光と影と 8

 少女の手のひらで、小さな炎が躍る。くるくると渦を巻きながら火の粉を散らし、それは童話に登場する妖精のような舞を披露した。
 かと思うと次の瞬間には炎は弾けて灰となり、そこから緑の芽が生まれる。瑞々しい新芽は見る見るうちに背を伸ばし、白い花弁を持つ可憐な花に成長した。やがて花はその形状を保ったまま、色味を失っていく。花弁の白も葉の緑も抜け落ち、それは揺蕩う水の花となった。最後には凍てつく冷気が急速に花を包み、少女の手に見事な氷の造花が一輪咲き誇っていた。
「はー、やっぱりエルシュは凄いね」
 感心しきりでルアスは呟いた。自習室、と称されるこぢんまりとした部屋の中で、二人は小さな魔法を見せ合っていた。とは言ってもルアスは出来ることが少ないので、主に見せる側になっているのはエルシュの方である。彼女の魔法は規模が小さくても多彩な輝きを放ち、その才能の片鱗を覗かせていた。ルアスは一連の魔法を眺めては感嘆の息をつくばかりである。
「将来は有名人かなぁ。お城に召し抱えられたりするのかも」
「そんなこと、ないよ」
 ルアスの賞賛に、エルシュは控えめに微笑んだ。それと同時に、氷の造花が砕け散る。微かに光を反射しながら舞う欠片を眺めながら、勿体ないな、とルアスは思う。せっかく綺麗なのだから、すぐに壊さないで取っておけばいいのに、と。
 今回に限らず、エルシュは自らの力を誇示するような行動を決してしたがらなかった。それは彼女の美点でもあったが、類い希な魔力を軽んじているようにも思えてならないことがある。それはルアス自身が魔力に乏しいから、という含みもあったかもしれない。
「……私は、ルアスみたいに治癒魔法が使える方が良かったな」
 こちらの心を読んだかのようにエルシュが言う。だがそれは、ルアスにとっては到底同意できない内容であった。
「確かに治癒魔法だけは僕の方が得意だけど、エルシュだって使えるじゃない。魔法師としてこの上ない逸材だって、シェイドも褒めてたよ」
「う、ん……」
 つい拗ねたような物言いをしてしまったせいか、エルシュは困ったように俯いた。
 ――否、正確にはシェイドの名前に反応したのだ。彼女は自分達の世話をする男がどうにも苦手らしい。理由は知らなかった。それを訊ねると、エルシュはいつも押し黙ってしまうのだ。しかし、この時に限っては少々事情が違った。
「ルアスは、シェイドが好き?」
「え? うん、まぁ、好きだけど……」
 脈絡のない質問に戸惑いながらも、ルアスは素直に頷いた。今ひとつ掴めない人物ではあったが、身寄りのない自分には親代わりのようなものだ。様々な知識を教わった恩師でもあり、慕うのは当然のことだった。だというのに、エルシュの口調はまるでそれを否定して欲しがっているように聞こえた。
「じゃあ、この『学院』が変だと思ったことはない? 殆ど地下ばっかりで、私たち以外の学生なんて見かけないんだよ」
 懸命にエルシュは訴えるが、ルアスにはぴんと来ない話だった。確かに彼女の言っていることは事実である。ルアス達が勉強する場所も生活する部屋も、全ては地下にあった。他の学生どころか講師として出入りする人間すら限られている。だが、ルアスにはそれが〈変〉であるのかどうかが分からなかった。何せ、十年以上前からずっと此処で生活しているのだ。物心つく前から慣れ親しんだ環境であり、自分にとってはこれが普通だ。その点エルシュが学院へ来たのはルアスより年嵩の頃だったので、何か思う所があるのかもしれない。
「僕はこれがずっと普通だったから……それに他の教室とか、たまに街に出ることとかもあるじゃない」
「それだっておかしいよ。行けない所の方が多いし、いつもシェイドや誰かがついて来て……まるで監視されてるみたい」
 言いながら、エルシュは両の拳を握りしめた。ルアスの方が間違っているのだ、とでも言いたげに頑なに否定する。それでもルアスが変わらないのを悟ると、エルシュは小さく息を吐いた。伏せられた橙黄色の瞳に映っていたのは、諦念と不安。ルアスはただ恩人とも呼べる人を悪く言いたくないだけなのに、何故かこちらがおかしなことを言っているような気分だった。
「……シェイドは怖い。だって、あんな話を――」
 吐き出すように何かを口にしかけて、途中で言い淀む。そして放ったのは、結局まったく別の言葉だった。
「私、ルアスのことは好きだからね」
「え、うん、ありがとう……?」
 首を傾げつつも、ルアスはただそう返すのみだった。
 ――エルシュの手によって学院から放り出されたのは、この数日後のことだった。思えばあれは予兆であり、ルアスが分からないでいた歪みを垣間見た瞬間だったのだ。今更それを理解し、愚かさを悔いたところでもう遅い。
「だから、貴方のことは私が守る」
 その言葉の意味にもっと早く気付けていれば、何かが違っていたのだろうか。

   ※

 目が、覚めた。眼前を覆うように視界を支配していたのは、灰色の地面である。ごつごつとした石の感触が不愉快で、片手で身体を支えて頭を起こした。どこかにぶつけたのか、動いた拍子に締め付けるような頭痛が襲う。それが治まるのを待って、ルアスは辺りを見回した。
 暗い。太陽は勿論、月や星の光が見えないことから室内であることは分かったが、自分の置かれている状況はさっばりだ。何度か瞬きをして目が慣れてくると、辛うじて周囲にある物の輪郭が見えてきた。とはいってもせいぜい自分が壁際に倒れ込んでいたこと、周りに何かごみのような物が散らばっていることくらいしか判断出来なかった。部屋の空気は湿気を含んでいて重く、不快な臭気が鼻をつく。息を吸い込めば肺に澱が溜まっていくようだった。肌に刺さる冷気と相まって、背筋に悪寒が走る。――だというのに、どこか馴染み深い空間のような感覚がした。ここは、何処なのだろう。なぜ自分はこんな所にいるのだろう。
「僕、は……」
 未だに靄がかかったような頭で、今に至るまでの記憶を探る。確か、家でゼキアと話をしていたのだ。そこに唐突にシェイドが現れて、訳が分からないうちに――。
「やぁ、目が覚めたかい」
 暗闇から響いた声に、意識は否応なく現実へと引き戻された。慌てて声の主を探して周囲を見渡すが、その姿は闇に溶け込んでいて目視することは出来ない。不安に身を縮めるルアスがおかしくて堪らないというように、低く喉を鳴らして笑う音が聞こえた。
「……シェイド?」
 訝しみながらも、ルアスはその名前を口にした。他に思い当たる人物などいなかった。
「手荒な真似をして悪かったね。何日も目を覚まさないから心配したよ……身体の調子はどうだい?」
 端から隠す気はないのか、シェイドは平然と言葉を続けた。しかし、その姿は未だ見えないままだった。白々しいほどの優しい声も薄気味悪かった。よく見知った優しい人の筈なのに、何故か猜疑心ばかりが募る。
「一体、どういうこと? ここはどこなの?」
 絞り出した声は、面白いほど掠れて強張っていた。全幅の信頼を恩師の不可解な行動、彼の意に従う黒い影。ルアスは混乱していた。酷く寒気がする。決して地下の空気が冷たいというだけではない。おぞましい。恐ろしいそんな言葉が相応しいように思えた。シェイドにそんな感情を持つなど、自分自身が信じられなかった。
 ――いや、正確にはシェイドだけではなかった。何か得体の知れない気配が、この部屋にはある。生物なのか“影”なのか、それとももっと違うものなのか、それすら判別のつかない異様な気配。視覚を奪われたままの現状ではその正体を掴むことは困難で、それが尚更ルアスの不安を駆り立てていた。
「さて、ね? 周りを照らしてごらんよ、ルアス」
 含み笑いをしながら、シェイドは言う。そう、始めからそうすればよかった。魔法を使って明かりを作れば、部屋の様相は容易く知れる。そんな簡単なことさえ頭から抜け落ちていた。
 だが、それに気付いてもルアスは躊躇した。怖いのだ。暗闇で何も見えないことよりも、照らし出される真実を見ることの方が恐ろしい気がした。この場所にある『何か』は、それだけ畏怖の念を抱かせるものだった。
 かといってこのまま固まっていても状況は変わらない。ルアスがやらなければ、恐らくシェイドが辺りを照らすだろう。彼は、ルアスにこの部屋を見せたがっている。短いやり取りの中で、それを確信した。彼がどこか面白がっていることも。
 己を奮い立たせ、ルアスは両手の中に光を集め始めた。小さく朧気な光は徐々に白く輝きを増し、人の顔ほどの大きな光球となる。その明かりに照らされ浮き彫りになった周囲の様子に、ルアスは驚愕した。
「あ……」
 喉が、引き攣る。
 目覚めた時に感じた臭気の正体が分かった。辺りに散乱していたのはごみなどではなかった。いや、既に機能を果たさない不要品という意味では、正しいのかもしれない。たがそれらを“ごみ”と称するのは、己の倫理観が許さなかった。
 辛うじて布を纏った腐肉。獣に食い散らかされたかのようにバラバラになった塊は、原形を留めてはいなかった。それでも、かつては自分と同じ形をした生き物だったことは容易く想像出来る。千切れた五本の指、腹からはみ出た臓物、切り落とされた一房の髪。腐乱した、或いは干からびた、無惨な人間の残骸にルアスは取り囲まれていた。壁や床に残る赤黒い染みは、とても一人二人のものとは思えない。
 ――いったい、これは何なのだろうか。悲鳴を上げることすら出来ずに、ルアスは目の前の凄惨な光景を凝視する。ようやく目に映るものを現実として認識した瞬間、ルアスは堪らず嘔吐した。鼻につく腐臭、醜悪な残骸、それらを五感全てが拒絶しようとする。震えが止まらない。頭の中は真っ黒になり、誰かにぐちゃぐちゃに掻き回されているような気分だった。
 喉が焼けるような感覚に噎せ返りながら、胃がひっくり返るかと思う程に吐き尽くす。呼吸さえままならなくなりそうになってようやく、ルアスは顔を上げた。のろのろと、救いを求めるようにしてシェイドを探す。さほど労せずに見つけた男は、部屋の奥で悠然と微笑んでいた。彼に向かって言葉を発しようとして、再び息が止まる。シェイドの横に、死体よりも更におぞましいものを見たのだ。
 人、かと思った。体格はルアスの二倍はあろうかというほど大柄で、剥き出しの肌は気味が悪いほど青白く生気がない。一糸纏わぬその身体の作りは、あまりにも歪でちぐはぐだった。右手が少女のように華奢かと思えば左手は武人のように屈強、下肢には関節が二つもある。不均衡さは全身に当てはまり、男と女と子供を継ぎ接ぎにしたような印象を受けた。否、事実そうであろう。肌の上にはひび割れたような線が幾つも走り、それを境として肌の色や骨格が切り替わるのだ。眉も鼻も唇も全て違うものが組み合わされた顔に表情は見えず、ただ両の眼窩だけが底知れぬ闇を湛えていた。そして、『彼』にまとわりついている黒い靄のようなもの。よく見れば、それは身体の繋ぎ目から少しずつ漏れ出してきているようだった。空間に揺蕩う靄に少しでも触れれば、形容し難いほどの絶望感と恐怖に飲み込まれそうになった。
 ――人の皮を被った異形の“影”。言うなれば、そんなところだろうか。ルアスは己の目を疑わずにはいられなかった。こんな存在が有り得るものなのか、と。
「なかなか、面白い光景だろう?」
 暫し無言で佇んでいたシェイドが、ようやく口を開いた。誇らしげにも聞こえるような口調に、ルアスは困惑した。何より異常なのは、彼なのかもしれない。こんな状況で平然として、それどころか笑みを浮かべているなど正気の沙汰ではなかった。理由が想像できないわけでは、ない。ただ、考えたくなかった。全ての感覚を閉ざして思考を放棄してしまえたら、どれほど良かっただろう。しかし、シェイドがそれを許さなかった。
「これはね、我々の“神様”なんだよ」
「かみ、さま?」
 朗々とした声が、耳障りなほどに空気を震わせた。神、と言っただろうか。呆然とその単語を繰り返したルアスを見て、シェイドは鷹揚に頷いた。良くできたね、と幼子を褒める時のようだった。かつて、物心つくかどうかのルアスにそうしていたように。
「ルアス。光の神話を知っているかい」
 違和感を拭えないままのルアスの耳に、唐突な問い掛けが届いた。反射的に頷いてから、何故そんなことを訊ねるのかと疑問に思う。
 光の神話とは、広くエイリムに語り継がれている伝説である。光の生まれた日、という題で知られ、知らない者の方が異端とさえ扱われるほどだ。特に、魔法師には縁の深い話である。

 古の世界、陽が落ち、夜の帳が降りると、そこに一切の光は存在しなかった。闇の中にはあらゆる悪しきものが蔓延り、野を荒らし、家畜を襲い、人々を苦しめた。その様を嘆いた神は夜に太陽の光を反射する鏡を夜に置き、それが月となった。鏡に弾かれて砕けた光は星となり、夜にもたらされた灯火に人々は安堵する。
 しかし闇の魔物たちはしぶとく影の中に生き残り、ついには人を食らい始めた。命を奪われる人間を目の当たりにした月と太陽は、神に提案する。我らの力を人に分け与えてはどうか、と。直接与えるには光の力は強すぎたため、地水火風の力を司る子を生み出し、彼らを通して神々の力は人にもたらされた。人間はそれを『魔法』と呼び、闇の魔物に対抗する術として重用した――。

 ただのお伽噺ではなく、魔法の起源となる真実の物語として伝えられている。光の子、などという呼称もこれが由来である。太陽と月から直に力を賜った、奇跡の子。それゆえに魔力も強く、全ての属性を扱えるのだと。
 だが、それが今何の関係があるのだろう。訝しむ間に、シェイドが再び口を開く。
「その話をどう解釈する? 人々は安寧を得た。しかし、蔑ろにされた影の民はどうだろうか」
「蔑ろ……?」
 奇妙な言葉の選択に首を捻ると、そこで初めてシェイドが顔をしかめた。
「そう。人間は救われたのかもしれない。人間だけは、ね。我々は、決して顧みられることはなかった」
 侮蔑するような冷ややかな声で、シェイドは言った。嫌悪感がありありと現れた声音に、ルアスの戸惑いは更に深くなる。――それに、我々、とは。
「闇があったのは、その中で生きる民がいたからだ。君達が“影”と呼び、蔑む者たちが。彼らはただ生きているだけだった。人が獣を狩るように、野にある食べ物を集めていただけ。それを神だかなんだか知らないが、勝手に闇の領域を侵して支配してくれた。結果、影の民は行き場を失った――同じ地に生きる命だったのに、これが蔑ろでなくて何だというんだい? 自分達の領域を守るために、彼らが人と戦うのは当然だろう」
 さもその光景を目にしてきたかのように、シェイドは語る。その口調は明朗で強く心に訴えかけるもので、聞く者を『その通りだ』と頷かせるような力があった。ルアスがそう出来なかったのは、ひとえにそれが“影”の視点によって語られたものだったからである。“影”は人を襲う化け物だ。そこにけだものとしての本能はあっても、理性など持ち得ないはずだ。人と同じように苦悩する姿など、想像も出来なかった。長く語り継がれてきた神話を、狂気で歪んで捉えているとしか思えない。
 そんなルアスの考えを察したのか、シェイドは更に続ける。
「影の民は人に劣るものではない。知性ある、誇り高い者達だった……長い間身を隠し続けるうちに、薄れていってしまったけどね。でも人への恨みを忘れてはいない。本能として残っている」
 それが、度々人間と相対する今の“影”だという。己の語ることこそが真実だと、シェイドは断言する。だがルアスは一般的な現代人の思考の持ち主であったし、とても彼が論じる内容にはついてはいけなかった。全てを信じるなら筋が通った話だと言えなくはない。しかし、こんな突飛な内容をどう信じろというのか。シェイドは、自分に何を求めているのだろう。
「いくつか、質問したいんだけど」
 重く、息を吐いて、ルアスはようやく言葉を絞り出した。未だに頭の中は酷く混乱している。ただ、自分が置かれている現状が非常に宜しくないものだということだけは理解できた。立ち込める死臭と、狂気に取り付かれたような男。それらに囲まれてた状況がまともであるはずがない。泣き喚いて逃げ出してしまいたい。
 なのに、ルアスには無視できない様子が多すぎた。
「……構わないよ。言ってごらん」
 薄く微笑みながら、シェイドはそう返した。今し方の狂気は鳴りを潜め、声音はいたって穏やかだ。昔、勉強を見て貰っていた時の記憶が、一瞬頭を掠める。だが彼にその面影を見ることはもう許されない――自分の知るシェイドは、もういないのだ。
「その解釈は、随分“影”の側に偏った考え方だよね。それに我々、って――貴方は、何?」
 滑稽だ、とルアスは思った。だって、既に答えは知っている筈なのに。
 それを嘲笑うかのように、シェイドがくつりと喉を鳴らした。
「それは、君も大体想像がついてるんじゃないかな」
 言いながら、シェイドはおもむろに胸の前へと手を差し出した。その指先が、不意に歪む。そこから闇に浸食されるかのように、シェイドの手は見る見る漆黒に染まった。次の瞬間には腕全体が崩壊して形を失い、黒い霧のように辺りに広がっていく。しかし隻腕となったのも束の間で、今度はその霧が身体の欠けた部分へと集い始めた。驚きに声を上げる暇もなく、霧はシェイドの腕を形作っていく。時を巻き戻すかの如く元の形を取り戻し、シェイドは不具合の有無を確かめるように腕を何度か屈伸して見せた。
「ご覧の通り、私は人じゃない。“影”が凝った存在とでも言えばいいかな。たくさんの“影”達の意識が一つになったようなものさ」
 ――ああ、やっぱり。
 ルアスは心中で呟く。シェイドの回答は予想していたものと大差なかった。たくさんが一つになっている、というのは上手く飲み込むことが出来なかったが、要するに、彼は化け物なのだ。人を襲って食らう、敵。驚くほど無感動に、ルアスはその事実を認識していた。
「……光の下でも、歩いていたのに?」
 ただ、疑問が残るのはその部分だった。なぜ人と同じように街を歩けていたのか。普通ならば“影”は光を忌避するし、太陽の下に身体を晒せば苦悶する。しかし彼はそんな素振りを全く見せなかった。
「“影”とて成長するものだよ。光から力を得た人を食らい続ければ、耐性がつくこともあるだろうさ」
 さも当然、というようにシェイドが答えた。人を食らう、と躊躇いもなく口にする姿に悪寒が走る。今までもルアスと肩を並べて歩き言葉を交わす傍ら、殺戮を繰り返していたのだろうか。限りなく確定事項に近いであろうその仮定が恐ろしく、自身も補食の対象となり得るという事実にルアスは身震いした。自分は、食われるために連れてこられたのか。
「質問は終わりかい?」
 だが、今シェイドはルアスに発言を促すばかりで害意は感じられなかった。それにますます違和感を募らせ、ルアスは問い掛けを重ねた。
「なぜ今まで人間のフリなんかしていたの。さっきの神話の話は何が言いたいの。僕にこんな話をしているのはなぜ? ――目的は、何?」
 最も、核心に迫る質問のはずだった。どうやら命の危機らしいという状況は飲み込んだものの、何が、何故という部分は全く見えないままだ。答えないだろう、とは思った。シェイドは、悪巧みをするのにみすみす手の内を明かすような間抜けではない。だが予想に反して、彼は饒舌に理由を語り始めた。
「うーん、こうやって話してるのは退屈しのぎ……時間潰し、かな。後は理由くらい教えてあげようかと思って。君は素直でよく懐いてくれたし、それくらいはね」
「理由……何の……?」
 訝しむルアスを無視して、シェイドは言葉を継ぐ。此方を一瞥した表情には微かに喜色が滲んでいた。
「神が、光が我らを見捨てるなら、我らは我らの世界を造る。この“神様”はね、そのために造ったんだよ。私自身が複数の“影”が一つになったものだし、手助けすれば人為的に強い個体も造れる筈だ。土台は“影”だけど、効率良く人の魔力を吸収出来るように身体を繋ぎ合わせてね」
 宝物を見せびらかす子供のように、片手で傍らの異形を指し示す。語る間も継ぎ接ぎの“神様”は微動だにせず、糸の切れた人形のようにその場にあるだけだった。ただ、身体からは絶えることなく黒い靄が漏れ出している。
 ルアスはふと、その靄が宙で滞っている箇所を見つけた。靄は身を寄せ合うようにして、緩やかに一カ所へ収束していく。暫しその場に浮遊した後、靄の塊は徐々に下降し床にぶつかった。周囲には、黒い水溜まりのように沈殿した靄。ろくに手入れもしていなさそうな古い地下室なのに、地中にしみてはいかないのか――ぼんやりとそんな疑問を抱いた瞬間、不可思議な現象が起きた。
 突然、床の水溜まりが意志を持ったように波打ち始めた。風に吹かれたわけでも、誰かが波立てているわけでもない。靄だったものは確かな質量を持ち、細長く立ち上がった。そして再びぐにゃりと形を変え、小さな魚のような姿が宙に出来上がった。黒い魚は小さくその場で身をくねらせたかと思うと、ぱしゃん、と音を立てて地中へと飛び込んだ。水面で小魚が跳ねたかのような、ごく自然な動き。瘴気が集って命を宿した――そんな風に、見えた。
「……苦労の甲斐あって、こうして新たな“影”を産み出すほどになったんだ」
 未知の出来事に放心するルアスの耳に、シェイドの声が響く。ルアスが一連の様子を見届けるのを待っていたような頃合いだった。
「ここから産まれるのは、魔法に耐性のある子が多くてね……光の慈愛を受けた人間を食らい続けただけのことはあったよ」
 その言葉を聞いて、ルアスは自分が何故ここにいるのかを悟った。この異形の“影”は、光の子を何年も食らってきた――自分やエルシュのような者を集めて、シェイドが与え続けてきたのだ。学生として過ごした時代、外界との接触が極端に少なかったのも、自分達以外の学生を見かけなかったのも、全てはそういうことだったのである。家畜を太らせてから食べるように、大事に大事に飼われていた。エルシュがおかしいと訴えたことは正しかった。物心つくかどうかの頃から刷り込まれていたとはいえ、疑問さえ持たなかったなんて。
 ――なんて、滑稽なのだろう。
「最初から、だったの」
 みっともなく震える声で、ルアスは尋ねた。いや、もはや疑問ですらなかった。既に確信してしまったことだ。
「そうだよ、流石に気付いた? なかなか大変だったんだよ、光の子を集めるのは。ただでさえ数が少ないし、周囲の人間も手放したがらない。その点、君の母親は金をちらつかせただけで喜んで差し出してくれたから良かったよ。小さい子供なら、上手く騙して力が成熟するまで待てばいいし」
 こちらの心情を慮る気など更々無いらしく、シェイドは訊いてもいないことまで喋ってくれる。かつて夢心地に聞いていた祖母の言葉は、このような事態を恐れてのものだったのかもしれない。母が金の為なら己の子でも
差し出す女だと、彼女は知っていたのだ。金で売られ、“影”に食われるためだけに生かされた――向けられた笑顔も、掛けてくれた言葉も、築いてきたと思っていた信頼も、全部嘘。なんと惨めで、愚かな人生だったのだろう。
「本当に、ここまで来るのに苦労したんだよ。エイリム王の協力が得られるようになってからは、光の子を集めるのもだいぶ楽になったけどね。同胞達のために貧民街を提供してくれるって言うし、今の王様は太っ腹だよね。お陰でこの“神様”もあとは最終調整だけなんだ」
 俯くルアスに構わず、滔々と彼は語る。不穏な発言が次々と飛び出している気がしたが、全くと言っていいほど頭に入ってこない。
「――力が増大したのはいいけど、膨大な魔力のせいで少し不安定なんだよね。私としたことが考えが足りなかったよ。もっと早くから封力に優れた魔法師を探すべきだった……君みたいな、ね」
 愉悦に満ちたシェイドの言葉を、ルアスはどこか遠くに聞いていた。言っている内容は理解できる。自分は、あれに食われてしまうのだろう。骨も残さず全て飲み込まれてしまうのか、辺りの骸と同じように食い千切って捨てられるのか。その瞬間の惨状は容易く想像できるのに、付随する感情が何一つとして湧いてこなかった。焦りも恐怖も憤りもない。ただ虚無感だけが、ルアスの胸を支配していた。
 ――もう、どうでもいい。
 自分は始めから何も持っていなかった。大切にしてきた筈の思い出は何もかも偽りだった。全てがシェイドの思惑通りだ。抵抗したところで何になろうか。
「ルアス。君を取り込めば、“神様”は完成したも同然だ」
 ひやりとした感触が喉元を撫でる。浚われた時と同じ影の手だと分かったが、ルアスにはもう逃げようとする意志さえなかった。この状況下で一人、何も出来るわけがない。3せめて苦痛が一瞬であるようにと祈りながら、目を閉じる。耳障りな轟音が響いた。まるで壁が崩れるような音が鼓膜を震わせる。あれだけ巨大な化け物が動くなら、周りの物を巻き込むのも仕方ないのだろう。
 だが、何かがおかしい。次の瞬間にも摘み取られると思っていた命は、まだ自分の中にあった。訝しむルアスの耳に、予期せぬ人物の声が飛び込む。
「――ルアス!」
 既に懐かしくさえ思えるその響きに、ルアスは再び瞼を開いた。

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