水底に眠る 4

 出立は翌朝となった。幸いにして天気も良く風も穏やかで、航海に支障は無さそうである。ユイス達が乗り込んだのは、地元の人々が漁に使う小ぶりな帆船だった。目的の遺跡は漁船が多く集まる場所からは外れてはいるが、イルベス沖からはそれほど遠くはないらしい。うたた寝でもしてればすぐに着くさ、とは同乗した漁師の言葉である。とはいえ本当に眠りこける気にもなれず、素人ゆえに船の操作を手伝うわけにもいかず、結局ユイス達は時間を持て余してしまった。ようやく調査らしい話が出来たのは、男達の作業が一段落し、町が随分遠くになってからのことである。
「これが前に引き揚げられたもんだ」
 そう言いながら麻布に包まれた塊を取り出したのは、イゴールから紹介された漁師本人だった。海の男らしく日に焼けた肌と逞しい肉体の持ち主で、ユイス達にも気さくに声を掛けてくれる人物だった。
「売れば金になるかとも思ったんだが、神殿のものだったらまずいと思ってな。案の定、神官様に見せたら大事に取っとけって言われてなぁ」
 苦笑しながら漁師は頬を掻く。察するに、そう言われた理由も、今遺跡に向かっている理由も、彼にはよく分かってはいないのだろう。それでも朗らかさを失わないのはやはり人柄か。
 漁師に礼を述べると、ユイス達は包みを囲むようにして屈み込む。布にくるまれていたのは、人の頭ほどはあろうかという大きな石と、淡い緑色の水晶のような石だった。
 大きい石の方はかつて神殿の壁と同じような輝く白であったと思われるが、今はすっかり薄汚れてしまっている。引き揚げられた際の泥や苔は粗方落とされてはいるものの、一見すると海底の岩盤の一部にしか思えない。そうでないと判断出来たのは、滑らかな表面に辛うじて精霊の彫刻が残っていたお陰である。長年海水に晒されていたせいで何の精霊が描かれているのか定かではないが、意匠は各地の神殿で見かけるものと酷似していた。
 そしてもう一つ、透き通る薄緑の石。漁師が売ろうとしたというのはこれのことだろう。小指大ほどの角張った結晶が幾つもある。ひとつ手に取ってみると、ひやりとした感触が肌を刺した。神殿の残骸と思しき石はあの様なのに、こちらは全く風化した様子は無い。森の色を映した湖のような、珊瑚礁の連なる海のような、透明で不思議な色合いが美しい。しかし、王族としてそれなりの審美眼を培ってきたつもりのユイスでも、これが何の石なのかさっぱり見当もつかなかった。もしかしたら、神殿とは関係ない海底で成長したただの鉱石かもしれない。だが、どうもそれは違うような気がしていた。酷くあやふやな、問われても応えられないような感覚だったが、より明確にそれを感じていたのはレイアだった。
「精霊の力……?」
 ユイスに倣って結晶を手に取ったレイアが、不意に首を傾げた。
「何か分かるのか?」
「多分これ、普通の水晶じゃないです。精霊の力がとても強くて――でも何の精霊か分からないんです。鉱石なら地の精霊の領分ですけどなんだか違うし、水の精霊でもない気がしますし……」
 余計な口を挟まずに、睨むように結晶を眺めるレイアの言葉を待つ。この辺りは彼女より優れた感覚の持ち主などいないのだ。
「おーい、そろそろ着くぞ!」
 しかし、それより先に船員の野太い声が響いた。そして更に、重なるようにして甲高いやり取りが聞こえてくる。
「ぎゃああああ! 止めろって言ってるだろ! ばかー!」
「馬鹿とはなんなの! おとなしくしなさいなのね!」
 声のする方を見上げれば、予想に違わず小さな精霊達のがあった。イルファと、もう一人はレニィと名乗った水の精霊である。精霊王からだという言伝を残すと早々に姿を消した彼女だったが、出港前になって再びふらりとユイス達の前に現れた。曰わく、万が一にも精霊達を傷付けることのないようにと見張りを命じられたとのことである。
 こちらとしても、精霊王の不興は出来るだけ買いたくはない。そう思って素直に彼女の同行に応じたのだが、合流以来、こうして度々イルファと衝突していた。理由は本当にくだらない、もとい些細な事ばかりなのだが、レニィはどうにもイルファが気に食わないらしい。先程の悲鳴も、恐らくまた彼に水を被せたのだろう。イルファの方もそんなレニィに好感を抱くはずもなく、無愛想な態度を貫いていた。それがまた彼女の癪に障り――と、完全に悪循環である。相反する炎と水、そう簡単に仲良く出来るものではないらしい。
「あいつらはまた喧嘩か……懲りないな」
 何度も似たような光景を見せられたお陰で、驚く気にもなれない。とはいえ、のんびりと眺めているわけにもいかなかった。言い合いで済んでいるうちはいいが、二人がそれぞれの力を振るって暴れ出したら大変なことになる。炎上した船の中で焼け死ぬのも、水に呑まれて溺れ死ぬのも御免だ。
「そろそろ止めないとですね。行ってきます」
「ああ、すまないな」
 苦笑しながら、名乗り出る。二人の喧嘩を仲裁するのは、すっかり彼女の役目となっていた。別段そのように頼んだわけではないのだが、ユイスより彼女の方が宥めるのが上手いのである。そこはやはり精霊に愛された聖女と言うべきか、それとも女性らしい細やかな気遣いの賜物か。
 船尾へ向かって飛び去った精霊達を追いかけるレイアを見送ると、ユイスは石の検分に戻ろうと俯いた――その瞬間、視界が歪んだ。頭の芯が捻れるような眩暈に平衡感覚を失いそうになるが、慌てて片手で顔を覆って堪える。船乗り達の視線が自分に向いていないことを確かめると、ユイスは船の縁に凭れて深く息を吐いた。
「……参ったな」
 周りに聞こえぬよう、小さくユイスは呟いた。実のところ、朝から体調が思わしくない。正確には海へ出てから、だろうか。眩暈と吐き気、そして時々胸の痛み。最初は大したことではないと思っていたが、徐々に悪化してきていた。幸いというべきか、レイアは精霊達の喧嘩の対応に忙しくユイスの体調に気付いた様子はない。知れば引き返すよう言われるのは分かっているので、自ら申告する気も無かった。ようやくクロック症候群の情報を得られるそうだというのに時間を無駄には出来ないし、あまり気を遣わせたくもない。
「船酔いでもしたか……?」
 口にすると、本当にそんな気がしてくる。船旅は初めてではないし、以前は体調を崩すようなことも無かったが、久し振りに波に揺られればこういうことも有るのかもしれない。そうやって自分を納得させようとしたが、身体が許してはくれなかった。
 眩暈に加え、更に胸を締め付けるような痛みが襲う。咄嗟にそこを手で抑え、ユイスは歯を食いしばった。これも初めてではない。今までにも何度かあった痛みだ。波があるから、暫く動かないでいれば治まる。軽く目を閉じて、ゆっくりと呼吸をする。そうすれば時間と共に良くなっていく――筈だった。
 どくり、と大きく心臓が脈打った。それを合図にして急激に痛みが増強する。激痛は四肢へ、臓腑へ、頭部へと広がり、身体があらぬ方向にへし折られるような錯覚に捕らわれる。
 流石にまずい。そう思って声を上げようとするが、喉は無駄に空気を通して掠れた呻きが漏れ出ただけたった。指先に触れる感触さえ鈍くなり、目の前が暗くなっていく。船酔いなわけがない。分かりきっていたことだった。自分はこの症状を知っている。ただ、認めるのが恐ろしかっただけだ。
「く、そ……こんな時に……!」
「――ユイス様!?」
 驚いたようなレイアの声が耳を打つ。イルファ達を窘めて戻ってきたのか。しかし、応えるだけの気力は既に残されていなかった。
 遠のく意識の中で、ユイスは歯噛みする。一年前に倒れた時と同じだった。クロック症候群の発作症状――今まで息を潜めていた病魔が、突如として牙を剥いた。

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