水底に眠る 5

 身体が宙に浮かんでいるような、奇妙な感覚だった。立っていた筈の足場が突如として安定をなくし、急速に闇へと落下していく。しかし落ちた底に叩きつけられることはなく、見えない膜のようなものに受け止められ緩やかに着地する。乱された平衡感覚を取り戻そうと瞬きを繰り返していると、ユイスは自分が見知らぬ部屋にいることに気が付いた。
「俺は、いったい……いつの間に」
 霧に包まれてしまったかのように記憶も曖昧で、上手く思考が纏まらない。目覚めているのか、夢を見ているのか、それすらあやふやに感じられた。
 辺りを見渡す。瀟洒なテーブル、その傍らの革張りのソファー、形を整えられたクッション。足下には体重を柔らかく受け止める毛足の長い絨毯が敷かれている。どこかの貴族の邸か、と考えて、ユイスははたと気付く。同じような状況で、同じような事を考えたことがなかっただろうか。
「……また来たのね。癖がついてしまったかしら」
 戸惑い、思索にふけるユイスを遮るように、誰かの声が響いた。扉の開く音が、やけにはっきりと耳を打った。
 慌てて振り返った先に居たのは、二人の女性だった。一人は短い黒髪に灰色のドレス、もう一人は青銀の髪にフリルをあしらった純白の衣装である。その姿を見て、ふとユイスの中に鮮明な映像が蘇った。ルーナの神殿を訪れた時のことだ。不慮の事故で意識を失い、その時に――。
「前にも来たことある?」
「あるわね。でも、今回は……」
 ユイスの困惑など意に介した風もなく淡々と言葉を交わしていた二人だったが、ふと黒髪の女性と視線が合った。彼女は目を細めて暫しユイスを観察すると、軽く首を傾げた。
「……ああ、わざわざ出向いてくれたの。時柱もいる。好都合ね」
「いったい、何の――」
 何の話だ、という疑問が言葉になることはなかった。女性が何か手を動かした瞬間視界が揺れ、耐え難いほどの眩暈に襲われる。以前もそうだった。彼女は人ならざる力を操り、ユイスの意識を奪った。訳も分からないうちに同じ事になってたまるかと、ユイスは歯を食いしばって二人の女性を睨む。
「ここは、なんなんだ。貴女達は」
「そう険しい顔をしないで頂戴。貴方が求める場所へ案内してあげる。だから、一旦帰りなさい」
 ユイスを遮り、女性が指先を伸ばす。それが目先を掠めたかと思うと、抵抗も虚しく意識は再び遠ざかっていく。五感は閉ざされ、己の存在さえ曖昧になる――。
 そして、失われたと思った感覚を次に刺激したのは、痛いほどの冷たさと派手な水音だった。
「――ちょ、レニィ、何してるの!?」
「眠気覚ましなの。こうすると良いって人間が言ってるの聞いたのよ」
「あの、状況も考えて……!」
 頭上では、なにやら喧しいやり取りが交わされている。ゆるゆると瞼を持ち上げ半身を起こすと、そこは元の船の上だった。手足も動く。あの奇妙な感覚もない。レイア達や船にはあの不思議な空間の影響は無いらしく、変わった様子は見当たらなかった。ユイスが気を失って、そのままの状態らしい。頭にかかった靄を晴らそうと軽くかぶりを振ると、髪から水滴が飛び散った。先程の冷たさの正体はこれのようだ。会話の流れからして、犯人はレニィに違いないだろう。
「ユイス様! 大丈夫ですか? 具合が宜しくないなら、言ってくだされば……」
 起き上がったユイスに気付き、慌てたようにレイアが身体を支えた。一瞬、軽い眩暈があったものの、すぐに治まる。クロック症候群の症状であったことは間違いが、レイアの反応を見る限り大きく容姿が逆行した、ということもなさそうだ。流石に内臓までは分からないが、体調はすっかり落ち着いたように思えた。
「大丈夫、久し振りの船旅で少し目を回しただけだ……私より、イルファの方が調子が悪いんじゃないか」
 レイアの頭を寝床にぐったりとしているイルファをつつき、ユイスは話をはぐらかした。今のところ行動に支障は無さそうなのだから、彼女に無駄な心配をを掛けさせることもない。それに、珍しくイルファに活気がないのは事実である。いつもなら文句のひとつも言いそうなものなのに、ユイスにさせるがままになっている。身体や髪の毛が濡れていたから、ユイスが水をかけた時に巻き込まれたか、またレニィと一悶着あったのだろう。
「レニィ、苛めるのも程々にしてやってくれ。一応、炎の精霊王の名代のようなものなんだ」
「分かってるのよー。ちゃんと手加減はしてるの。でも、そもそもこいつが落ち着いた振る舞いをすれば良いだけの話なのよ」
 つん、と顎を反らす仕草が幼い子供そのもので、ユイスは苦笑した。傍から見ればレニィもイルファも似たようなものだと思ったが、それは胸の内に留めておくことにする。そう決めて立ち上がり、ユイスは船の外へと目を遣った。
「着いたのか?」
「はい。見せて貰った石は、この辺りで引き揚げられたそうです」
 錨を下ろした船乗り達は、ちょうど食事を摂ったり昼寝をしたりと身体を休めている最中だった。波はそんな船を揺り籠のように優しく揺すり、穏やかな群青色が陽の光を受けて煌めいている。美しい風景ではあるが、見とれている場合でもない。ここを訪れたのは調査の為だ。
 そんなユイスの思考を読んだのか、レイアが先回りして口を開いた。
「勝手かとは思いましたが、ユイス様が目覚める前に少し精霊達に呼び掛けてみたんです。でも、話してくれなくて」
「話してくれない?」
 妙な言い方である。知らなかった、ではなく話すのを拒まれたというなら、トレルの森の時と同じように精霊達が人を遠ざけようとしているのだろうか。しかしレイアは首を振る。
「あの時と違って、呼び掛けに応じてくれないわけではないんですけど……ただ、話したくないみたいで」
 補足するレイアの言葉を聞きながら、ユイスは思案する。海底に街が沈んでいるというのは確かなら、精霊にとって何か忌まわしいことでもあるかもしれない。神殿では精霊の怒りを買ったがゆえに滅んだと聞いたから、可能性はある。しかし原因が何かとなると――。
「……分からないな。いっそ、自分の足で遺跡を歩ければ良かったんだが」
「はい。なので私、ちょっと潜ってみようかと思うんです」
 これに相槌さえ打てなかったのは、仕方のない事ではないだろうか。実行しない前提で提案したつもりが真顔で返されたのである。この聖女様は、また何を言い出すのか。
 ついレイアの顔をまじまじと見返すと、流石に気まずくなってきたのかユイスから視線が外れる。今、引き止めておかねばまずい。
「……レイア。今なんと言った?」
「いえ、なかなか口はきいてくれないんですけど、敵視はされてないみたいなので……水の精霊に頼めば、私一人くらいならなんとかなるかと……」
 概ね想像通りの返答に、ユイスは深く息を吐いた。確かに彼女なら可能かもしれないが、実行に移すとなると不確定要素が多く危険すぎる。精霊達がこぞって口を閉ざすほどの何かが下に待ち受けているかもしれず、下手を打てば彼らの機嫌を損ねることになりかねない。ユイスとていざとなれば強攻策も厭わないつもりでいるが、あくまで最終手段である。
「出来なくもないのよー。行くの?」
「駄目だ。何があるかも分からないし、身を守る手段も無いだろう。イルファも連れて行けないんだぞ」
 レニィまでもがけしかけてくるが、素早くそれを却下する。例え精霊達が大丈夫だったとしても危険なことに変わりはない。海底に力なく沈むレイアを想像しかけて、ユイスは頭を振った。あまりにもぞっとしない話だ。
「……トレルの森に一人で突っ込んだ方に言われたくないです」
「一応私は剣も扱えるし、森ならイルファの力だって効果的だろう。一度行ったことのある場所だったというだけでも違う」
 不満気なレイアの言を撥ね除け、断固として譲らない姿勢を示す。しかし、そうした行動の意味も消え失せる出来事がユイス達を襲った。
「とにかく、もう一度近辺の精霊達に話を――」
 聞けないか、と切り出そうとした時、唐突に船が大きく揺れた。さして多くはない積み荷が崩れて音を立て、船乗り達の動揺した声が響く。そこへ更にギシ、と耳障りな音が重なる。揺れは徐々に酷くなり、立っていることさえ危うい。
「なんだ……!?」
 レイアと共に船の縁に掴まってようやく姿勢を保つ。反射的に空を見上げたが、天候は穏やかなまま出港時と変わらない。風も殆どなかった。突如として表情を変えたのは、海である。船を取り囲むように水が荒ぶり、渦を巻く。波は激しく船体を攻め立て白く泡立っていた。甲板はすっかり浸水し、乗員達も海水にまみれていた。男達が懸命に船を立て直そうと奔走するが、最早どうにもならない。原因は天候でも何でもない、不可視の力による理不尽な暴力だ――それが確信できるほどに、異常な事態だった。
「もう駄目だ、沈む――!」
 誰かが叫ぶ。まさにその瞬間、一際大きく船が傾いた。必死にしがみついていた船の縁から手が離れ、悪あがきも虚しく身体が宙に放り出される。
「きゃああっ!」
「レイア!」
 咄嗟に伸ばしたその手が掴めたかどうかさえ分からぬまま、ユイスは冷たい海水へと飲み込まれた。

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