恋月想歌 6

 続いて聞こえてきたのは、呆れと苦笑の入り交じったような声だった。聞き覚えのあるそれにゆっくりと目を開けると、傍らに立っていたのはやはりレストだった。今はその紅の瞳を隠すことはせず、庇うようにリムの前で片手を差し出している。少し前方に視線をやると、先程の獣が地に伏しているのが見えた。彼が守ってくれた、ということだろうか。
「大丈夫かい? 悪かったね、囮に使うような真似をして」
 戸惑うリムに気づいたのか、幾分か声を和らげてレストは言った。
「おとり……?」
 未だに恐怖から覚めきらない頭で、それでもなんとか聞き返す。
「調べ物と言っただろう?君の話してくれた事件について、ね。そこの彼が色々粗相をしたみたいだから、ちょっと引っ張り出そうと思って」
 そこの彼、と呼ばれた青年がピクリと眉宇をひそめた。
「……ようやく出てきたかと思えば、まだ人間を守護するおつもりか」
 ――いったい、何を言っているのだろうか。ヴァンパイアは人の血を啜る化け物の筈なのに、守護とはどういうことなのか。徐々に思考を取り戻してきた頭が、再び混乱しそうだ。そんな中ではっきりと認識できた事実は、黒髪の青年の名がディアンというらしく、村人を次々と殺していた張本人であるということ。そしてレストの知り合いであるらしく、殺されかけたリムを彼が助けてくれたということだ。
「……そうじゃないよ。ディアン、君は勘違いしているようだ」
 ため息混じりにレストは首を横に振った。
「決して血を飲むことをせず、私がいくら呼び掛けても気配すら見せなかったのに一人の人間のために姿を表した……何が違うというのか!」
 半ば叫ぶようなディアンの声にに、リムの肩がビクリと跳ねた。そこに宿っていたのは怒りと――なぜか悲痛さが垣間見えたような気がした。
「……姿を見せれば、君は無理矢理にでも血を飲ませる気だっただろう」
「当たり前だ!」
 先程にも増してディアンは声を荒げた。
「貴方が最後に血を飲んだのはいつだ? 数少ない同胞が消え行くのを黙って見ていろと言うのか!」
「……仕方ないよ。それがマリアの望みだから」
 ディアンとは対照的に静かなレストの言った言葉に、リムは弾かれたように彼を見た。さっぱり理解の出来ない会話の中、唐突に出てきた聞き慣れた名前――“マリア”。別段変わったものでもない、ありふれた女性名ではある。しかしそれはヴァンパイアを葬ったとされ村で祀られている聖女の名であり、それを口にしたレストは紅い瞳の紛れもないヴァンパイアだ。
「それに、私は彼女の名残がある場所を荒らすのは嫌なんだよ――私以外の者にもね」
 不意に、レストの語気が強くなった。
「……ここから手を引け、ディアン。必要以上に人の世界を荒らすのは、我らの掟に背く行為だよ」
 静かな、それでいて反論を許さない強い声だった。ディアンの顔が、歪む。
「……そこの人間だって真実は知らないのだろう。それでもか」
 侮蔑も露にディアンはリムを見た。真実、というのが何を指しているのか解らなかったが、刺すような視線にひたすら耐えた。
「関係ないよ。ただの私の自己満足だ」
 自嘲するように、レストは言った。
「頼むよ。同胞だからこそ、望んだ最期を静かに見送ってはくれないか」
 それは懇願だった。背後のリムに彼の表情は分からなかったが、それを聞いたディアンの顔が一瞬で悲しみに染まるのを見た。つい先程まで自分を殺そうとしていた相手だ。それなのに胸が痛む――それほどまでに、悲痛だった。
「愚かだ……人間も、貴方も」
「……すまない」
 ディアンは何も言わずに踵を返すと、音もなく闇へと溶けていった。広場に何事もなかったかのような静寂が戻る。
「……あ、の」
 ――どうやら脅威は去ったらしい。しばしの逡巡の後そう判断したリムは、恐る恐る目の前の青年に声をかけた。レストは柔和な笑みを浮かべ、振り返った――教会で目覚めた時と同じ、笑みを。
「もう大丈夫だよ。怪我はないかい?」
 この人は大丈夫だ。その微笑に確信を深めたリムは、ようやく安堵の息をついた。
「はい……あの、今の人は?」
 言いながら、そっと地面に残されたままの少女の遺骸に目を向ける。しかし居たたまれないような気持ちになってすぐに顔を背けた。なぜこんな惨いことをしたのか。いったい何者なのか。それになぜ聖女の名が出てきたのか。疑問が多すぎて、うまく口にできなかった。視線で訴えかければ、全て承知している、といった様子でレストは小さく頷いた。
「彼は――」
 リムが異変に気付いたのは、レストが口を開いた時だった。妙に声が掠れている。それに、やけに顔が青白くはないか――予想は的中した。
「レストさん!」
 更に言葉を紡ごうとする前に、すべての力が抜け落ちたようにレストの身体が前に傾いた。咄嗟に支えることには成功したが、伝わる体温は酷く冷たく、瞳は焦点が合わず空を彷徨っていた。立っているのも相当辛い状態の筈だ。
「……すまない。少々無理をしすぎたようだ」
 数秒、呼吸を整えたレストは苦笑した。その声さえ消え入りそうなほどか細い。
「休みましょう。教会の部屋なら空いていますから」
「……優しいね、シスター。私はヴァンパイアだよ?」
 人間、ましてや神に仕えるものなら大敵だろう。言外にそう告げるレストに、リムはかぶりを振った。
「村人を害していたのは貴方じゃないんでしょう? それに私を助けてくれました」
 今やレストは完全に擬態をとき、紅い目を隠そうともしていない。事情を知らない村人が見れば騒ぎになるかもしれないが、幸いなことに深夜で人影はない。それはもちろん教会も同じことだ。だから早く、と休息を促すが、レストは拒絶した。
「遠慮するよ。正直、教会だとかはやはり居心地が悪くてね」
 直接の害はなくとも、己を背徳者と呼び敵視する場所など居心地が良いわけがない。そうは言ってもと、なお食い下がるリムの言葉を遮り彼は言った。
「明朝にも、私の命は尽きるだろう」
 唐突に言い放たれた内容に、リムは息を飲んだ――同胞が消え行くのを、と。そう言ったディアンの姿が蘇る。
「……だから手短に此処で話そう。全部ね」

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