犠牲 3

「……殿下! ユイエステル殿下!」
 荒々しく名を呼ばれたことで、ユイスは我に返った。カタン、と手元で小さく音が鳴る。取り落としたペンは机の上で跳ね返り、あらぬ方向へと転がっていった。インクはすっかり乾ききっていたようで、幾重にも重なった書類は幸いにも無事なようだった。ひとまずそのことに安堵して視線を上げると眉根を寄せた男の顔が目に入った。
「殿下。ご気分がすぐれないようでしたら……」
「いや、すまないイゴール司教。大丈夫だ」
 気遣わしげな声を遮り、ユイスは頭を振った。やることは山積みだというのに、いくらか意識を飛ばしてしまっていたようだ。呆けている場合ではないと転がったペンを手に戻すと、イゴールは深々と息を吐いた。
「お疲れなのでしょう。私共もあまりに色々とありすぎて混乱しているのですから、殿下の心労がいかほどなのかはお察しいたします」
 ユイスを慮りはするものの、イゴールの顔色もあまり良いものではなかった。目元にはうっすらと隈が浮かんですらいる。それも、ここ数日のことを思えば無理からぬことであった。
 風の神殿での事件から一週間が経つ。その間、ユイスは各方面への対応に忙殺されていた。その後の調査でも生存者は一人として見つからず、風の神殿は完全にその機能を失ってしまった。いくら旅の途中とはいえ、王族としてこの事態を放置はできない。しかし被害の大きさに加えてユイス達の事情もある。流石にユイス一人の手に負えるはずもなく、直近の神殿――つまりイルベスの水の神殿に助けを求め、急遽イゴール司教が駆け付けた、という次第だった。町の責任者達には神殿の状態を説明し、イルベスの神殿が介入する了承は得ている。遺体の身元確認などは町の者に任せ、ユイスとイゴールは主に神殿関係の処理と葬儀の手配、そして混乱する町人への説明と慰撫が仕事だった。
 風の神殿での惨劇が精霊の手によるものだというのは、町の人々にも誤魔化しようのないものだった。盗賊や獣の仕業と説明できないかとも考えたが、盗賊にしては内部は荒らされていないし、遺体にあるのも獣か食い殺したような傷ではない。箝口令を敷いたところで限界があるし、いずれは誰かが指摘するだろう。ならば真実を交えて説明したほうが混乱を避けられる。流れ者が精霊の怒りを買ってしまった――おおまかにそんな説明が町には行き渡っているはずだ。
 当然、町は怒りとも嘆きともつかない声に包まれた。長閑だった空気は張り詰め、気のいい住民達の表情も一転して暗いばかりだ。いや、塞ぎ込んでいる人間ばかりならまだ良かった。中には不安ゆえか暴動まがいの騒ぎも散見している。これでもし、自分達が祭っていた精霊王が事件の主犯格なのだと発覚すればどうなることか。あまり考えたくはない。
 そんな住民達の対応は、ほとんどイゴールが担っていた。ユイスは町の住人にとってただの旅人でしかない。話を聞いてくれるどころか反感を買う可能背も高かった。精々、裏で報告を受けて書類を捌くくらいしかできない。それでも目が回るほどの忙しさだが、皺寄せがイゴールにいくことは否めない。王都にも連絡は行っているはずだが、信頼できる人材が揃うまでは彼と一部の役人だけが頼りという状況である。
「貴方の方がよほどお疲れだろう。苦労をかける」
「いいえ。私でお役に立てるなら、これほど光栄なことはございません」
 せめてものねぎらいの言葉をかけると、イゴールは深く頭を垂れた。彼の心を煩わせている要因には、きっとユイスのことも含まれていることだろう。この状態で身分を隠し続けては立ち行かないと、彼にだけはここに至るまでの経緯を全て説明していた。流石に人柱云々や人間が知り得ない真実などは省いたものの、それでも充分な衝撃だったことだろう。しかし、受け入れてもらわねばならない。時間は待ってはくれないのだ。
「神殿の様子はどうなっている? 人手は足りそうか?」
「あらかた片付きはしましたが、いかんせん内部の事情に精通している者がおりません。元通りに機能するには時間が掛かりそうです。葬儀もまだ全て済んでいませんし、イルベス以外からも神官の派遣を依頼した方がいいかもしれません……それと、殿下」
 一度言葉を区切ると、イゴールは古びた羊皮紙を取り出した。
「言いつかっておりました遺跡の件ですが、確かにそのような場所が存在するようです。既に管理が放棄されて久しく人も寄り付かないとのことで、古い地図しか見つかりませんでしたが」
「いや、助かる」
 恐縮そうに差し出されたそれを受け取り、ユイスは手元に広げた。薄汚れ、あちこちに虫に食われた跡があったが、地図の一角には確かに目的の遺跡と思しき場所が記されていた。状態は悪いものの地図としてはかなり正確なようで、ユイスが持つ現代の物とそれほど差異はない。多少の地形の変化があったとしても、見比べながら進めばどうにかなりそうだ。あとは、ユイス達が向かうまでヴァルトが待っていてくれるかどうかだ。
「これならなんとかなりそうだ。早くこちらを片付けて出立しなければならないな」
 言いながら、ユイスは傍らに積まれた書面に手を伸ばした。今取り組んでいるものを放置していくことは出来ないが、目的地が具体的になれば気も逸る。多少無理をしてでも仕事を進めておきたかった。しかし、それを良しとしなかったのはイゴールだった。
「……殿下、早々に発たれるおつもりなら、なおのことお休みください。重要なもの以外は私でも処理できますし、どうしても殿下にお目を通して頂かなければならないものはそれほど残っていませんから」
「しかし」
 反論しようと見返したイゴールの顔が予想以上に渋面で、ユイスは言葉半ばで閉口した。さながら聞き分けのない子供を前にした親のように、彼は眉間に指をあてて息を吐く。
「今日は鏡をご覧になりましたか。隈ができていらっしゃいますよ。万が一、殿下が倒れるようなことがあったら、私が陛下やジーラス殿にお叱りを受けてしまいます。聖女殿にも」
 ジーラスの指摘に、思わず目元に手をやった。そこまで酷い顔をしていただろうか、と考えて、先程あやうく机に頭突きをしそうになったことを思い出す。上手く頭が回っていないと、自分で裏付けているようなものだった。
「そこまで言われてしまっては仕方ないな。少しだけ休ませてもらおう」
「出過ぎたことを申し上げました」
「いいや。後は頼む」
 これ以上イゴールを困らせるのは本意ではない。ユイスは大人しく寝室へ向かうことにした。といってもすぐ隣の部屋である。休んでいても有事の際はすぐ動けるようにと、近くの部屋を仮眠用に空けてもらっていたのだ。もっとも、あまり活用されていなかったのだが。
 部屋を移ると、壁一枚隔てただけだというのに人の気配が随分遠くに感じられた。窓から差し込む日差しは少しばかり赤みを帯びていたが、日暮れというにはまだ早い時間だった。本来なら宿は早めの夕食をとる客で賑わい始める頃合いで、町中では暗くなるまで遊ぶ子供達の声が聞こえていただろう。だが今のリエドは重苦しい静寂ばかりが滞っていた。崇めてきた信仰からの裏切り、身近な者を亡くした嘆きと虚無感、それらが織りなす空気には当事者ならずともじわじわと心身を蝕まれていく。
 ――あの子はどうしたのですか。
 不意に、宿屋の老夫婦の姿が脳裏に浮かんで消えた。ユイス達と連れ立って出かけた少年が戻らないことに、彼らは不安と不信を隠そうとしなかった。神殿ではぐれて行方が分からない、という説明に、どれだけ納得してくれたことか。だが、老夫婦の疑念が事実になる可能性も少なからずあった。ヴァルトとの対立は避けられない。結果的に器となっているエルドを傷つけるか――あるいは、命を奪わなければならないかもしれない。ユイスとて、罪もない少年を手にかけたいとは思わない。しかし世界の秩序が崩壊しかねない状況を打破するのは、国を背負う者としての責務でもあった。必要なことだと割り切るだけの精神も、恨まれる覚悟も出来ているつもりだ。ただ、それは自身の心構えについての話である。
「……レイア達はどうしているかな」
 呟きながら、ベッドに倒れこむ。ここ数日は執務にかまけていたせいでろくに顔を合わせていない。ユイスが受け入れられても、彼女は酷く心を痛めることになるだろう。今も居心地の悪い思いをしているかもしれない。イルファでさえ気落ちしているように見えたから尚更だろう。それに、レニィから聞いた人柱の問題もある。こればかりは上手い落としどころが見つからない。どうにもならなければ、レイアを――。
「眠ろう。回らない頭で考えても、どうせ答えは出ないんだ」
 思考を打ち切り、言い訳のように独りごちて、ユイスは固く目を閉じた。幸い疲れた身体は思った以上に睡眠を欲していて、意識が暗闇に溶けるまではあっという間だった。

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