人と精霊 4

 話に違わず、風の神殿への道程は険しいものだった。鬱蒼と頭上を覆う木々のお陰で薄暗く、湿り気の多い土は足が沈んで余計に体力を消耗する。道幅も狭く、太い木の根と苔むした岩があちこちにのさばっていた。階段と呼ぶにも躊躇うような、辛うじて人の手が入ったような段差を何度も越えねばならなかったし、ひとたび足を踏み外せば谷底へ真っ逆さま、というような場所もあった。
「おーい、大丈夫か?」
 ユイス達よりいくらか前行くエルドが、振り返り声を張り上げた。応えねば、と思うものの、息が切れて上手く言葉が出ない。黙って片手を挙げるのがやっとだった。
 慣れている、と自負していただけあって、エルドの足取りは軽快そのものであった。心配していた崖崩れもなく、多少のぬかるみはあるが道の状態は良いので歩きやすい――というのは彼の言である。とはいえユイス達は山歩きに不慣れで、特にレイアの体力がいつまで持つかが一番の気掛かりだった。エルド曰わく調子よく進めれば正午には着けるとのことだったが、太陽の位置を見るにとうにその時刻は過ぎていることだろう。
「もう少ししたら休憩できる場所があるから、そこまで頑張れよ。そろそろ飯にしようぜ」
 励ますようにユイス達の傍に戻ってきたエルドが、自分の荷物を示しながら言った。休憩、という言葉に僅かながら気力が戻ってくる。ただ、一番喜んだのは疲れとは無縁の精霊だった。
「おー、やったー! めしだー!」
「あ、こらイルファ! あーもう、俺先に行ってるな!」
 飯、という一言に反応して飛び出したイルファを追って、エルドは再び先の道を駆けて行った。よくもあれだけ身軽に動けるものだ。感心とも呆れともつかない溜め息を零しつつ、ユイスは背後を振り返った。
「だ、そうだ。歩けるか、レイア」
「……はい。なんとか」
 力なく微笑んだレイアに手を貸しつつ、ユイスは急勾配の斜面に挑み始めた。歩くうちに多少のコツは掴んでいたものの、エルドのようにはいかない。そういえば、神殿には苦行を積むことで精神を鍛える、という考え方がある。風の神殿は特にそれが強いと聞いた。こんな場所に神殿が築かれたのはそのせいなのかもしれない。
 苦心の末にようやく斜面を登りきると、確かにエルドの言った通り小休止が出来そうな平らな地面があった。
「来た来た、お疲れさん。な、大変だって言っただろ?」
 先んじて辿り着いていたエルドが、こちらの姿を見つけて手招きする。ユイス達が追いつくまでの間にすっかり食事の支度を整えてくれたようだ。地面に麻布を敷き、その上で荷物を解いてある。イルファ用にビスケットも持って来ていたようで、今は大人しく岩の上で嗜好品を楽しんでいた。
「ここまでは集団じゃ通れない道なんだ。迷いやすいし高低差がきついんだけど、こっちの方が早いからさ。この先からは広い参道に合流するから、多少は楽だと思うよ」
 話しながら、エルドはユイスの前に水筒を差し出した。近くの沢で新たに汲んできたものなのか、器越しにも少し冷たく感じる。彼の心遣いを有り難く受け取り、レイアにも水を回した。
「……本当に助かったよ、エルド。情けない話だが、私達だけではどうなっていたか分からないな」
「だろ? 案内料弾んでくれよな」
 満足気な笑みと共に、エルドはしっかりと対価をせびる。その抜け目なさに面食らいつつも、出し渋るわけにはいかないな、とユイスは苦笑した。
「それにしても……慣れてると言っていたが、神殿にはどれくらい通っているんだ?」
 喉を潤して一息つけば多少の余裕もでき、ユイスは道すがらに感じていた疑問を口にした。これだけ険しい道である。数回行き来したことがある程度では、あんな風に軽々と進んで行けると思えない。どれだけ足繁く通っているのか、少々気になっていたのである。
「うーん……三、四日に一度くらい」
「そんなに?」
 何の気なしにエルドが答えた内容に、ユイスは瞠目した。山登りの頻回さにもだが、何より彼がそれ程信心深いとは思わなかったのだ。彼自身、聖職者なんて柄じゃない、と言っていたので尚更である。ルーナやイルベスのように、街中に神殿があるのなら毎日通う者もいるだろうが――わざわざ頻繁に祈りを捧げに行く理由があるのだろうか。
「意外だな。失礼かもしれないが、そんなに熱心だとは思わなかった」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ。なんか習慣というか、行かないと落ち着かないというか」
 それを熱心と言うのではないか、と思いつつ、ユイスはそれ以上話を掘り下げるのはやめておくことにした。他人には話しづらいのかもしれないし、追及する必要性も感じない。代わりに、エルドが用意していた食事に手をつけることにした。食事といってもパンと少量の果物だけだが、疲労困憊の身には有り難い。
「そういえばさ、クロック症候群を調べて旅してるって言ってたけど、他はどんな所を回ってきたんだ?」
 ユイスに合わせてパンを噛み千切りながら、不意にエルドが切り出した。クロック症候群を持ち出されて微僅かな緊張が走ったが、すぐに聴きたいのは他のことだと分かった。一瞬その声はどこか弾んでおり、瞳は好奇心にきらめいている。彼くらいの年頃の、特に男子は旅人や行商人の話を聴きたがるものなのだ。見知らぬ土地への興味と憧れがそうさせるのだろう。ユイスにもそんな時期があったものである。
「そうだな、フェルダの町は知っているか? そこの神殿で――」
 期待に満ちた眼差しに応えるべく、質素な食事に彩りを添えるようにユイスは旅の過程を語り始めた。勿論、己の出自や精霊王とのやりとりなどは省き、他愛ない世間話に収まる内容のみだ。エルドが知りたいのはまさにその他愛ない内容であったはずなので、特にそれで支障はない筈である。
「そっか、いいなぁ……って、仕事なんだもんな、そんなこと言っちゃ駄目だな。でも俺、あんまり町の外に出る機会がないからちょっと羨ましいよ。なぁ、王都には行った?」
「王都、か。今回は、立ち寄らなかったな」
 行ったも何も出身地なのだが、ユイスの現在の身分はルーナの神官、ということになっている。万が一にも失言が無いようにと言葉を濁しつつ、ユイスは城に残してきた人々に思いを馳せた。父王やティムトは息災にしているだろうか。都の民に変わりはないだろうか。一応手紙を書いてはみたが、心配症の従者が胃を痛めているのはなんとなく想像がつく。
「ふぅん。王様がいる街ってどんなとこなんだろうなぁ……あ、王都っていえばさ」
 まだ見ぬ王都を夢想していたように見えたエルドだったが、ふと思い出したように首を傾げた。
「誰から聞いたんだったかな……噂だけど、王子様がすっかり公共の場に姿を見せなくなったとか。クロック症候群じゃないか、なんて言われてるらしいぜ。本当なら大変だよなぁ」
 不意打ちのようなエルドの言葉に、一瞬息が止まる。噂。それは酷く曖昧でありながら、時に真実を多分に含むものである。どこからか情報が漏れたのか、クロック症候群の不安に煽られた大衆の中で自然に生まれた話なのか、原因は確かめようもない。ただ、これが良くない傾向であることは確かだ。噂の内容がほぼ真実であると露呈すれば、少なからず混乱が起きる。
「そんな話があったんですね。私達がルーナにいたころは、聞かなかった気がしますけど……」
「そう、だな。ただの噂ならいいが」
 さりげなくレイアが出してくれた助け船に乗り、なんとか頷き返す。ぎこちない挙動であったことは間違いなかったが、幸いエルドはそっか、と軽く同調しただけだった。単に気にしていないのか――もしくは、レイアが会話に入ったからだろうか。
 最初からそうだったが、エルドはあまり積極的にレイアと言葉を交わさない。気のせいかとも思ったが、この道中でも彼からは殆ど声を掛けていないので、やはり避けているのだろう。レイアの方は特別エルドに悪感情があるわけでもないようなので、些か疑問ではある。ただの考えすぎ、だろうか。
「さ、飯も食ったし、そろそろ行こうぜ。早くしないと日が暮れちまう」
 ユイスが考え込むうちにエルドは辺りを片付け、服に付いた土を払って立ち上がった。彼の言う通りである。時柱の手掛かりが得なければいけないことを考えれば、些細なことで立ち止まっているわけにはいかない。
「全くだな。急ごう」
 エルドに倣って立ち上がり、レイアに手を貸し、イルファの所在を確認する。心の片隅に残るざわつきには耳を塞ぎ、ユイスは先を急ぐことに専念した。

コメント