犠牲 4

 瞼を開くと、目に飛び込んできたのは見慣れぬ部屋の景色だった。身体を休めようと横になった素朴な宿ではなく、華やかな調度品と不思議と昼の明るさを保った部屋。更におかしなことに、なぜかユイスは床に転がっていた。確かにベッドに潜り込んだ記憶があるのだが、自分はこんなにも寝相が悪かっただろうか。
「……いや、いつまでも寝ぼけている場合ではないな」
 呟きと共にとりとめのない思考を打ち払うと、ユイスは上体を起こした。意識が明瞭になれば、見知らぬ場所ではないことはすぐ分かった。何度も似たような体験をすれば周りを観察する余裕も出来るというものである。ここは彼女たちの――時柱と名乗る二人の部屋だ。どういうわけなのか、ユイスの意識はまたもここへ流れ着いてしまったらしい。これもクロック症候群に関係するのだろうか。
「……来たのね」
 こちらが立ち上がるのを見計らったように、背後から声が掛かった。振り返れば、やはりそこにいたのはノヴァである。彼女の半歩後ろには、隠れるようにしてメネも立っていた。
「ご招待どうも、と言っておくべきか?」
「別に招いたわけではないのだけどね。まぁ積もる話もあるでしょうし、ちょうど良かったんじゃないのかしら」
 軽く肩を竦めてみせたノヴァの様子に、ユイスは眉を顰めた。どうやらこちらが何をいいたいかは察しているらしいが、それでも飄々とした態度を崩す気はないらしい。
「時柱が人柱そのものであると、あなた方が知らないはずがないな。なぜ黙っていた? レイアのこともだ。レニィの話は真実だと思っていいんだな?」
 こちらとて好きで招かれているわけではないが、顔を合わせたなら訊きたいことは山ほどある。溜め込んでいたそれらを言葉にして矢継ぎ早に繰り出すが、やはり彼女たちの反応は鈍かった。
「水の王にも、困ったものね。まさか全て話してしまうだなんて」
 億劫そうに、ノヴァは溜息を吐いた。ユイスの怒りに共感する様子も、理解する気配すらも見られない。その仕草の一つ一つが神経を逆撫でされているようで不愉快だった。しかしそんな心境に配慮がされるわけでもなく、更にノヴァの言葉は続いた。
「でも知ったなら話が早いわね。そう、貴方の大事な子は次の時柱となる者よ。今代の時柱が戻り次第、早々に代わってもらう」
 眩暈にも似た感覚が襲う。まだ別の道をがあるという期待を捨てきれていなかったのだと、ユイスは改めて自覚した。だが、だからといって、すんなりと受け入れられるようなものだろうか。
「――ふざけたことを」
 気付けば口に出していた。燻っていた激情が急激に熱を孕む。さも当然とばかりに犠牲を強いようとするノヴァたちが腹立たしかった。思い返せば海底の神殿で対面した時も引っ掛かりを覚えたのだ。幾度となくレイアに向けられた視線の意味も、今になって分かる。何も知らずに自分達の手足となって動くさまは、彼女たちからすればさぞ滑稽だったことだろう。人とそうでないものの感覚のずれがあるとしても、質が悪い。
「そんなに怒らないでちょうだい。やることに変わりはないでしょう」
「拒否する、と言ったら?」
 思わずそんな言葉が口をついて出る。反抗の意思すらないと侮られたくはなかったのだ。これで少しでもノヴァの表情が変われば溜飲が下がる、という思いもあったかもしれない――しかし。
「別に。貴方たちが滅びるだけ」
 眉ひとつ動かさずにノヴァは答えた。声音にすら僅かな動揺も見えない。理解していたはずだった。精霊と人とでは流れる時が違う。彼女たちも精霊に近いものだとすればこの反応も当然だ。助力してくれた炎の王も『それも人の定め』と言い切ったのだから。ただ、今は理屈よりもノヴァの態度が気に障って仕方なかった。そんなユイスを諫めたのは、他でもないノヴァ本人であった。
「少し冷静になりなさいな、ユイエステル王子。貴方が守るべきものは、なんなのかしら?」
 咄嗟に反撃しようとした言葉は、結局声にならなかった。ユイエステル・メレク。それが自分の名だ。国の名を冠し、国を守るべくして生まれる血筋の者。何よりも優先しなければならないのは人々の安寧だ。たとえ代償がなんであれ、それが揺らいではならない。我ながら、感情に振り回されすぎだ。それも指摘されるまで気付けないとは――否、きっと気付かないでいたかったのだ。
「……時柱というのは」
沈黙していた時間はそう長くなかったと思う。だが、それを破るのにはひどく気力が必要だった。握り締めた拳はじっとりと汗をかいていたし、視界は揺らいで目が回りそうだ。辛うじて出した声が震えていなかったのは、せめてもの矜持である。
「精霊に近しい者が選ばれる、と聞いた。それは必ずしもレイアである必要はあるのか。要はエレメンティアとしての力が強い者、ということなんだろう。たとえば、彼女には及ばないにしろ私にもそれなりの力がある」
 何を言っているのだ、と内なる声が己を責め立てる。身代わりを立てようとでもいうのか。それでも誰かを犠牲にすることに変わりはない。ましてやユイス自身がそうするなどありえないことだ。この命は国と民のもの。進んで死を選ぶなどあってはならない。
 口の中がやたらと渇く。指先から少しずつ身体が冷たくなっていくようだった。どうすればいいのか。何が最善なのか。分からない。
「どうあっても、彼女が犠牲にならなくてはいけないのか」
 ノヴァは何も言わない。もう分かっているのだろう、と言外に瞳が告げていた。結論はユイスの手の届かないところで既に決まっていて、あとはそれを受け入れるしかない。それが、どんなに堪え難いものだったとしても。
「――好きにすればいいじゃない」
 不意に、冷ややかな声が割って入った。メネだ。それまで口を挟むことのなかった彼女は、侮蔑もあらわにユイスを見遣った。
「それくらいなんだっていうの、イライラする! もう勝手にすればいいのよ。みんな死んでしまえば、悩まなくてよくなるわよ」
 そう吐き捨てると、メネはこちらに背を向け扉の向こうに姿を消してしまった。そんな片割れを見送った後、ノヴァもまた静かに息をつく。
「まぁ、私もおおむね同じ意見よ。クロック症候群をどうにかしたければあの子を捧げなさい。それが唯一の道。もちろん滅びを選ぶのも自由。私たちは、どちらでもいい」
 ぐにゃり、と部屋の景色が歪んだ。いや、空間そのものが揺らいでいるのだろうか。自身の存在が曖昧になり、徐々に意識が薄れていく。この夢現の狭間から、ユイスは放り出されようとしていた。
「待、て……」
「選びなさい。時柱を取り戻したら、答えを聞かせてもらうわ」
 その言葉を聞いたのを最後に、ユイスの世界は反転した。

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