超常的な力は、人では到底太刀打ちはできそうもない。きっと違う、何かの間違いなのだと土を蹴る足に希望を込めた。もしその希望を失くしてしまった場合にどうするのかは、考えないようにした。そうでなければ、恐怖で気が狂いそうだった。
 無我夢中で走ってたどり着いたのは、教会前の小さな広場だった。中心に聖女の銅像が据えてある他は目ぼしいものは無い。昼間は遊ぶ子供たちの声で賑やかだが、夕方にもなれば閑散としたものだ。当然、こんな深夜には人の姿が見当たるわけがない――本来ならば。そこには、二つの動く気配があった。
「やめろと言ったのに……肝心の獲物が喰えなくなるぞ」
 そのうちの一つから、呆れたような声が聞こえた。もっとよく見ようと目を凝らすと、黒い人影と、その足元にいる大きな獣が辛うじて見えた。犬、だろうか。それにしては大きい。大柄な成人男性くらいはありそうだ。興奮しているのか、全身の毛が逆立っている。目を赤く輝かせ、地面にある何かに繰り返し噛みついているようだ。一体何を、と更に目を凝らしたことを、次の瞬間に後悔した。
「ひっ……」
息を詰まらせ、リムは声にならない悲鳴をあげた。見えたのは、ボロボロになった布。そしてそこから覗く、白い手。獣が食らいついていたのは紛れもなく人間の――年端もいかぬ少女だった。口の周りを赤黒く汚しながら、その肉を喰らう。先程聞こえたのはこの少女の断末魔だったのだ。
 反射的に後ずさった物音に気づいたのか、佇んでいた人影がこちらを振り向いた。
「飛んで火にいる、というやつか。獲物が自ら出向いてくるとは」
 短く整えられた黒髪は闇に呑まれることなく艶めき、その瞳は血に濡れたような、赤――ヴァンパイアだ。美しさゆえに異形ともとれる青年の口元が、三日月に歪められる。
「えも、の……?」
 自分を見て獲物、と言っただろうか。一体何の……?
 リムの呟きなど聞こえないかのように、青年は足元の獣に語りかけた。
「さぁ、前菜もそれくらいにしておけ。今日のメインディッシュだ」
 青年の声に反応して獣は顔を上げると、血で汚れた口元を拭うように舌なめずりした。低く喉を鳴らすと、その紅眼でリムを捉える。
 ――逃げなければ。頭では理解しているのに足がすくむ。まるで地面に縫い付けられてしまったかのように動かない。声をあげようにも、喉さえひきつって僅かに音が零れるだけだった。
「あ……」
 そうしている間にも、獣は徐々に距離を詰めてきていた。リムが動けないのを解っているのか、まるでいたぶるように一歩ずつゆっくりと歩を進める。やがて位置を定めたのか、頭を低くし、飛び掛かる体勢を整えた。そして唸り声をあげ、後ろ足で強く地を蹴り飛び上がった――喰われる。そう覚悟して目を強く閉じた時だった。
「ギャウウゥ!」
 獸の奇妙な叫び声と共にバチン、と何かを弾くような音が聞こえた。
「……予想通りではあったけど。君には困ったものだね、ディアン」

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